とある本丸の日常生活
目を開ければそこは常夜灯の灯された窓のない部屋で、足元に目をやれば今は機能していない跳躍紋の刻まれた床が見えた。
一一帰ってきた。
そう思って、打刀の刀剣男士である宗三左文字は小さく息を吐く。
「皆さん、揃ってますか」
問いかけながら一瞥して、遠征部隊は全員帰還してることを確認する。
宗三を隊長とした今回の遠征では、兄である江雪左文字と弟の小夜左文字、太閤左文字の四兄弟で構成されていた。見落としはない。
「お小夜は起きそうにないですね…」
江雪の腕に抱かれた状態で小さく丸くなっている小夜の頭を撫でるが、すっかり熟睡しているようだ。
人一倍警戒心の強い小夜だが、兄弟達の前ではそれも解いてくれるようになって、安心しきった寝顔を見て宗三にも笑みが生まれた。
「小夜っち遠征先ではずっと気を張ってたわけだし、寝かせといてあげたら?」
「そうですね…」
気づかう太閤の声を聞きながら宗三は灯りに照らされる振り子時計を見て、今が5時前であると知る。この時刻が早朝か夕方か窓のない転送部屋からは分からないが、帰還予定は午前のはずだと宗三は思い出す。
「主もまだ寝ている時間でしょうから、報告は後にして僕らも少し休みましょうか」
「うんうん。そうしよー。あ~疲れたぁ」
うーんと伸びをしてから太閤が、鉄製の頑丈な扉にぐっと力を入れて押し開けてくれる。
扉の先から夏の朝の清涼な空気が流れ込むのを感じ、無意識に大きく息を吸えば身体中が清められた心地になった。
遠征と言えど過去へ飛んでの現地調査は気楽にはなれず、小夜だけでなく宗三も気をすり減らしていた。遠征先で長く歩き回った疲労の蓄積もあり少し気が沈む思いをしていたが、本丸の風がそれを軽くしてくれるようで、小夜を抱えた兄に続いて宗三は転送部屋を後にした。
「ねー。宗三っち」
兄弟達と転送装置のある棟を出て、白藍の空の下本丸へ向かっていると太閤が宗三の袖を引いてきた。
「どうしました」
「あれさぁ」
「あれ?」
太閤が指差す先には紅い花を咲かせた花木が見えた。梅雨明けを知らせるその花は目の覚めるような美しさがある。
「百日紅…ですね」
「え?!なんで今サルが出るわけ」
「なんで貴方が驚くんです。自分で指差してるでしょう」
「え?え?あ!ちがうちがう。儂が見てほしいのそっちじゃなくってチョウチョの方!」
「蝶?」
首と手を忙しなく振りながら見てほしいものが違うと言う太閤の必死な声に、宗三が蝶を探してみればそれはすぐに見つかった。
百日紅の近くには大ぶりの翅を翻してふわりふわり優雅に飛んでいる揚羽蝶が見えた。
「あぁ…」
「あれ宗三っちのチョウじゃない?どっか行っちゃうよ?」
「まぁ、そうですね…」
他の揚羽よりやや大きなそれは、宗三の近くにいつもいる蝶に違いなかった。
「放っておいて大丈夫ですよ。気まぐれに飛んで、また戻ってきます」
「そうかもしれないけど…」
「・・・」
宗三のもとから遠ざかっていく蝶が心配なのだろう。
太閤は目を離したら自然に溶け込んでしまう蝶を必死に目で追っている。
しかし宗三としては、外では片時も離れずにいる蝶が本丸では自由に飛び回るのを好きにさせてやりたい。
けれど弟の気持ちも蔑ろには出来ない。
どちらを取るか天秤にかけると「仕方ない…」と小さく息を吐いた。
「兄様。お小夜を連れて先に部屋へ行っていてください」
自分達のやり取りに気付いて足を止めている江雪にそう声を掛けて先に行ってもらうと、宗三は太閤に向き直った。
「そんなに気になるなら追ってみたらどうです?」
「え…?いいの?」
「お好きにどうぞ」
明け方だが夏の空はすでに明るく、山向こうにある日の光が本丸上空に浮かぶ雲を橙に染め始めていた。
これだけ明るければ足元が危ないこともない。
まして太閤は短刀の刀剣男士だ。宗三よりも夜目が利く。
「宗三っちも来てくれる?」
「そのつもりですよ。お小夜のようにいつ糸が切れるか分かりませんし」
「あ。こども扱いしてるでしょ!」
「してませんよ」
「してる!」
「気のせいです。…ほら、余所見していると蝶を見失いますよ」
むきになり始めた太閤に本来の目的を思い出させると、黄色い頭の弟は「あ!」と目を大きくして蝶の行方を追い始めた。
揚羽蝶を追うのにそれほど苦労はなかった。
二人に見られていることに気付いているように百日紅から付かず離れず飛んでいて、二人が近づいていくと右手へひらひらと移動し始めた。逃げると言うよりもどこかへ誘っているように。
「なんか案内されてるみたい」
太閤も気付いたようでそう呟くのが聞こえた。
小さな躰でどこまで飛ぶのか。羽を休ませることもなく本丸の裏手まで進んで行き、ついには風に舞い上がるように裏門を越えていってしまう。
門を開けて外へ出ると、蝶は二人を待っていたように目の前を通りすぎていった。
「なんか山道行こうとしてるみたいだけど」
「そうですね…」
「宗三っちめんどくさくなってる?」
「まぁ…僕もそこそこ疲れてますからね。山道を上らされるのは、正直面倒です。貴方はまだ付いていきたそうですけど」
人が歩けるように整備されてるとは言え山道は坂道だ。遠征帰りの疲労感はある。今すぐ横になりたいと言うほどではないけど進んで山道を歩きたい気分にはなれない。
なぜか太閤は元気そうだが。
「もちっとだけ付き合ってくれない?」
「はいはい。もう少しだけですよ」
弟の頼みは断れない。
主であろうと面倒であれば渋い顔を隠さない宗三だが、兄弟には甘いな…とつくづく思う。
木の手すりのある階段を10段程上がるとそこから先は緩やかな坂道で、曲がりくねる道をしばらく進むとその先には畑がある。
蝶は横路に逸れることも、山林に咲く花に引かれることもなく、ひらすらにそこへ向かおうとしているようで、夏の朝の清々しい空気の中、宗三と太閤はそれに導かれるように付いていく。
「…ね、ねぇ」
しばらくして、ぐっと口を噤んで蝶を追っていた太閤が宗三に振り返り遠慮がちに話しかけてくる。
「なんです?」
遠慮をしない子が珍しいと思いながら返事をする。
さすがにワガママに付き合わせて悪く思ってきたのだろうか。
「その、さぁ…ずっと聞きたいことがあったんだけどね」
おずおずと話しを切り出す太閤に宗三は首を傾げる。
小夜とは正反対に遠慮も人見知りもしない太閤はとにかく考える前に言葉が口に出るため、控えめな左文字兄弟の中で異質な存在だった。
そんな太閤がずっと聞き出せなかったこと。
宗三と二人きりになったタイミングで切り出したのは他の兄弟には聞けないことということか。
そんな考えがふと浮かびながら宗三は弟の言葉を待った。
「小夜っちのことなんだけど」
「お小夜?」
「うん。小夜っち…ってさ、大切な物はどっかにし舞い込むより、懐で温めときたい派じゃん?」
「それは…貴方の前の主だけでは?」
「今わらじの話ししてないし!」
太閤左文字の名の元になった豊太閤その人の有名な逸話が頭をよぎり、言葉を返せば、太閤は話の腰を折られてむっとした顔をする。
「はいはい。続けてください」
「むむぅ…しっかり聞いてよね。…えっと、小夜っちも大切な物は懐にしまっちゃうわけで、前にさ見えちゃったんだよね。お守りが。あのぉ…主が出陣前とかに渡してくれるやつ」
「あぁ、ありますね。と言うか遠征行く時にも渡されますよね。現に今も預かってますし」
本丸の主である赤羽の力が籠められたお守りは数に限りがあるため本丸の全員には行き渡らせることが出来ない。そのため出陣や遠征など外へ出る者のみ持つことが許された。
「…それが?」
話を促す宗三の表情は硬かった。
「お守り」と聞いて太閤が何を言いたいのか察してしまったからだ。口ごもりながら小夜の話を始めた時から薄々と勘づいていたが、その話にならないことを願っていた。
「…小夜っちの懐にあるお守りさ、ぼろぼろなんだよね。前に本丸の中でうっかり落としちゃったの見てさ、すぐ気付いて閉まってたけど、なんか儂それについて聞いちゃいけない気がして見てないふりしたんだよね。…でもやっぱ知らないといけない気もして」
太閤はぽつぽつと目を伏せながら話す。
太閤はもう揚羽蝶を見ていない。あれに付いていこうと執着していたのは、やはり他の兄弟、特に小夜には聞けなくて宗三だけを引き離したかったためか。
蝶は蝶で目的があるようで、足を止めた二人の見えるところで羽を休めていた。
「・・・。いつ、それを見たんです?」
「え?えっと儂が本丸に来て少し経ったくらいだから…1、2年前かな」
「そうですか。それ程前から…ずっと気付いていてあの子には聞かないであげていたんですね…」
太閤に目線を合わせてしゃがむ宗三の声は柔らかだった。その言葉に太閤は目を大きくする。
「あ…じゃあ…やっぱり」
「はい。貴方が憂う通りです」
小夜が懐に大事にしているお守りは初めは綺麗な青色で傷ひとつない物だった。今はぼろぼろになってしまったけれど、主の守護の効力もないそれを小夜は大事に大事に片時も離さず持っている。
無意識なのだろうか先程も兄に抱えられて小さく丸く眠っていた時も懐をしっかりと握りしめていた。
「・・・お小夜は、一度折れているんです」
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蝶に導かれて辿り着いたのは広く拓けた畑で、その一角に見覚えのある赤い髪の後ろ姿があった。
共も付けずに一人無防備に佇む姿に宗三は呆れてしまう。
「貴方ね…」
近寄って開口一番、言ってやりたいことは朝の挨拶や帰還の報告より現状の文句だった。
「本丸の主である自覚はないんですか」
振り返り宗三を見る赤い瞳には何の感情もなく、白い顔は遠い山から昇り始めた日の光の影となり一層表情を分からなくさせる。
「おかえり。宗三、太閤」
黙っていれば場違いにも屋外に佇む精巧な人形のような赤羽は、宗三の苦言をさらっと流して遠征帰りの二人を迎える言葉を口にした。
「たっだいま~主!」
元気に返事をするのは太閤で、宗三の方は挨拶する気になれなかった。
「主聞いて聞いて。チョウチョがね主のところまで儂らを連れてきてくれたんだよ!これってスゴくない??儂より偵察能力高すぎってわけ!どうしてわかるんだろ」
ウキウキとする太閤は役目は終えたとばかりに宗三の指で羽を休めている揚羽蝶に目を輝かせている。
これについては宗三にも分からないことで、そもそもが蝶が何を考えているのかが分かりようがないのだが、時々ふらっと飛び立って本丸の花や葉の陰で休んでみたり、上空を気ままに飛んでみたりとしているようだが、こうして主の居場所へと翅を動かすこともあった。
「て、違う違う。主!どうしてこんなとこに一人でいるわけ?!しかもこんな朝早くに!あの山道上って来たんだよね。それってむちゃくちゃ危ないって」
「…大丈夫。敵の気配はないよ」
慌てる太閤との温度差たるや、赤羽が山の方へ顔を向けた時にサァと涼やかな風が流れてきた。その中に邪悪な気配がないのは確かだが、太閤は主の言葉に首を横に振って、
「ダメダメ!それでも一人はダメだって。見回りのヒト誰か連れてくとかさー。敵はいなくても熊とか猪とか出るかもしれないし!」
「あと猿も危険ですね」
「誰が危険?!」
「いや今のは貴方の事じゃないですよ」
これは本当に宗三も意図したものではなく食いぎみに反応してくる弟に目をしばたけば、太閤も意地悪されたわけではないと気付いたようだった。
わたた、と慌てて顔を主の方へ戻して、ぴしっと指をさす。
「と、とにかく危険はいっぱいってこと。転んでケガするかもしれないでしょ」
「・・・。そうだね。次から気をつけるよ」
一瞬の間の後、赤羽は気をつけることを約束するが彼女の思う危険は周囲とズレがある。
本当に分かっているのだろうか、と後で釘を刺しておくことを宗三がひそかに思っていると、
「太閤は、大丈夫?」
「ん、儂?」
唐突に赤羽は太閤の心配する。心配された本人はきょとんとしていた。
「うん。…泣きそうな顔を、してたから」
「え」
「・・・」
続く言葉にふいを突かれて太閤は体を強張らせている。口を閉じることも忘れ、答えることが出来ない弟に宗三は寄り添い、「実は…」と代わりに口を開いた。
「この子に、お小夜のことを話しました」
「そう…」
それだけで赤羽は理解したらしい。
空が明るくなっていくのとは反対に主の顔の翳りは濃くなっていく。
この本丸の小夜左文字は一度折れている。
それはまだ赤羽が本丸に来たばかりの頃に起きた、本部との認識の違いによる悲しい事故だった。
前線に立つ本部では危機管理の線引きがよりシビアで、従う刀剣の中傷重傷は当たり前の世界でどれだけ折らせずに歴史を守れるか…という残酷とも取れる環境にある。それが当然の地獄に彼女も浸かっていた。
彼女が本丸に回される任務に当然手を抜くことなどなく、様々な危険性も考慮していたはずだ。
ただ、高難度の任務に中れるだけの実力や覚悟がこの本丸にはまだ足りなかった。
きっと主の想定以上に、自分達は脆かったのだろう。
あれから何年も経つが、宗三の中でそのやりきれなさはなくならない。
「お守りがあったとは言え、私は、小夜に死の恐怖を味わわせた」
赤羽の赤い瞳はまっすぐに太閤を見ていた。
「君の兄弟を、危険な目に合わせて、ごめんね」
無感情で無機質に捉えられがちな主の声色には僅かな震え。その仮面の下から時折こぼれる感情に彼女の苦悩が窺えた。
「ん。ううん。その時本丸にいなかった儂がどうこう言えるものじゃないし。でも知れて良かった…って思うわけ」
主からの謝罪に太閤は首を横に振る。
そして太陽のようににっこりと笑うと、
「ね、主。小夜っちは遠慮っちいから言えないだろうけど、すっごくこの本丸が好きだよ。絶対に死ねないって、死にたくないってがんばってる。だからさ、主はもっともっと小夜っちのこと大切にしてあげてよね」
主を気づかったのだろう。
太閤は兄弟の気持ちを正しく理解して伝えることで赤羽を安心させようとしていた。
そういうことを素直に伝えられる優しい弟が本丸に来てくれて良かった、と宗三は思う。
「それと
そしてつい棘を感じさせる言葉になってしまう自分にはすっかり諦めていつも通り振る舞う宗三だった。
だが、彼も以前とは違い本丸が帰る場所だと素直に言えるようになっていた。そのことに本人は気付いていないが、赤羽が頷くのも見て取り敢えず満足する。
「私も、ここが好きだよ。あそこでは、見られないものが多くあるから…」
振り返り遠い山並みから昇る太陽を見る赤羽の髪も瞳も赤く輝くようで、太陽の昇らない地獄では見られない景色に喜びを覚えているように見えた。
「眩しいな…」
「ねー。まっぶし~いぃぃぃぃ………んぅ」
「え…?」
宗三の呟きに答える太閤は朝日の眩しさに目を細めて、そのまま背後にいる宗三にぽすっと寄りかかってきた。かと思えば膝から力が抜けて滑り落ちる体を宗三が慌てて抱えてやれば、太閤の口からは小さな寝息が聞こえてくる。
「は…?えぇ…寝てる…?」
どうやら太閤の体力に限界が来たらしい。
糸の切れた人形のように力の抜けた弟を腕に抱えると宗三は赤羽に向き直った。
「主、お猿さんが限界を迎えました。…貴方は、まだここに居たいと思っていそうですが、一緒に本丸に帰りますよ」
「…うん」
踵を返せば大人しく着いてくる気配にひとまずほっとしたところで、「宗三」と呼ぶ声に振り返りもせずに返事をする。
「はい?」
「おかえり」
予想外の言葉に足を止めそうになりながら、そう言えばさっき挨拶を返さなかったなと思い出す。
それを主が気にしていたことに、ふっと笑みが溢れてしまう。
「はいはい。無事、帰りましたよ」
けれど決して宗三は振り返ってやらない。
「これで満足ですか?」
