全ての始まり
シトシトト小雨の中、小柄な少女が小走りで家路へと急いでいた。
心臓が早鐘のように波打ち、小走りの足は微かに震えていた。それさえ今の彼女には気づかない。いや、気づけない。
昔の街並みを色濃く残すこの住宅街を、ただひたすらに走っていた。
後ろを振り向いてはいけない。
振り向いたら最後、自分は『捕まってしまう』。危機本能が彼女を足早に家路へと急かす。正面には見慣れた白い塀。
(…あと少し!)
目の前の角を左に曲がればそこには自分の家がある。
そう…――あるはず、だった。
小雨の中走っていた少女は、その日を境に姿を見ることはなかった。
※
暦の上ではもう秋だと言うのに、まだ真夏のような暑さがのこるこの時期。
季節の変わり目特有の突然の雨に、玉木千夏(たまき ちなつ)は小さくため息をついた。
場所は渋谷・道玄坂。
普段人通りの激しいこの道は、若者が集まる事でも知られている。
それが今は突然降りだした雨に人込みは引け、雨宿り場所を探すためか急ぎ足で道を駆けていく。
日傘と雨傘兼用は実に役に立たった。出かける時にこれを渡した母を心の中で罵ったことも棚に上げ、千夏は軽くくるりと傘を回し手元の紙に目を落す。
白いメモ書きには、目的地である『とある事務所』の住所と簡単な地図。簡単といっても複雑な交通網の東京だけに、書いてある内容は細かい。
今から行く所は、友人の先輩からの紹介なのだが、なにぶん東京事態初めてのこと。
クモの巣のように編み廻らせた公共網に、年中お祭りでもあるのでは?と勘違いさせられる人の多さ。
そしてきわめつけはこの雨。蒸し蒸しとした空気に知らず顔を顰める。
気分は最悪と言ってもいいほどだ。
それでも今地元で起こっていることを無視するわけにもいかず、こうして出向いたがどうしたものか。
千夏は人生初の東京にして、人生初の迷子になっていた。
「くっそ。だから私じゃなくて優紀(ゆうき)の方がよかったんだ」
県庁所在地の観光都市から離れた町育ちの自分には東京は未知の世界だ。地元は田舎だが、ドがつくほど田舎なわけでもない。
基本インドアな千夏は地元から出ることはなく、あっても近場といった狭い行動範囲で育ったゆえにこうして迷子になってしまっていた。
対して双子の妹の優紀は活発でアウトドアな性格をしているために、よく旅行に出かけている。当然東京にも詳しいはずだが、とうの妹は騒動に巻き込まれた友人につきっきりで来ることができなかった
悪態をつきつつ千夏は周囲を見回す。エスカレーターでのぼった先にある白い石のオブジェが目印。開放型のホールには、いくつかのテナント。目的地はそのテナントの一つ、
メモはそんな情報が書き込まれているが、今の千夏には意味のない書き込みでしかなかった。そもそも今自分がどこにいるのかもわからない。
今日中につけばいいが、もしかしたら明日また来なければならなくなるかもしれない。いやまず自分はホテルに戻れるだろうか。
紙とにらめっこし、また周りを見る。道行く人に聞きたいが、誰もが自分のことでいっぱいらしく、声をかける隙すらない。
ここはどこかの店で聞くしかないと肩を落として歩きだした瞬間、「あの……」と声をかけられた。
振り向けば小柄な少女が不思議そうに首を傾げている。
色素の薄い髪と目に低めの身長。同年代かそれよりも下であろう少女は、もう一度「あの何か困りごとですか?」と聞いてきた。
「間違っていたらすみません。困った顔で周りを見てたからどうしたのかなって思って」
「あ、いや、助かった。ちょっと行きたい所があったんだけど、場所がわからなくて困ってたんだ」
「そうなんですか。えーとどこに向かってたんですか?よろしければ案内しますよ」
「いや、道を教えてくれれば大丈夫。ありがとう」
親切な少女に笑って返せば、少女はキョトンと目を瞬かせ「わかりました」と微笑みながら今度は場所を聞いてくる。
「ここなんだけど分かるかな?」
「…………」
少女にメモを見せると、彼女は目を見開き固まってしまった。
そういえば表記は外国語だが、日本語に変えるとちょっと怪しい場所になる。
もしかしたら、ちょっと頭のおかしな人に思われたのか。参ったなと内心呟いた千夏の腕を、少女はガシッと掴んでこう言った。
「久しぶりのお客さんだ!」と。
いきなりの歓声に唖然としていた千夏の手には、『Shibuya Psychic Research』と書いてある紙が握られていた。
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