序章 若き伝説の大賢者
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――ここはどこだろう。私は誰なんだろう。何か、とても大切なことを忘れてしまった気がする。それは、なんだったのだろう。
不意に目の前の透明なバリアのようなものに触れると、バチッと手が弾かれた。痛い。ジンジンと手が痺れる。何か結界のようなものに守られていて、それは内側からだと壊せないようにできているようだった。自分ではどうにもできそうにない。
本当に訳の分からない場所だ。どうして私はこんなところにいるんだろう。どうして私は、自分のことがわからないのだろう。私はどこの誰なんだろう……?
少女の心は凍てついた氷のように固まっていた。最早、考えることも嫌になっていた。力なく「はぁ……」と小さな溜息をついた、その時だった。
パリン。結界のようなそのバリアは、割れたガラス玉のように弾け散っていった。――何が起きた。少女はぼんやりと困惑していた。
「お姉さん!大丈夫!?」
鮮やかな緑色の髪。澄んだ無垢な瞳。結界を破った魔道士の少年を、少女はどこかで見たことがあるように感じていた。懐かしい。この感覚はなんだろう。
「わわ、ひどいケガ!今エレンさんを呼んでくるからね!」
まだ声変わりのしていない少年の中性的な声は、脳裏に誰かの声と重なって聞こえた。『大丈夫?セラス』と心配そうに駆け寄る、同じ鮮やかな緑の少女。優しくて明るい声。
「チャド!エレンさんを呼んできて!早く!!」
「わ、わかった!任せろ!」
緑の髪の少年が身のこなしの早い茶髪の少年にそう伝え、茶髪の少年はすぐにエレンと呼ばれたヒーラーと思われし女性を呼びに向かった。
シスターのような真っ白な装束を身に纏ったその女性は、チャドに呼ばれすぐに少女の元へ現れた。彼女がエレン。彼らの軍のヒーラーらしい。
「チャド、案内ありがとう。ケガ人というのは……この子?」
「あぁ。結界みたいなのに閉じ込められていたんだ。結界はルゥが壊したんだけど……」
「結界……まさか、ベルンが……?」
エレンと呼ばれたシスターの女性は青ざめた顔で少女に駆け寄った。すぐに治癒の力を降り注ぐ。ライブの杖の光が少女の身体の傷を癒していく。その様子をルゥとチャドがずっと見守っていた。大丈夫だろうか。死なないだろうか。そんな心配そうな目で、少女を見つめていた。
その間に銀色の金属で作られたまるで牢の扉のような門がガチャリと開いた。その中から炎のような赤い髪の少年が現れた。急いできたようで息が上がっていた。
「チャド!ルゥ!見つかったみたいだね……!ありがとう」
「ロイ様!」
ロイと呼ばれた赤髪の少年の方へ、ルゥが振り返った。チャドも無言のまま冷静に振り返る。
「シスター、彼女は治りそう……?」
「えぇ、ロイ様。もう少しで治療も終わります」
「よ、よかった……。彼女の身に何かあってはヘクトル様に申し分ないからね」
ホッと肩を撫で下ろすロイ。彼の口から発せられた「ヘクトル」という名に、彼女は聞き覚えがあるような気がしていた。懐かしい名のような。もう何年も聞いていなかったような。
エレンの杖の光はやがて止み、消えていく。治療完了の合図だった。ルゥとチャドも安心そうに一息ついていた。
「これで治療は終わりましたよ。大丈夫?お嬢さん。立てる?」
エレンの言葉に少女は小さく頷いた。久しぶりに立ち上がったような不思議な感覚だったが、エレンの治療のお陰で身体に痛い箇所はどこにもなかった。
桜のようなロゼ色がかった銀髪。色彩の薄い透明な瞳。まるで冬の空に浮かぶオーロラのような彼女は、この牢の中で見るにはふさわしくない場違いな美しさを保っていた。
「よかった~!お姉さんが助かって!もうダメかと思ったよ」
「初めまして。君がヘクトル様と父上……エリウッドの戦友だね」
エリウッド。聞いたことがあるような気がする。懐かしい名前。――なのに何故思い出せないのだろう。何故、こんなにも脳裏にしがみついて離れてくれないのだろうか。
「……」
「あ……ごめん、いきなりこんなこと言っても混乱しちゃうよね。僕はロイ。フェレ候、エリウッドの息子なんだ」
「……侯爵、令息」
「……父上とヘクトル様を、知らないの……?」
やっと少女が口を開いたと思えば、その一言だけだった。口数は多い方ではないらしい。無表情。まるで、感情や表情まで氷に奪われたような。ロイもその少女の言動に困惑する。あまりにも静かすぎるのだ。
父が昔からよく話してくれた戦友。そして先程息を引き取った父の親友、ヘクトルが遺言として残した若き大賢者。その強大な力は計り知れず、かつて伝説の大賢者アトスが「次世代の大賢者」と認めた実力を持つとか。しかし、20年前の戦後彼女は何者かに攫われ消息を絶ったという噂も広まっていた。
「なぁ、ロイ様。人違いなんじゃねーの」
「ちょっとチャド……!」
「だってそうだろ。この女、オレやロイ様とそんな歳変わらなさそうだし」
「確かに……父上の戦友にしては若すぎるよね」
ロイも少し考えだした。確かにこの少女の年齢は見たところ大体15か16ほど。ロイとそこまで変わらなさそうにも見える。そんな若い少女が20年前の戦争で活躍したとは思えない。年齢的に計算が合わない。
騒ぎを聞いてマーカスやマリナスがロイ達の元へ到着した。後ろからアレンやディークがなんだなんだとこちらを覗いているのを、ランスとシャニーが止めに入っていた。
「ロイ様!見つかったようですな!!」
「懐かしゅうございます……セラス様」
「え?」
ロイやルゥたちが一斉にマーカスとマリナスの方へ振り返った。少女は小首を傾げている。何のことかわからないようだ。
マーカスとマリナスは懐かしそうに、涙腺を堪えていた。セラスと呼ばれた少女。セラス――それは戦場に出ている者の中で知らない者はほぼいない。全員がゆっくりと少女の方へと目線を向けた。
「セラスって……」
「あの伝説の……?」
「ほう、今は無きファネス公爵家のなぁ……」
「え……それって消息不明の大賢者様……?」
アレン、ランス、ディーク、シャニーが次々と驚きの声を上げていた。後ろからわいわいやってきたウォルトやボールス、後方を警備していたワードやロットすらも驚いている。
孤児院出身のルゥとチャドのみがよく分からないと言った顔で首を傾けていたが、隣でエレンが更に顔を青ざめたところから大賢者セラスの噂は大体の者が知っているらしい。
「マーカス。じゃあ彼女が、本当に……?」
「間違いありません、ロイ様。彼女こそが亡きファネス公爵の忘れ形見……大賢者セラス様ですぞ」
ファネス公爵家。今は無きイリアの大貴族の名門で、その名はエトルリアのリグレ公爵家と並ぶほど。この少女こそが20年前の戦争で黒い牙に襲われ滅んだ貴族の生き残り。そして、伝説の若き大賢者だった。
ロイは驚きながら、セラスと呼ばれた銀髪の少女をじっと見つめた。――見えない。自分と同年代くらいの少女が20年前から生きているとは。この少女は何歳なんだ。
「……えっと、セラスさん?君……いや、貴方が……?」
「セラスでいいわ」
セラスは淡々とそう答える。物静かで、まるで北の氷のように冷たい声。何も感じていないかのような。
「……貴方は、私を知っているの?」
「え?」
「何も覚えていないの。何も知らないの。どうしてここにいるのか……何があったのか」
「そ、それって……」
「記憶喪失ですな……これは弱りましたわい」
マリナスが困ったように項垂れた。自分のことを覚えていないとは。20年前、光のように輝いていたあの少女とはまるで別人のようにも感じた。しかし、この姿を見間違えるはずもない。
マーカスがハッと辺りを見渡した。結界装置。そしてそれを解いた痕跡。――もしや、ベルンが。
「ロイ様。セラス様はこの結界の中に?」
「え?あぁ、そうみたいだよ。チャドがここの鍵を開けて、ルゥが結界を解いてくれたんだ。そうだよね?」
ロイの言葉にルゥとチャドが強く頷いた。盗賊であるチャドがここを盗賊の鍵で開けてくれた。その後、魔力の高いルゥが結界を解くことに成功したのだ。その事実にやっと理解したマーカスが、セラスの方へとゆっくり振り返った。
「……もしや。いや、ベルンの力はそこまで強力なものになっているということか……」
「どういうこと?」
「……ヘクトル様の遺言によると、セラス様は長年ここで監禁されていたようですな。しかしそれにしては私が20年前に見た姿と変わっておらん……」
「そういえば確かに妙ですな……セラス様は当時15歳だったはずじゃが……」
ヘクトルの遺言はこうだった。――この地下牢の一番奥の部屋。強い魔術でつくられた結界の中に囚われた友人がいる。長いこと結界の中にいたらしい。そろそろ解放してやってくれ、と……。
ということは35歳。見えない。どう考えても10代そこらの少女にしか。ロイだけでなく他の者たちも驚きが隠せないようで、顔を見合わせてひそひそ話を始めていた。マーカスはそんな周りの様子など気にも留めず、言葉を続ける。これがもし本当なら、セラスはまた命を狙われることになる。
「……ロイ様。セラス様はベルンの結界で保存されていた可能性があるのです」
「ほ、保存!?」
「ベルンなら確かにやりかねませんな……若い身体の方が魔力は安定する……」
「じゃあ、セラスは20年前と変わらない姿で結界の中に……?」
「恐らく。そうでなければ説明のつきようがありませぬ」
マーカスは深くうんうんと頷いた。しかしその固く握られた拳の中では欠陥が浮き出るほどに怒りを覚えていた。――ベルンめ。よくも大賢者アトスが遺した我らの若賢者様を。
「……ロイ様。とりあえずここを出ましょう。追手が来ては厄介ですぞ」
「ロイ。私も……連れて行って。戦争、しているんでしょう?戦うわ」
「あ、あの……!僕からもお願いします!ロイ様!」
「こ、これ若造!ロイ様に何たる失敬な!」
「ごめんなさい。でも、セラスさんは困っているみたいだから……僕たちで何か力になってあげたいんだ!」
「うん、勿論だよ。ルゥ。僕も同じことを考えていたんだ」
力になりたいと前に出るルゥと、戦うと申し出た冷たい瞳の少女セラス。二人の言葉に頷いて、ロイは優しく微笑んだ。
「困っている人をそのままにしてはおけないよ」
「ありがとう、ロイ。……ありがとう、ルゥ」
セラスのその声はやっと氷が少し解け始めたかのように穏やかで、少しだけ温かみを帯びていた。ロイとルゥに感謝という意を覚えたのかもしれない。それが彼女なりの戦いの意志だったのかもしれない。もしかすると、どちらでもあったのかもしれない。
これが若き伝説の大賢者、セラスとの出会い。ベルン軍と戦うロイ達の軍に加わったセラスは、再びベルン軍に狙われることになるだろう。その戦いの中で手にする結末とは、如何に――。
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