The Beginning of the End
「ゆづー、おつか……ぐえっ」
怒涛の全日本が終わったその夜、ゆづが泊まっているホテルのドアを開けた俺は、飛びついてきた痩身に喉仏を潰されて、カエルみたいな声を漏らした。
「な、なんや、どうしたん?」
ここに来る前にあれこれ考えた挙句、なるべく普段どおりに、という結論に至った俺は、さりげなくゆづの背中に手を回した。
「…………」
ゆづは黙ったまま、俺の首にかじりついている。
「おーい、ゆづ?」
顔を覗き込もうとしたが、ますます腕に力が込められる。
表彰式前、控えエリアでみんなといたときは、普通やったのに。
ゆづの片脚まで俺の太ももに絡みついてきて、俺はバランスを崩してよろめいた。
「…おいおい、危ないやろ?」
相変わらず返事はなくて、俺はため息をついて、よっこいしょ、とゆづを抱え上げた。
……うぐぐ。
全身筋肉のバネみたいなゆづの身体は、細くても結構重い。
…俺の身体もボロボロなんやけど。
そう思いながら、おっきな抱っこちゃん人形みたいになってしまったゆづを抱えてなんとかベッドに腰かけた。
「……ふぅ……」
もう一歩も動けへんわ。
ゆづは俺の首に両手を、腰に両脚を巻きつけて、簡単には引き剥がせそうにない。
「ゆーづ、顔見せてぇや。」
かろうじて見えるうなじに鼻先を擦り付け、耳の後ろ辺りにキスしてみた。
視界の端に見える耳が、心なしか赤くなった気がする。
「………ぃ…」
「ん?なんや?」
「………悔しい。」
よしよし。
ようやく絞り出された小さな声に、俺はゆづの頭をぽんぽんと撫でた。
「…お前、シーズンフルで戦うの、久しぶりやろ?スケジュールも詰まってたし、仕方ないやん。」
「……でも、前は勝った。」
平昌前の、世界最高得点を続けさまに更新したときのことを言っているらしい。
「前と今は違うやろ。」
状況も、身体も、心も。
一つとして同じ試合はないのだ。
昨日できたからって、今日もできる保障なんてない。
ただ、全身の感覚を研ぎ澄まし、積み重ねていくしかないんやから。
「……最後、だったのに。」
「ん?」
ゆづは、まだ顔を見せてくれない。
「大ちゃんの最後の試合、絶対勝ちたかった…!」
「…俺はまだ辞めへんよ?」
「そうだけどっ。」
なんでやろ。
言い募るゆづが可愛くてたまらない。
俺はぎゅっと俺の抱っこちゃん人形を抱きしめて、頬擦りした。
「一番強いのはゆづやろ。誰も疑ってへん。」
「…………」
「全部勝たんでも、みんな分かってる。お前は羽生結弦なんやから。…ぃてっ。」
突然がぶりと肩口に噛み付かれて、さすがに呆然とした。
「そういうんじゃないのっ!そういう、レジェンドだから勝負は関係ないみたいなの、イヤなのっ!!」
俺に絡ませた脚をバタバタさせながら、駄々っ子みたいになっているゆづ。
俺は思わず苦笑した。
「…それ、何気に俺のことディスってる?…いて、いててっ……」
今度はがぶがぶ噛まれてしまった。
「はぁっ?なに言ってんのっ、大ちゃんは、別!ぜんっぜん、べ・つ!!」
「……はいはい。」
要は負けたくないってことね。
「ゆーづ、俺、顔見てキスしたいな。会うん久しぶりやし。」
俺は正攻法で行くことにした。
「またしばらく会えへんし。な?」
「…………」
俺にしがみついていたゆづが、もそもそと身体を起こす。
俺はゆづの頬を両手で挟んで、キスをした。
少し潤んだ目尻に。
少し赤くなっている小さな鼻のてっぺんに。
そして、少し尖らせた薄い唇に。
「……っ……」
舌を差し入れて吸い上げると、ゆづはぐすんと鼻をすすった。
弾んだ息を整え、ベッドの中で汗ばんだ身体を寄せ合う。
泥のように疲れていたけれど、腕に残るゆづの甘やかな感覚を反芻していると、ゆづが大ちゃん、と俺を呼んだ。
だいぶんご機嫌は治ったらしい。
「なんや?」
「明日のエキシ、出るよね?」
「いやぁ……」
オファーはもらっているけど、実はまだ返事をしていなかったりする。
「…俺、メダリストとちゃうし…何も用意してないしさぁ。…ぅぐえっ」
跳ね起きたゆづに押さえつけられ、俺はまたしても情けない声を上げる羽目になった。
「今すぐ連絡しろ。プロはフェニックス!当然だろ?」
静かすぎて逆に恐ろしい剣幕に押されて、俺は慌ててスマホを手にした。
…なんでこいつ、時々こんな怖いんやろ(泣)
「…連絡した?」
「した、したっ。」
トホホ。
これ以上怒らせないように、できるだけ穏やかににっこりしたのに、なぜかゆづは俺をきつく睨みつけた。
「負けないからなっ。」
「……いや、俺、もう負けてるし……」
「ちなみに俺、SEIMEIやるから。必勝プロだかんなっ。」
「いやぁ、あの……」
エキシは勝負と違うで、と言いかけて口を噤んだ。
試合でもショーでも、いつも全力のゆづ。
俺にも負けたくないって。
まだライバルと思ってくれてるんかな。
聞いてみたかったけど、さらに怒られそうなので、やめておいた。
「あとさ……」
…げ、まだ何かあるん?
口元に笑みを貼り付けたまま慄いた俺に、ゆづはほんのり頬を染めて、小さな声で言った。
「…大ちゃんのこと、見せつけたい。」
「………は?」
どういうことや?
ゆづの顔がますます赤くなったけれど、何のことかさっぱり分からへん。
「いいよね?最後だし。」
「あ、あぁ……」
よく分からないながらも、ここは逆らったらあかん、と俺の勘が告げている。
「…じゃ、リハからね。」
「お、おう。」
ゆづは、とっても嬉しそうな顔をした。
…ま、ええか。
俺は、にこにこし始めたゆづをそっと抱き寄せた。
俺のシングル最後の試合。
出来は良くなかったけど、ゆづ、お前と一緒に出られてよかった。
そう囁くと、ゆづは悔しそうに顔を歪めて、それでも笑った。
まだ終わらせないからね、と。
もちろん。
俺だってまだ終わるつもりはない。
俺は、挑むように俺を見つめるゆづに、心を込めて口付けた。
終わり