至高



朝ゆっくりめに起きた俺は、ネットニュースを見て仰天した。

「羽生右足首負傷」

曲かけ練習の途中で引き上げる厳しい表情の画像があちこちに載せられていた。

今日は早めに練習を済ませて、ゆっくりテレビ観戦しようと思てたのに。

昨日のショートは、心身共に充実してて、調子も良さそうやったのに。

ゆづが、今日のフリーにどれだけ入れ込んでいたか、よく分かっている。

憧れのスケーターが生まれた地で、伝説のプログラムを滑る。

勝負も技術も感性も、すべてにこだわって作り上げてきたゆづだけのプログラムだ。

公式練習での転倒シーンの動画を見て、俺は顔をしかめた。

これ、あかんやつや……。

俺は、自分の練習どころではなくなってしまった。

ゆづに連絡すべきか、いや、邪魔になったらあかんし……

と、さっきから、スマホを眺めてはしまうことを繰り返している。

思い余って、現地で解説をしているノブに連絡してみたが、ノブもニュースになっている以上のことは知らなかった。

「…大ちゃん、そやけど、棄権するて情報は来てないねん。あいつ、滑るつもりなんやろか……」

ノブは、言外に棄権すべきだと考えている様子だった。

ちょうど4年前、6分間練習で負傷したゆづが強行出場したときも、ノブはその場に居合わせていた。

私情を抑えた言葉で解説していたノブは、試合後に号泣していた。

感動したというより、怖かったと、後で俺に教えてくれた。

「…もし、ゆづに会えたら、絶対無理すんなって伝えてくれ。」

俺は、そう言うことしかできなかった。



じりじりと時間だけが過ぎて行き、俺は、ゆづがいつもより遅れて会場入りしたことを知った。

テレビに映るゆづは、いつもどおり、落ち着いて集中している様子だったが。

俺は気が気ではなかった。

不意にスマホが鳴り、ディスプレイに表示された名前に、俺は飛びつくようにして出た。

「ゆ、ゆづ……?!」

「大ちゃん、時間ないから、いっこだけお願い。」

「………え?」

「がんばれって、言って?」

「…………」

いやや、と突然喉元まで言葉が出そうになる。

頑張らんでもええ。

そんな、無理せんでもええやんか。

もう十分すぎるくらい頑張ってきて、結果も残しとるのに。

なんでそこまで、せなあかんねん。

今季は自分のために楽しむシーズンにするんと違うんか。

「……大ちゃん? お願い。」

俺は唇を噛みしめた。

「……が、がんばれ。…がんばれっっ」

振り絞るように言葉をかけると、ゆづはからりと笑って、ありがと、と言った。

俺は、切れたスマホを握りしめて、しばらく呆然としていた。

あいつに、その言葉以外、何を言えたやろ。

考えても考えても、答えは出なかった。



テレビの前で祈るようにして、ゆづが最初のポーズをとるのを見つめる。

頼むから、最後まで無事に滑ってくれ。

こんな気持ちは、以前にも経験があるけど。

やっぱり慣れることはない。

演技後半は涙なしには見られなかった。

悔しそうに、でもやり切った表情で苦笑いをするゆづ。

…これが、お前の望みなんか?

お前はいったい、どこまで行くんやろう。

俺は、胸がしめつけられるようだった。




「…大ちゃん、ありがとね。」

その夜は遅くまで起きて、ゆづがホテルに帰った頃を見計らって、今度は俺の方からかけた。

ゆづの声は明るかったが。

「あー、でも、大ちゃんと一緒に全日本滑るのは、ダメになるかも……」

ごめんね、と一瞬だけ沈んだ声を出したゆづに、俺は本気で怒ってしまった。

「何を言うとんのや、そんなん、気にするアホがおるかっ」

なにそれ、ひどーい、と拗ねた口調で言って、ゆづはけたけたと笑った。

「…どうせ、マスコミが面白おかしく対決煽るだけや。お前が休んだ方が静かでええわっ」

そやから、気にせんとゆっくりしっかり休め。

ゆづは、俺のそんな気持ちを受け取ってくれたようだった。

「…でもさ、大ちゃんも通ってきた道じゃん。俺も、最後まで足掻いてみるよ。」

「何を言うてんのや、さっきから、ほんまに……」

あんな思い、お前にさせたくなんかない。

怪我で思うようにいかず、苦しんだ俺の1度目の現役の最後のシーズン。

背負った期待の大きさに比例して、苦しみは大きくなる。

それから解放されて、もう一度シンプルにスケートと向き合えるようになるまで、4年かかった。

けれど、お前は俺とは違う。

期待を力にして、自分自身で前に進める奴や。

その澄んだ瞳は、どこまでも高みを目指している。

たった一人、至高の存在。


「ゆづ。…お前が好きや。」

結局、口下手な俺が言葉にできたのは、ありきたりの陳腐な一言やったけど。

ゆづは、嬉しそうに笑った。

「……うん、俺も。」

恥ずかしげに告げられる言葉の甘さとは、正反対の厳しい現実がお前を待っているとしても。

より高く羽ばたこうとするお前の翼が折れることはないだろう。

俺はそんな確信とも祈りともつかない想いを込めて、電話口に口付けた。



終わり





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