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リンクサイドに目をやると、人影が見えたので驚いた。

もう誰もいないと思っていた。

「ゆづ、まだ滑ってたん?」

声をかけられて、その相手にも驚いた。

自他共に認める現日本のトップ。

実力と業績に似合わず、気さくな人柄で誰からも「大ちゃん」と呼ばれて慕われている。

一緒に出た今日のチャリティーショーでも、彼のスケートは一際輝きを放っていた。

「…あ、ごめんな。見るつもりなかったんやけど、ちょっと忘れ物してしもて……」

「あ、ううん…」

まだ、話すのはちょっぴり緊張する。

ましてや、2人きりとか。

所在なげにリンクに佇んでいると、大輔は、「あった、あった」とベンチから布袋を手に取った。

「これなかったら、始まらんやろ。よかったー、そのままで。」

大輔は、ホッとした顔で布袋を胸に抱き締めている。

「……それって……」

スケート靴とおぼしきその形状に、少し唖然としてしまった。

「いやぁ、歌子先生にも大目玉や。なくなってたら、どうなってたか……」

………コーチに怒られるだけでは済まないんじゃ?

そう思ったが、にこにこと無邪気に喜んでいる大輔に、水を差すようなことを言うのは憚られた。

……これで、日本一なんだもんなぁ。

結弦が今一番目標にしている相手である。

世界で戦うためには、日本一にならないと始まらない。

そんなことを思っていると、大輔がスケート靴を取り出したので、またびっくりした。

「俺もちょっと滑ろかな〜」

呑気にスケート靴を履き始める。

「…え、アップとか……」

「あ、だいじょぶ、だいじょぶ。さっきまで陸トレしてたし。」

「……今まで?」

こんな時間まで練習しているのは自分だけだと思っていた。

「トレーニング嫌いやわ。やっぱ、滑ってる方が楽しいな。」

「…………」

結弦は、小さく唇を噛んだ。

今の自分は、スケートを楽しいなんて思えない。

あの大地震から、1ヶ月足らず。

生まれ育った故郷も家族も、まだ日常生活すら取り戻していない。

自分だけスケートをしていていいのか。

整理したつもりでも、ふとした拍子に湧き上がる後ろめたさは、たぶん、ずっと消えない。

誰よりも練習して、誰よりも強くなる。

それだけが、今の結弦の免罪符だった。

「ゆづ〜、一緒に滑ろか。」

「…え?…えっ?」

戸惑う結弦をからかうように、大輔がおどけた仕草で結弦の手を取る。

「……わっ…」

大輔に引っ張られるようにして、リンクを周回した。

「スピード出すで〜」

どこにも力が入ったようには見えないのに、ぐんとスピードが上がる。

「はは、気持ちええな。」

大輔が横目で結弦を見て、にっこりした。



「スピードスケートに転向した方がいいんじゃないの?」

自分だけひどく息が上がっているのが悔しくて、思わず憎まれ口を叩いてしまった。

シニアで必要な体力が足りていないことを痛感する。

「うーん、転向するなら、アイスダンスがええな。」

「………え。」

今、さらっとすごいことを聞いた気がする。

「はは、俺、踊るん好きやし。」

大輔は、屈託なく笑った。

「……まだ、やめないで。」

気がつくと、そんなことを口走っていた。

——俺が勝つまで。

決意は自分の胸に秘める。

「うん、まだやめへん。」

大輔は即答して、遠くを見る目をした。

「まだ、見てへんからな。てっぺんの景色。」

「…………」

オリンピックでメダルを取り、ワールドも優勝したのに?

一瞬そう思ったけれど、黙った。

結弦だって、目指すのはオリンピックの金メダルだし、世界一の称号もライバルに勝った上で得たものでなければ意味がない。

「…俺さ、もうフィジカルのピークは過ぎてると思うんやわ。」

結弦の沈黙をどう取ったのか、大輔はぽつんと言った。

「でも、メンタルはようやくスタートラインって感じでさ。…恥ずかしいけど。」

「そんなこと…。大ちゃんはすごいよ。」

どうやったら近づけるのか、考えても考えても分からない。

そもそも、いくら震災が起きたとはいえ、ワールドの直前にチャリティーショーを企画するなんて。

大輔がいなければ、きっと今、自分もここで練習できていない。

4回転を何度跳んだって、敵わない気がした。

「ゆづもすごいで?」

え、と顔を上げると、大輔の優しい瞳が結弦を真っ直ぐに見つめていた。

「苦しいときに、がんばれる奴はすごいと思う。」

「………」

「はは、俺なんか、ゆづくらいの歳のときは、どうやったら練習楽になるやろう、とか、どうやったらコーチに怒られんですむやろう、とか、そんなことくらいしか考えてへんかったわ。」

「………」

「……幸せやったな、俺。」

ごめんな、と苦笑いした大輔に、止めようもなく込み上げてきた涙を見られたくなくて、結弦は、氷を蹴って滑り出した。

「ゆ、ゆづ…!」

大輔の慌てた声が追いかけてくる。

追いつかれたくなかったのに、あっという間に手を掴まれてしまった。

「ご、ごめんな、俺…、考えなしで……」

おろおろしている大輔に、勢いよくかぶりを振った。

こんなふうに情けない自分を見られたくなかった。

泣きたくなんかない。

泣いてる場合じゃない。

不意に、温かいものに包まれて、結弦はびくっと体を震わせた。

大輔に抱きしめられていることに、ようやく気付く。

「…俺、なんも見てへんからな。がんばってるゆづしか、見てへん。」

「………っっ」

嗚咽が止まらなくなった結弦を、大輔はずっと黙って抱きしめていてくれた。




「ゆづ、そろそろやで。」

パソコンに向かっている結弦に、大輔が声をかけた。

「あっ、そうか。」

時計を見て、慌ててファイルを保存する。

「方角は…、ええと、こっちかな。よし。」

大輔が指し示す日本の東北地方の方角に向かって、2人で静かに黙祷を捧げた。

「……もう20年経つんやな。」

「……うん。」

長かったのか、短かったのか、分からない。

ただ、通ってきた道に、悔いはない。

そのことが、幸せだと思う。

「今年は、一緒に過ごせて良かったな。」

「…誰かさんが仕事を入れてくれたおかげで、日本からは遠く離れてるけどね。」

「…まぁまぁ、そう言わんと。」

つい憎まれ口を叩いてしまう結弦を、大輔は穏やかに笑っていなした。

そのまま抱き寄せられる。

不意に、大輔の胸で子供みたいに泣きじゃくったあの日のことを思い出して、結弦は、恥ずかしくなった。

…まだこういう関係になる前のことだ。

思えばあのときから、もう惹かれていたのかもしれない。

照れ隠しに、近づいてくる大輔の唇を噛む。

「…ぃてっ、ゆ、ゆづ、なにするん?!」

大きな目をむいて抗議する大輔に、思わず吹き出しながら、結弦は、自分の方からちゅっとキスを弾ませた。

「……好きだよ、大ちゃん。」

「……なんなん、もう……」



あの日、苦しくて、苦し過ぎて、でも苦しいと口にすることすら、罪だと思っていた自分に伝えたい。

それでも、もがいて、諦めずにがんばり続けることに、意味がある。

見ていてくれる人が、きっといるから。



3月11日。

忘れられない日。





終わり
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