Defying Gravity


ホテルの部屋を出て、氷を取りに行こうとしたら、フロアがざわざわしていた。

このフロアは、全日本に出場する選手のうち、大ちゃんや昌磨などマスコミの注目を浴びている選手しか泊まっていない、限定エリアだ。

大ちゃんの部屋から、スタッフらしき人が慌てた足取りで出てくる。

「大ちゃん」「膝」と切れ切れの単語が耳に入って、どくんと心臓が音を立てる。

大ちゃんは、膝に爆弾を抱えている。

俺の右足首と同じ。

まさか。

「あ…、羽生さん。すみません、ちょっと氷、先にいいですか?」

「ええ、どうぞ。」

若いスタッフのために、製氷機の前を譲ってやる。

「あの…、何かあったんですか?」

努めてさりげなく、尋ねる。

スタッフの言葉を聞きながら、俺はほっと胸を撫でおろしつつ、眉をしかめた。



早めに会場入りして、本番前の大ちゃんを探す。

テレビカメラが気になるけど、だからって放っておけない。

大ちゃん達は、テレビカメラが入って来られない場所にいた。

「大ちゃん!」

「……ゆづ。」

本番の衣装に着替えた大ちゃんの顔は、青ざめていた。

『俺の方が出番先やし、早めに終わったら顔出そかな。』

『ふふ、シングルの方が、慣れてるもんね。』

昨日は、そんな冗談を言って、笑い合っていたのに。

「ご、ごめん、ゆづ。連絡できんで…」

「いいよ、そんなの。」

大ちゃんをぎゅっと抱きしめて背中を優しく叩いてから、初めて気付いたように、傍のベンチに座っている彼女を見た。

「…大丈夫ですか?」

「………ええ。」

彼女には、おそらく俺たちの関係はバレている。

大ちゃんがフロリダにいる間も、ほとんど毎日電話していた。

「筋までいってなくて、よかったですね。」

骨も筋も無事なら、何がなんでも絶対に滑れよ。

俺も大ちゃんも、もっとひどい状態で、大舞台に立った。

「そやけど…、痛みが取れんで……。俺のせいや、ほんまにごめん。」

「大ちゃんのせいじゃないってば。」

彼女は、にっこりして見せた。

「そうだよ。こんなの、誰のせいでもない。大ちゃん、楽になりたいからって、謝っちゃだめだよ。…そうですよね?」

大ちゃんの足を引っ張るなんて、許さない。

「そのとおりよ。」

大ちゃんに気付かれないように、睨みつけると、彼女は俺の眼差しを真っ直ぐに受け止めた。

「あたし、やるわよ。」

「その意気ですよ。」

あなたがこんなに注目されているのは、大ちゃんのパートナーだからだ。

あなたの実力じゃない。

けれど彼女は、そんなことはよく分かっているはずだった。

「俺、応援してますから。」

大ちゃんが、もう一度羽ばたくために、彼女を必要とするなら、それはそれでいい。

だけど、選ばれたなら、それ相応の対価は払うべきだ。

彼女だって、大ちゃんのパートナーになることで、多くを得ているのだから。

「ありがとう、ゆづ君。」

気丈に微笑む彼女に、俺はにっこり微笑み返すと、もう一度大ちゃんの肩を抱いてから、踵を返した。

「ゆづ、ありがとな。ゆづも本番前やのに。」

大ちゃんは、何にも気付いてない。

大ちゃんらしいといえばそうだけど。

俺は、笑顔で大ちゃんに手を振りながら、内心ため息を吐いた。



『何とかやり切った!今んとこ2位。』

大ちゃんからの短いメールを見て、俺は携帯をジャージのポケットに入れた。

彼女は、最低限の務めは果たしたらしい。

もちろん、そんなのは当然だ。

大ちゃんの隣に立つのなら。

俺は深呼吸した。

次は俺の番だ。

ただ勝つだけじゃなく、圧倒的に勝ってみせる。

誰よりも高く跳んで。

誰よりも強く在る。

跳ぶことを手放した大ちゃんに。

大ちゃんを手に入れたつもりの彼女に。

見せつけてやる。



「さすがやな、ゆづ。」

その夜、俺の部屋に立ち寄った大ちゃんの目には、純粋な賞賛があった。

俺が何より欲しかったもの。

「ごめんな、遅くなって。」

本当はもっと早くに会う予定だったけど。

大ちゃんは、彼女のケアに最後まで付き合いたいから、と言って、こんな時間になった。

…ま、そういうところも大ちゃんらしい。

「明日、大丈夫そう?」

「かなちゃんは、絶対やるって言ってるけどな…」

当然だ。

「彼女が覚悟してるんなら、大ちゃん、足引っ張んなよ。」

「う……、はい……」

情けなく眉をハの字にした大ちゃんは、どっちが年上か分からんな、と苦笑いをした。

「そやけど、俺、ゆづ見てたら、ちょっと羨ましくなった。」

「そお?」

屈託なく首を傾げて見せながら、俺は心の内でにやりとする。

「お前のジャンプ、重力に逆らってるみたいや。」

「今日はダメだったよ。明日はもっと完璧にやる。」

「おいおい…」

敵わんなぁ、と言って、大ちゃんは俺を見つめた。

俺の好きな、きらきらと輝く大きな瞳には、今は俺しか映っていない。

「…俺、もう跳べへんけど、お前見てたら……、ほんま、羨ましいわ。」

「……ふふっ」

ベッドに腰掛けて、両腕を広げると、大ちゃんが近づいて来て、抱きしめてくる。

「……ん…っ…」

しばらくお互いキスに集中した。

「……なんか、まだ時々信じられへん。」

濡れた唇を離して、大ちゃんがぽつりと呟く。

「……なにが?」

「お前が…その……、俺と……」

俺は、もう一度大ちゃんにキスをした。

「大ちゃんは、俺のものでしょ?」

「うん……」

覗き込んだ大ちゃんの瞳は、熱に浮かされたみたいに、ぼうっと俺を見つめている。

「俺、お前に、ほんまに夢中や……」

「…ふふ……」

明日はもっと、夢中にさせてあげる。

俺しか目に入らないように。

ずっと俺だけを見つめているように。

誰よりも高く、美しく。

俺は、跳んでみせる。


大ちゃん。


あなたの目の前で。




終わり
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