Vamos


それは、俺がクリケットクラブで現役選手として練習する最後の日だった。

ハビ、と舌ったらずな発音で(彼はいつまで経ってもあまり英語が上手くならない)俺を見る小さな顔に、俺はできるだけ何でもないふうに片眉を上げて応じた。

「最後にスケーティング、一緒にやろう。」

「…いいよ。」

いつも皆でする練習。

初めてここに来たとき、君はとても戸惑っていたね。

リンクの端から端まで、綺麗なカーブを描いて二人で滑る。

俺の最後のオリンピックの練習でもこうやって二人で一緒に滑った。

あのとき、怪我で思うように調整の進まなかった君とは、少しだけギクシャクしていたんだっけ。

それでも、一緒に滑り出すと、二人で高め合ってきた時間が蘇ってきて。

君の勝利も俺の達成も、二人で一緒に喜ぶことができた。

俺と君の、始まりと終わり。



「…ハビ、寂しくなるね。」

そう言って、君は、少しだけ唇を噛んだ。

「よしてよ。そういうの、好きじゃないんだ。」

俺は、できるだけ陽気に言った。

「また、戻ってくるんだし。最後じゃないよ?」

「……そうだよね。」

そう言って、目尻をほんのり赤くして、微笑んだ君は、本当に天使みたいだった。

「ね、ユヅ、キスしていい?」

え、と丸く見開かれた瞳にいたずらっぽくウィンクする。

「挨拶のキスだよ、ほっぺたに。」

俺からしたら、気の遠くなるほど長い間、片想いしていた彼の想いは、最近通じたばかりだ。

相手が同性の、しかも俺も尊敬する日本のフィギュアスケーターだと知ったときは驚いたけど。

彼は、一途に、一途に、彼を想っていた。

「……いいよ。」

少しピンク色になった頬を、小首を傾げるように差し出して、恥ずかしそうに笑う君。

俺は、彼の華奢な身体をぎゅっと抱きしめて、すべすべした頬に唇を当てた。

ふざけるふりをして、ちゅうちゅう吸ってやる。

「…ちょ、っ…ハビっっ…!」

慌てたようにばたつかせる手足を押さえ込んで、思う存分、すべらかな肌の感触を味わう。

君を思い通りにするのなんて、こんなに簡単なのに。

君との友情を壊したくなくて、臆病だった俺。

恋人ができた君は、以前にも増して俺を惹きつける。

……もう、限界だったよ。



「…なに、すんだよっ、もう……」

ようやく唇を離すと見せかけて、揉み合う隙に、彼の唇にかすめるようなキスをした。

俺がふざけていると信じて疑わない彼は、真っ赤になったほっぺたを手で押さえて、俺を睨んだ。

「跡、ついちゃうじゃん。もー、カノジョに言いつけてやろ。」

「ごめんごめん。」

俺は、笑いながら、もう一度彼にハグをする。

リンクで、表彰台で、何度も君の薄い肩を抱いた。

時には勝利に、時には悔しさに、震えていた君。

「今まで本当にありがとう、ユヅル。」

万感の思いを込めて囁くと、ん…、と彼も力一杯俺に腕を回してくれた。



「そういや、俺さ、オリンピックチャンネルにメッセージ上げたんだ。」

ロッカールームで着替えながら、彼が屈託なく言う。

「ハビ宛てに。」

「俺に?」

「そ。」

近いうちにUPされるから楽しみにしててね、と笑う君に、俺は頷いた。

どうせなら、俺だけに特別なメッセージが欲しいところだけど。

きっと、彼の恋人が許さないだろうね。

俺のスマホが震えて、彼が意味ありげに俺を見る。

俺の恋人からだと分かったみたいだった。

「…ダイスケは君に逢いに来ないの?」

何気なく聞こえるように尋ねると、彼はぷんとむくれた。

「来ないよ。大ちゃん、人気者だし。……ワールド前だから、気を遣ってるんだ。」

遣うところが違うでしょ?

練習にも試合にも付いて来ている俺の恋人が羨ましいのか、憤って見せる君に、俺は苦笑した。

「それ、俺じゃなくて、ダイスケに言いなよ。」

「…………」

途端に、黙り込んで俯く君。

きっと、恋人の前では、俺の知らない可愛い君の姿があるんだろう。

そういうのは、今も少しだけ妬ける。

「気持ちは言葉にしないと伝わらないよ。…いつも言ってるけど。」

俺は、彼のまっすぐな黒髪をくしゃりと撫でた。

前髪を下ろすと、彼はとても幼く頼りなく見える。

「もう、今までみたいに言ってあげられないんだからさ。自分でちゃんとしなよ?」

「…………ん。」

彼は素直に頷いた。

「…俺が大ちゃんに気持ちを伝えられたのは、ハビのおかげだもんね。」

純粋な感謝が込もった親鳥を見る雛鳥みたいな君のつぶらな瞳。

いい人ぶって、君の恋のキューピッドを務めたあの時の俺は、本当にバカげた愚か者だったけど。

「分かってるなら、よろしい。」

俺は、彼の飴細工みたいに繊細な鼻をつまんだ。



いつものように並んで歩き、クラブを出たところで足を止めた。

いつもは、じゃあね、と言って別れるんだけど。

「行ってらっしゃい、ハビ。」

「…うん、行ってくるね。」

彼の言葉のチョイスは、いつも完璧だ。

なぜか胸がいっぱいになって、俺は照れ隠しに彼の手を握ってぶんぶんと握手をすると、ぱっと離して歩き出した。


「ハビーっっ!!」

どれくらい歩いた後だろう、突然後ろから大声で呼びかけられて、驚いて振り返ると、彼はまださっきの場所に立って、両手をちぎれそうなほど振っていた。

「ばいばーいっ、ハビ! ばいばーいっっ!!」

通りの向こうを歩く人が、何事かと振り向いている。

……もう、恥ずかしい奴。

俺は、駆け寄って抱きしめたい衝動を何とか堪えて、顔の横で軽く手を振った。

冗談ぽくキスアンドクライでするみたいな投げキッスもしてやる。

もう遠くて見えないけど、彼が満面の笑顔になったような気がした。


親愛なるユヅル。

君の恋の相手にはなれなかったけど。

俺と君の間には、誰も割って入れない6年の時間がある。

俺が自分で選んで、勝ち取ったもの。


それは君との永遠の、友情だ。




終わり


Congrats! 7th victory EFSC2019, javi=)
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