春よ、来い

何年かして、一希は、いつまで経っても青年が変わらないことを不思議に思うようになった。

一希の背が伸び、声が変わっても、相変わらず青年は華奢なままで、美しい顔に憂いを滲ませて桜を見上げていた。

「ねぇ、結弦さん。…ここに何があるの?」

もう何度目かになる問いを、思わずまた口にしてしまう。

成長した一希は、青年の哀しみの元がこの桜の木にあるのではないかと考えるようになっていた。

青年は、一希の問いかけに答えることはなかった。

もの悲しげに微笑み、じっと桜を見つめる。

全身から哀しみが溢れ出しているようで、そうすると一希は何も言えなくなってしまうのだった。



18になった一希は、街に働きに出ることになった。

しばらく桜を見に来れそうにない。

そう言うと、青年は寂しくなるね、と小さな声で呟いた。

「結弦さん、どこに住んでいるの? 俺、手紙を書くよ。」

思い切ってそう言うと、青年は笑ってゆっくり首を振った。

「…僕はここにいるよ。ずっと。……待っているんだ。」

誰を、とは言わなかった。

何を?

青年はいつも肝心なことは何も言わないのだった。

また必ず来るから、と約束して別れた。

別れが惜しかった。

青年を心から笑わせることができなかったから。




大阪の街は大きくて賑やかで目まぐるしく、あっという間に年月が経った。

大阪で結婚し、子どもも生まれて一生懸命働いた。

日々の慌ただしさに追われて、いつの間にか、山奥の桜の木のことも桜の精のような美しい青年のことも、記憶の彼方に薄れていった。

その春、子どもを連れて村に帰省した一希は、久しぶりに故郷でゆっくり過ごした。

すっかりさびれ、人口の少なくなった村は、一希を知る人も数えるほどになっていた。

愛でる人も減ってしまった村の桜の木を、見るともなしに見ていた一希は、不意にあの美しい青年のことを思い出した。

…まさか、今も待っていたり、するのだろうか?

思い立つと居ても立ってもいられず、子どもを連れて、山に入った。




「……結弦さん。」

青年は、変わらず桜の木を見上げていた。

一希が声をかけると、初めて会ったときのようにゆっくりと振り向き、一希を見てにっこりした。

「…やぁ。久しぶりだね。」

十数年前と変わらないその姿と、もの悲しげな笑みに、一希は時が遡ったかのような錯覚に陥った。

「…まだ、待っているんですか。」

誰を、とは言わなかった。

青年は、黙って微笑んだ。

子どもは、桜吹雪に歓声を上げ、木の根元を走り回って花びらを集め始めた。

その姿を、二人並んで黙ったまましばらく見守る。

「大人になったね。子どももできて…。おめでとう。」

「…結弦さんは、変わりませんね。」

「…………」

「あの…。また来るって約束、遅くなってすみません。」

「…そうでもないよ。」

十年以上経っているのに、青年はなんでもないことのように答えた。

「…こうやって、君にも会えたし、もう少し待ってみるよ。」

そう言って一希を見た青年は、少しだけ嬉しそうだった。

「必ず会えますよ。」

思わずそう言うと、青年はにっこりした。

「会えてよかった、一希。」

一希は、初めて青年に名前を呼ばれたことに気づいた。



子どもが飽きてきた様子を見せ始め、一希は村に戻ることにした。

「さようなら、結弦さん。」

「さようなら。」

ふと、もうこの青年に会うことはないのかもしれないという予感めいた思いにかられた。

「あの、結弦さん、幸せに。貴方の幸せを祈っています。」

「…ありがとう。一希も。」

去り際、もう一度振り返ると、青年は桜の木ではなく、一希たちを見送るようにこちらに顔を向けて立っていた。

一希が手を振ると、青年も小さく手を振り返してくれる。

初めて会ったあのときのように、強い風が吹いて、一希は目を瞬いた。

桜の木を背に、舞い散る花びらに包まれて、青年は微笑んでいた。


幸せに……


どうか……


これは一体、誰の声なんだろう。

一希は、不意に胸が締め付けられるようになって、唇を噛み、いっそう大きく手を振った。

「…お父さん? どうしたの?」

傍らの子どもが不思議そうに問いかけてくる。

一希は、自分の頬が濡れていることに気づいた。

「…なんでもないよ。戻ろう。」

この涙の理由を説明することなどできない。

だって、一希は何も知らないのだから。

ただ、あの美しい青年の哀しみが、いつか癒されるようにと祈るだけだ。


ゆづ……



誰かが青年を呼んだような気がした。





終わり





※冒頭の詩は松任谷由実の「春よ、来い」よりお借りしました。王子さまの2018エキシナンバーでもあります。素敵な歌詞を教えてくださったぴぴまま様に感謝を込めて☆
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