秋によせて
最後の曲が終わり、会場が万雷の拍手に包まれる。
僕は、しばらく席を立てなかった。
大輔さんが招待してくれた、コンサートの初日。
去年の夏に、アメリカでやって好評だったものを、満を持してここウィーンで再演することになったのだ。
僕は、もちろんアメリカ公演も聴きに行っていて、そのときは弦楽カルテットにピアノが入った編成で、編曲の芹沢樹貴もすべてに出演はしなかった。
けれど今回は弦楽器の数も増え、ドラムなどの打楽器も入って、芹沢氏も指揮者として全曲に出演している。
前半は去年と同じシュトラウスのワルツだけど、後半は芹沢氏のオリジナル曲だ。
それが素晴らしかった。
「SHIKI」と日本語で題された楽曲は、その名の通り、それぞれの季節をイメージした4曲のシリーズになっていて、今回は春と秋の2曲が披露された。
季節柄、観客の反応は春が一番良かったけれど、僕は断然秋だ。
…大輔さんが編曲に参加しているっていうのもあるけど。
ピアノコンチェルト風にアレンジされたその曲は、大輔さんの多彩で繊細なピアノの響きが、存分に表現された素晴らしいものだった。
もの哀しい旋律がまだ耳に残っている。
初めて大輔さんの白鳥を聴いたときみたいに、僕は踊りたくて仕方がなかった。
控室を覗いてみると、大輔さんはジェフを始めとして大勢の人に囲まれていて、近づけなかった。
僕は、器材を持った人達がはけてくる舞台の方に向かった。
緞帳が降りた舞台の上は、非常灯が付いているだけで閑散としている。
僕は上着と靴を脱いだ。
バレエシューズを持ってくればよかったんだけど。
身体の中に残る音が消えないうちに、もう一度なぞりたい。
あの美しい旋律と、それを聴いたときの感動を、身体に刻みたかった。
僕は、腕を伸ばした。
彼の才能に憧れている。
と同時に、負けたくない気持ちも確かにあった。
同じフィールドで勝負するわけでは、もちろんないけど。
自分らしく輝いて、彼に誇れる存在でいたい。
そのための努力は惜しまない。
そんな思いを秘めつつ、さっき聴いたばかりの音楽を追うことに没頭していた。
ふと、誰かの気配を感じる。
ぼくの隣で聞こえる息遣い。
……誰?
僕は、自分の世界に入り込みすぎていて、すぐに現実に戻ってこれなかった。
そのまま、心地よい誰かの気配を感じながら、踊り続ける。
……もう一人の、僕…?
……それとも、音楽の精?
ほとばしる僕の想いを具現するかのように、その存在は僕の隣で寄り添って踊った。
まるで現実感がない。
僕の中の音が止んだとき、辺りを見回したけれど、僕は一人だった。
立ち去る足音が聞こえたような気もするけど。
「…ねぇ、君。」
声をかけられて、ハッとする。
その人は、僕のいるところより薄暗い場所に立っていて、顔はよく見えなかった。
「さっき、ここに誰か来なかった? …これくらいの背の。」
その人は、鳩尾の辺りに手を出した。
彼の子どもなのかな?
「………いいえ。」
弾む息を整えて僕が答えると、彼は、そう、と言って出て行った。
廊下に続くドアを開けたとき、一瞬外の光がその人の顔を照らす。
………え?!
「……芹沢、樹貴……?」
思わず僕が呟いたとき、その人の姿は扉の向こうに消えていた。
唐突にスマホが鳴る。
「もしもし、ゆづ? どこにおるん?」
電話口の向こうから、ざわざわと人の雑音がする。
「ごめんなさい。…すぐ、戻るから。」
そう言うと、安心したような返事が返ってきた。
「大輔さん。」
会ったら面と向かって言うつもりだったけど、僕は待てずに続けた。
「おめでとう。すごくすごく、素敵だった。」
ありがと、と嬉しそうな声がする。
僕は電話を切ると、急いで控室に向かった。
早く顔を見たい。
目尻にしわを寄せて、少し恥ずかしげに微笑む彼の顔がとても好きだ。
僕は、早く大輔さんに会ってコンサートの感想を伝えたい一心で。
だから、何も気づかなかった。
僕のいた舞台の袖に、小柄な少年が隠れていたことを。
僕がいなくなった後、その少年は舞台の真ん中に出てきて、微笑んだ。
「……素敵。」
鈴の転がるようなその声を、誰も聞くことはなかった。
終わり
僕は、しばらく席を立てなかった。
大輔さんが招待してくれた、コンサートの初日。
去年の夏に、アメリカでやって好評だったものを、満を持してここウィーンで再演することになったのだ。
僕は、もちろんアメリカ公演も聴きに行っていて、そのときは弦楽カルテットにピアノが入った編成で、編曲の芹沢樹貴もすべてに出演はしなかった。
けれど今回は弦楽器の数も増え、ドラムなどの打楽器も入って、芹沢氏も指揮者として全曲に出演している。
前半は去年と同じシュトラウスのワルツだけど、後半は芹沢氏のオリジナル曲だ。
それが素晴らしかった。
「SHIKI」と日本語で題された楽曲は、その名の通り、それぞれの季節をイメージした4曲のシリーズになっていて、今回は春と秋の2曲が披露された。
季節柄、観客の反応は春が一番良かったけれど、僕は断然秋だ。
…大輔さんが編曲に参加しているっていうのもあるけど。
ピアノコンチェルト風にアレンジされたその曲は、大輔さんの多彩で繊細なピアノの響きが、存分に表現された素晴らしいものだった。
もの哀しい旋律がまだ耳に残っている。
初めて大輔さんの白鳥を聴いたときみたいに、僕は踊りたくて仕方がなかった。
控室を覗いてみると、大輔さんはジェフを始めとして大勢の人に囲まれていて、近づけなかった。
僕は、器材を持った人達がはけてくる舞台の方に向かった。
緞帳が降りた舞台の上は、非常灯が付いているだけで閑散としている。
僕は上着と靴を脱いだ。
バレエシューズを持ってくればよかったんだけど。
身体の中に残る音が消えないうちに、もう一度なぞりたい。
あの美しい旋律と、それを聴いたときの感動を、身体に刻みたかった。
僕は、腕を伸ばした。
彼の才能に憧れている。
と同時に、負けたくない気持ちも確かにあった。
同じフィールドで勝負するわけでは、もちろんないけど。
自分らしく輝いて、彼に誇れる存在でいたい。
そのための努力は惜しまない。
そんな思いを秘めつつ、さっき聴いたばかりの音楽を追うことに没頭していた。
ふと、誰かの気配を感じる。
ぼくの隣で聞こえる息遣い。
……誰?
僕は、自分の世界に入り込みすぎていて、すぐに現実に戻ってこれなかった。
そのまま、心地よい誰かの気配を感じながら、踊り続ける。
……もう一人の、僕…?
……それとも、音楽の精?
ほとばしる僕の想いを具現するかのように、その存在は僕の隣で寄り添って踊った。
まるで現実感がない。
僕の中の音が止んだとき、辺りを見回したけれど、僕は一人だった。
立ち去る足音が聞こえたような気もするけど。
「…ねぇ、君。」
声をかけられて、ハッとする。
その人は、僕のいるところより薄暗い場所に立っていて、顔はよく見えなかった。
「さっき、ここに誰か来なかった? …これくらいの背の。」
その人は、鳩尾の辺りに手を出した。
彼の子どもなのかな?
「………いいえ。」
弾む息を整えて僕が答えると、彼は、そう、と言って出て行った。
廊下に続くドアを開けたとき、一瞬外の光がその人の顔を照らす。
………え?!
「……芹沢、樹貴……?」
思わず僕が呟いたとき、その人の姿は扉の向こうに消えていた。
唐突にスマホが鳴る。
「もしもし、ゆづ? どこにおるん?」
電話口の向こうから、ざわざわと人の雑音がする。
「ごめんなさい。…すぐ、戻るから。」
そう言うと、安心したような返事が返ってきた。
「大輔さん。」
会ったら面と向かって言うつもりだったけど、僕は待てずに続けた。
「おめでとう。すごくすごく、素敵だった。」
ありがと、と嬉しそうな声がする。
僕は電話を切ると、急いで控室に向かった。
早く顔を見たい。
目尻にしわを寄せて、少し恥ずかしげに微笑む彼の顔がとても好きだ。
僕は、早く大輔さんに会ってコンサートの感想を伝えたい一心で。
だから、何も気づかなかった。
僕のいた舞台の袖に、小柄な少年が隠れていたことを。
僕がいなくなった後、その少年は舞台の真ん中に出てきて、微笑んだ。
「……素敵。」
鈴の転がるようなその声を、誰も聞くことはなかった。
終わり