Hallelujah in1919

「…どこに、行くんですか?」

僕は、もう何度目かになる問いを傍のブライアンに投げかけた。

数日前、僕の身なりを整え、彼は僕を連れ出した。

抵抗する気力もないけれど。

船に乗り、長旅になりそうな気配に、僕はようやく外の世界に目を向けた。

こんなふうに船に乗るのは、日本を行き来するときだけだった。

けれど、航路が違う。

僕たちが乗った船は、北に向かっていた。

「君に、会いたいと言う人がいるんだ。」

ブライアンは、同じ答えを繰り返した。

…僕が逢いたいのは大輔さまだけだ。

それ以外にはなんの意味もないのに。

僕は小さくため息を吐いた。


船から降り立ったのは、見知らぬ異国だった。

ブライアンがロシア帝国だと教えてくれる。

「皇帝に君を紹介するつもりだ。」

ブライアンは、それ以上の説明をせず、僕も尋ねなかった。



彼の帝国は、宮殿の地下深くにあった。

僕だってもちろん本物の皇帝に会うわけではないことくらい分かっていた。

けれど彼は、誰よりも皇帝らしい佇まいで僕たちを迎えた。

「こちらへ来なさい、ユヅル。」

厳かな声に手招きされて、ゆっくりと近づく。

彼の心の中は、僕への純粋な興味で満たされていた。

僕が逆らうことなど微塵も疑っていない。

いや、違う。

逆らうことなどできないことを、それだけの強大な力を持っていることを疑っていないのだ。

僕に向かってゆったりと差し伸ばされた手を取る。

その瞬間、僕の魂の奥に向かって、何かが津波のように迫ってくる気配を感じて、僕は思わず目を閉じた。

「大丈夫、力を抜きなさい、ユヅル。」

皇帝の声音は、相変わらず厳かで、自信に満ちていた。

目を開いた僕を、皇帝はじっと見つめた。

「かわいそうに。絶望に覆われた、哀れな子だ。」

その真紅の双眸に浮かぶのは、憐憫とそれを上回る自信だった。

僕は、彼が僕の身に起きた全てを知ったことを悟った。

「……僕を、殺してくれますか。」

ブライアンに何度頼んでも、断られた。

彼ならその気になれば、実行できるだろう。

「賢い子だ。私の考えが分かるのだね。」

皇帝は、鷹揚に頷いた。

「私のものにならないか?」

ヴァンパイアになってから、僕に備わった能力。

ブライアンは、とても特別な能力だと言った。

だけど、大輔さまを守ることはできなかった。

皇帝を怒らせればいいのだろうか。

そう思いながら、僕は首を横に振った。

「僕はもう、生きていたくない。」

大輔さまのいない世界で。

皇帝の乾いた指先が僕の頬をそっと撫でた。

「……深い絶望だ。自ら死を選ばないのは、まだ彼を愛しているからか。」

皇帝は、触れることで僕の精神を読み取るようだった。

僕の理解を皇帝が読み取って、満足げに頷く。

「なんと素晴らしい。私たちの間に言葉はいらないようだ。」

皇帝の背後に控える臣下の、驚きの念が僕に向けられる。

けれど、僕にとって皇帝の称賛はなんの意味もなかった。

「ふふふ、君は繊細な見かけによらず、心は剛の者らしい。」

皇帝は、僕に触れたまま、面白そうに笑い声を上げた。

「ひとつ、私と賭けをしないか?」

「……賭け?」

「そうだ。」

先ほどの厳かな雰囲気とは一転して、悪戯をする子供のように真紅の瞳を輝かせて、皇帝は身を乗り出した。

「今から…そうだな、50年後、君の気持ちが変わらなければ、私が君を滅してやろう。」

「…本当ですか?」

「あぁ。跡形もなく、魂ごと君は消え去るだろう。」

暗闇の中に光が差したような気がした。

僕の高揚を読み取ったのか、皇帝が同情するように眉を潜めたが、僕は彼がこの賭けを面白がっていることを分かっていた。

「……僕の気持ちが変わっていたら?」

「私の下で私に仕えるのだ。」

「皇帝陛下。」

ブライアンが制止するように割って入る。

「決して無理強いをしているのではない。選ぶのはユヅルだ。」

皇帝は、穏やかな声でブライアンを宥めた。

僕は少し考えた。

「僕が生きているのは、大輔さまがそう望んだからです。僕の気持ちが変わるとしたら、大輔さまに再び巡り会えると信じられたときです。」

「…ふむ。」

皇帝も思案する顔をした。

「では、こうしよう。50年後、君がもしダイスケサマに巡り会えなければ、私の下で同じく50年過ごすのだ。それでも君の気持ちが変わらなければ、君を滅することにしよう。」

「僕が貴方の役に立つとは思えませんが。」

そう言いながら、僕は、この終わりのない絶望に期限が与えられたことに少しだけ安堵していた。

「ふふふ、それは私が決めることだ。…いいな、ブライアン。」

「……分かりました。」

ブライアンが承服しかねていることは分かったけれど、僕は皇帝と取引することを決めていた。


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