Springtime



暗闇の中、そっと瞼を閉じて僕を呼ぶその顔を思い浮かべる。

———ユヅ。

くっきりしたアーモンド型の瞳をわずかに細め、はにかんだ笑みを見せる彼。

少し甘めの声と、舌ったらずな喋り方が可愛らしくもあり。

三度目に出会った彼は、僕と同級生だった。

彼の側で同じ時を過ごせるだけでよかった。

それ以上何も望んでいなかったのに。

彼が僕に告げた思いがけない望みは、僕を心底恐れさせた。

その場からすぐに逃げ出さずにはいられないほどに。

「ダイ……」

逢いたい。

逢うのが怖い。

触れたい。

触れたらもう離れられない。

逃げ出したい。

逃げられない。

相反する思いは、どれも偽らざる本心で、僕の心を千々に引き裂く。



「どうしたんや。寝られへんのか?」

不意に周りが明るくなり、僕は目を開いた。

僕のいる部屋のドアを開け、老人が僕に微笑んでいた。

「儂が子守唄でも歌たろ。…おいで。」

差し出された皺の多い手を取ると、ぎゅっと握ってくれた。

今夜の僕は、彼の孫にでもなっているのだろうか。

その老人は、大輔さまの眠る桜の木を見上げていた僕に声をかけてきたのだった。

優しい眼差しと屈託のない笑みに誘われるようについて行くと、大輔さまのお屋敷跡に建っているマンションの一室に招き入れられた。

部屋のベランダからは桜の木のある山が見えた。

老人は、認知症が進んでいるようだった。

僕は、その時々で彼の子どもになったり、孫になったり、友人になったりした。

彼はたった1人、病で先立った妻の元へ旅立つ日を待っていると言った。

「すぐに行こうと思たのにな、なかなかお迎えが来んでなぁ…」

肌身離さず持っている写真は、すっかり色褪せていたが、ふっくらとした女性が柔らかく微笑んでいた。

「逢いたいなぁ…」

切なげにひそめられた眦に光るものを見たとき、僕は彼の気持ちが手に取るように分かった。



老人は、僕の手を引いてベッドに座らせると、ラジオをつけた。

「…貴方は眠らなくていいんですか。」

「…………」

彼は返事をしなかった。

ラジオから流れ出した曲を一心に聴いている様子だった。

こんなふうに、彼は時々僕の存在を忘れる。


Springtime, Springtime so far away

I close my eyes, and I feel your soft caress

I can hear your voice still today

It was you, dear, who showed me tenderness....



耐え切れなくなってダイの顔を見に行き、声はかけられないまま、自己嫌悪だけが募って日本に戻ってきた。

自分でもどうしたいのか、どうすればいいのか分からない。

ただ、時間が経つのがひどくゆっくりに感じられた。

僕は期待しているんだろうか。

約束の期間が過ぎて、ダイが僕を選んでくれることを。

僕がダイのすべてを奪ってしまうことを。

乱れた気持ちのまま老人を訪ねると、彼は皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして微笑んだ。

「お帰り。」

「…ただいま。」

彼の時間は、彼だけの中で自由に流れていた。

僕はなぜかひどく安心した。



昼下がり、老人はロッキングチェアに深くもたれて、眠っているかのように目を閉じることが多くなった。

ラジオからはいつも同じ曲が流れている。


Far away, far away, far beyond tomorrow

Any day, any day now you’ll see, this I know

Springtime, Springtime I’ve yet to face

Whenever I’m lost, I can’t move my feet

Your loving gaze wraps me in an embrace

It was you, dear, who taught me how to dream...



「お前はええ子や。」

唐突に彼はそう言って、僕を愛しげに見つめた。

「素直になりや。」

「……はい。」

彼は満足したように何度か頷き、再び目を閉じた。


ダイ。

神に許されない存在の僕だけれど。

たとえ罪を犯しても。

君だけが僕の生きる意味。


僕は、立ち上がって彼の側に跪くと、そっと頭を彼の膝にもたせかけた。

温かな手が僕の頭を撫でる。

「ほんまにええ子や。」

僕は目を閉じて、いつまでも彼の温もりを感じていた。


Spring dream, Short-lived and bittersweet

I am here, waiting here for you to come

Forever more, I hold you in my heart

As I make my way down this road alone


Like the rain flowing down from skies of grey

Like the flowers floating by as seasons change.......



終わり



※「春よ、来い」の英訳は、渡辺レベッカさんの動画サイトからお借りしました。
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