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「…あるじゃないか。」
「どうやら見落としていたようだ。」
あのやりとりから数分後、俺たちは調理場の扉の前にいた。
無いと思っていた調理場は書斎からそこそこ遠い場所にあった。ダフネは怒ってこそいなかったものの俺はなんとなく申し訳なくて彼女の顔を直視できなかった。
だが屋敷に来たばかりの時に全ての部屋の扉を開けて確認した俺は、ここが元々何もない部屋だったと確認していた。…それを証明できる物を生憎俺は持っていない。加えて俺自身、記憶力に自信があるほうでもない。記憶違いか、はたまた開け忘れた部屋があったのだろうか?
まぁ、今更記憶を引っ搔き回しても無意味だ。今与えられているものを甘受し暮らしていくのが、俺たちの当面の方針なのだから。少しばかり頭を出した疑念の芽を踏み潰すように、俺は彼女の後に続いて調理場の中へ歩いてゆくのだった。
「…それはそうとダフネ、材料はどうやって調達するんだ?」
この調理場が元からあったにしろ急に出現したにしろ、食品など置いていないだろう。前者ならあったとしても間違いなく劣化しているはずだ。少なくとも俺たちがここにきてから1か月は経っているのだから。調理場の明かりを点けるまで、俺はそう思っていた。
ダフネが壁につけられていたボタンを押すと、白色をベースに纏められた大きなキッチンが姿を現す。埃一つ被っていないそれの向かい側にはイスとテーブルが置かれている。料理をして、それを食べるだけの空間。特段おかしい部分はない。ただ…少し気になる所があった。
少なくとも今まで俺が覗いてきた部屋は共通した様式というものがあった。廊下も部屋も白色を基調にしているが、無駄に豪華なのだ。例を挙げるなら、どの部屋にもある擦りガラスがはめ込まれた窓。あれらは例外なくその窓枠に、明らかに不要な装飾が施されている。そしてそれらの装飾は多少モチーフに差はあれど雰囲気は共通していた。壁紙には柄が入っていた。だいたいの家具は少し古めかしい様相をしていた。
だがここには必要な物以外何もない。キッチンも新しく、机と椅子は他の部屋に置いてあるものとは異なり、非常にシンプルだ。壁は無地で、窓もない。
…これだけなら違和感と呼ぶにはまだ弱いのかもしれなかった。だが机の上にある物を見たとき、踏み潰したはずの疑念が固く根を張るのを感じた。
まっさらな机の上で俺たちを待っていたのは砂糖や卵、ミルクなどプリンを作るのに必要な材料たちだった。
「…どうなっている?」
俺は言い様のない気持ち悪さを感じ、その場で棒立ちになるしかなかった。おかしい。あのやりとりを聞いていたのは俺と彼女しかいないはずだ。なのに何故、本に書いてあった通りの材料が揃っている?
誰が準備をした?いつの間にここに入ってきた?
ダフネはこの部屋のことを知らなかった。現に俺が調理場など無いと言った時、疑うことなどしなかった。
俺たち以外に誰かいるのか?
頭上の蛍光灯がじらじらと音を立てて点滅しているような気さえしてきた。
そんな俺をよそにダフネは目を輝かせていた。俺よりずっと長く生きてきたのかもしれないと思うほど常に冷静なその目に、初めて星が宿るのを見た。
「完璧。これならすぐ取りかかれる。」
「あ…、待て!ダフネ…」
俺が伸ばした手を無視してダフネはキッチンへ歩いて行く。
それだけのことだった。
まるで俺が幽霊にでもなったような気がした。ただすり抜けた手がさみしくてたまらない。そもそも彼女は俺に、調理場への案内だけを頼んでいた。
…こんなことで気を落とすなんて、情緒にバグでも発生してしまったのだろうか。
やる気を削ぐことは言いたくないなどと思っていた数分前の自分を押しのける。今は話を聞いてほしい。
「やめておけダフネ、もう傷んでいるかも…」
「んもう、ボクが持ってきたものにケチつけるとか失礼だなぁ。」
聞き覚えの無い声に思わずダフネと顔を見合わせる。その声はシンクの横に置いてあった果物かごから聞こえた。あの果物かご、先ほどまで無かったはずなのに。ザロクの実が薄高く積まれたかごにちょこんと座るように、その生き物はいつのまにかそこにいた。身体が淡い桃色の毛で覆われた、しっぽの長い鼠のような生き物は、宝石のように澄んだ空色の瞳をぎょろりと動かした。きょろきょろ、なんてものではない。愛らしい見た目をしているはずのその生き物に、嫌悪感すら感じる。何か悍ましいものがあの柔い皮膚を着て、愛玩動物の振りをしている…そんな気さえした。
「誰?」
「ひどいよダフネ、ボクはキミを知ってるのに。」
「ん…分からないな。なぁゼルク、おまえの知り合いか?」
ダフネの問いかけに首を横に振った。すると小動物は目に見えて落胆し若干大げさな身振りで果物かごからゆっくりずり落ちた。
「えぇ~そりゃないよぉ!」
仕草のひとつひとつに少しでも可愛らしく無害に見せようとしているのが透けて見えるようだ。こう受け取ってしまうのは俺の性格が悪いのだけかもしれない。現にダフネは特に訝しむ様子もなく小動物と会話している。
「これ、おまえが持ってきたの?私たちがこれから作る料理の材料…」
「そうだよぉ。他に誰がいるっていうのさ。」
「持ってきてくれたのはありがたいが…なぜこんなにも的確に欲しいものを持ってこれたんだ?」
「ボク、実はこっそり君たちの会話を聞いてたんだ。」
「なんという堂々としたプライバシー侵害発言。」
「まぁまぁ、でもここでいろんなことを楽しむために、ボクの協力は役に立つと思うけど~?」
「と言うと?」
小動物ぽい何かはふふっと笑うと何故か今まで会話していたダフネではなく、わざわざ俺に接近してこう言った。
「ボクはキミの…キミたちの共同生活を見届けたいんだ。そのかわりボクはキミたちの望む物をそれとなく提供する。いわゆる小道具担当だね。」
俺の胸くらいの高さに浮遊しているそいつが目線を上げた。その瞳の中に何かを痛みなく抉られたあとのような空虚さと底知れなさを感じ眩暈を覚える。すべてを良心の呵責なく呑み込む深い青。それは一見慈愛をいっぱいにたたえているようで見下してもいる。こちらとしては断る理由なんてない要求だがこのまま首を縦に振るのがなんとなく癪だった。
「いや、俺たちは…」
「だいじょーぶ!普段は出しゃばってこないから!」
「俺としては見られているということが嫌なのだが。」
「あははっ、繊細だなぁ。でもホントに見るだけだよ~、あ、それともダフネにあんなことやこんなことするから見られるのいや?んも~お・ま・せ・さん♡」
「…?何を言う。いつでも見られて構わないようなことしかしてないに決まって…」
「じゃあ問題ないネっ!これからよろしくゼルクくんっ」
「こいつ…、」
全力で憤りたいがさすがに横から注がれるダフネの『なにやってるんだこいつら』とでも言うような視線に耐えきれなかったため、ここで反論をやめることにした。
「お、やっと静かになったね」
「はぁ…」
「それじゃボクはこれで姿を消すことにするよ。じゃあね!」
「うむ、心得た…」
「あ、ついでにボクの分のプリン作っといてね~!」
猫じゃらしのような無駄に長いしっぽをひっつかんで待ったをかけようとしたが、奴の姿が景色に溶けるように消えるほうが早かった。
「基本見てるだけとのことだったが騒がしそうな生き物だったな。」
「む…そうだな…、というかダフネ、お前のことを知っていそうなやつだったが…」
「おまえが知らないんだったら分からない。会った覚えもないし。」
「…そうか。」
思えば、俺たちはそんなに互いのことも、自分のことも知らないままここで共同生活を送っている。そもそもいつのまにか建物の中にいて、ここに来るまでのことを二人とも何ひとつ覚えていないなんて、かなり異質な状況ではなかろうか。
「何を考えてる?」
「ここに来る前のことを少々、な。」
「思ったよりどうでもいいことだった。あまりにも真剣な顔をしてたから何か最悪なことでもあったのかと。」
「自販機の下に落とした小銭を拾おうと血眼になっている人間のような表情だったか?」
「雰囲気はさながらそれだったよ。」
俺は表情を変えられないはずだ。それでも何かを思案しているのが伝わったというなら、俺はどんなに深刻な雰囲気を出していたのだろう。気を遣わせていないか不安になり彼女の方を見る。俺の心配をよそに彼女は鼻唄を歌いながら、どこからともなく現れたエプロンを着用しているところだった。
相変わらず彼女は言動・行動において掴みどころがない。時たまこちらを気遣う様子を見せるものの、その後に俺が言葉を返してもあっさりとした返事しかしない。義務的な確認以外の何物でもないとでも言うような態度。あるいはそもそも彼女にとって重要度の低い言動を俺が勝手に解釈し、気にかけて貰っていると思い込んでいるだけなのかもしれない。
…ふと、横から注がれる視線に気が付いてやっと俺は思案から解放される。ダフネと目が合った。どうやら俺が思案している間、彼女はずっと俺を見ていたらしい。
「どうしたダフネ、調理…始めないのか?」
「なぁ、ゼルク」
「何だ」
「おまえも手伝え。」
「俺には何も出来ないぞ。この手じゃ鍋も持てない。」
「本を見て指示を出すことなら出来るだろ。」
その言葉が終わるや否や、ぐっと体を引き寄せられる。互いの息遣いが分かってしまうような距離。こんなに近づいて初めて、ダフネの方が俺よりひとまわり小さいことに気が付いた。頭が真っ白になる。鼓動が速い。全身の血液が沸騰する。早鐘を打つ鼓動が、俺に心臓の位置を再認識させる。極度の緊張状態であるはずなのに…なぜか心地いい。むしろもっと近くに来てほしい。触れてほしい。
彼女の手が首のあたりをくすぐる。なにか…紐のようなものを俺に結んでいるようだ。
「後ろを向け。」
「あ…え…?」
「エプロンの腰紐を結ぶからこっちに背中を向けろ。首の部分の紐は結んだから。」
その言葉でやっと俺は我に返った。ダフネは怪訝そうな顔で俺を見ている。
どうやらダフネは手の構造故に細かな作業が出来ない俺にエプロンを着せてくれようとしたらしい。さっきまであんなに緊張していたのが恥ずかしくなり、俺は慌てて後ろを向いた。
「そんなに怖いのか。私のこと。」
「ち…違う…」
「じゃあどうしてあんなに呼吸が荒くなってたんだ?」
「俺も知らん…緊張と類似していたが…その…」
「何だ?」
「…なんでもない。」
これ以上聞いても無駄だと判断したのか、あるいはこの話に興味をなくしたのだろうか。ダフネは俺の返答に対して特に追及せず、黙ってエプロンの腰ひもを結んでくれた。
…なんだか今日は彼女に振り回されてばかりだ。冷静でなければならないとは分かっていたが、しばらくあの感覚は俺の頭から離れてくれはしないだろう。今も少し、彼女の顔を見るのが気まずい。
…思うところはあるが、とりあえず今は料理の手伝いに専念すると決めた。やるべきことに集中すれば少しは気も紛れるだろう。
