春よ、来い
春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の
なつかしき声がする
君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています
それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く
春よ まだ見ぬ春
迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の
眼差しが肩を抱く
* * *
その人を初めて見たとき、一希はその人があまりに美しかったので、桜の精かと思った。
村が一望できるその場所は、山に入ることの多い一希のとっておきの場所で、一本の桜の木が植わっていた。
毎年春になると満開の花が咲き、花びらが風に乗って一日中舞う。
一希は、それを眺めるのが好きだった。
その春、いつものように山菜を採りに山へ入った一希は、そろそろ桜が咲いている頃かもしれないと足を伸ばした。
若芽の瑞々しい緑が湧き出る地面を踏みしめ、その場所に着くと、ざぁっと春の風が吹き、咲いたばかりの桜の花びらが一斉に空に舞った。
一希は思わず片手を額にかざし、目を細めた。
ふと、人影が見えたような気がして、目を瞬く。
こんな山奥に人がいるとは思わなかった。
風が止むと、さっきまで花びらが渦巻いていたその場所に、一人の青年が立ち、桜の木をじっと見上げていた。
真っ白な肌に漆黒の髪をしたその青年は、すんなりと伸びた首を傾けて、一心に桜を見上げている。
「……あ、あの………」
一希は思わず声をかけていた。
青年は、ゆっくりと振り向き、一希を見た。
ひどく整った顔立ちで、不思議な瞳の色をしていた。
その瞳でじっと見つめられると、訳もなくどきどきする。
「……君、ここの村の人?」
「え…? は、はい……」
青年は、低くて涼しげな声をしていた。
「桜を見に来たの?」
「は、はい。…あの、貴方も?」
おそるおそる尋ねると、青年はふっと笑った。
はっとするほど儚く、哀しげな笑みだった。
「そうだね。……逢いに来たんだ。」
誰に、とは言わなかった。
桜に?
一希は不思議に思いながらも、その青年のあまりに現実離れした美しさに、何も聞けないまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
それから、春が来るたび、一希はその桜の木の下で、青年と会えるのを心待ちにするようになった。
一度思い切って名前を尋ねると、結弦、と教えてくれた。
どこで何をしているのか、青年は春になるとそこに桜を見に来るのだった。
一希は、張り切って辺りを案内した。
村の中でも自分が一番山に詳しくて、山菜やきのこをたくさん採ることができるのだと自慢すると、青年はすごいね、と微笑んだ。
一度、採れたばかりの山菜を天ぷらにして持参したが、青年の口には合わないようだった。
「君が食べなよ。」
そう言って、一希が食べるのを嬉しそうに見ていた。
古い祠の跡に案内して、昔は隠れ切支丹が潜んでいたらしいと教えると、青年は、ふうんと言って、感慨深げにしばらくその祠の前を動かなかった。
「でもさ、今はその…カイコク?したんだって。だから、切支丹も隠れないで生きていけるんだよ?」
村の大人から聞きかじった話をもっともらしく話して聞かせると、青年はへえ、と感心したように相槌を打ってくれたので、一希は得意になった。
青年はいつも穏やかで優しく、そしてとても寂しそうだった。
ふとした拍子にその綺麗な瞳を曇らせて、じっと虚空を見つめ、物思いにふけることがあった。
一希は、青年を楽しませようと殊更におしゃべりになって、時間を忘れて過ごすのが常だった。