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存在証明と透明な鎖


「あ、局長。ここにいたんですね」
「うん? ああ、チェインか。どうかしたのかい」
「そろそろ符牒の更新時期かな、って」

にゃあ、という猫の声を頼りに扉を開ければ、人狼局の局長である拝が狭いテーブルを前に座っていた。膝の上に猫と載せ、テーブルに並べられた二枚の符牒を磨いている。

「そうか、もうそんな時期なんだねぇ。少しだけ待ってもらえるかい。しまっておきたいから」
「はい、大丈夫です」

符牒。存在を希釈することのできる人狼が、様々な事情により存在を限界を超えて薄めてしまった際、こちら側に戻ってくるために必要となる楔である。それらはどうしてもこの世に残りたい、戻りたいといういわば未練であり、有事の際は符牒を元に存在を呼び戻すことになっている。故に、符牒に書く内容は定期的な更新が必要なのだ。「その内容は、本当に今一番の未練なのか」。時間が進めば変わることも多くある。今書いている内容よりも強い未練ができる可能性などいくらでもあり、確実性を求めるためには常に最新の情報にしておく必要があるのだ。

「…それ。『消えた』人狼ですか」
「その通り」

チェインの問いかけに、拝は符牒を磨く手を止めずにあくまで穏やかに即答した。
符牒があるからといって、「戻ってこられる」とは限らないのが人狼の存在希釈である。戻って来られない理由は様々で、完全に存在が消える前に符牒に書かれた条件が達成できなかったときもあれば、そもそも未練が弱い、といったときもある。
そして、戻って来られなかった人狼はどうなるかと言えば、どうにもならない。この世から存在自体が消え、「なかったこと」となる。

「不思議な話ですよね。消えた人狼でも符牒だけは残るなんて」

チェインが覗き込んだ符牒には、恐らくは女性の名前が刻印されていた。彼女たちも人狼であり、この人狼局特殊情報部隊に所属していたのだろうが。チェインの記憶の中にはもちろん、誰の記憶からも彼女たちのことは残っていない。おそらくは関わったモノ全てがなかったことになっている。ただし、なぜか符牒だけは残るのだ。彼女たちが確かに存在していたのだという証明は、たった一枚の符牒だけが伝えている。

「君たち人狼が、個人レベルで世界の書き換えができる存在だとしても、一度この世に生まれ落ちた存在は、完全にゼロにはできないのかもしれないねぇ」
「まぁ、結局こんな紙切れ一枚しか残らないのなら、意味ないと思いますけど」
「そう。だから、符牒の内容は慎重にね」

拝は磨き終わった符牒を一枚づつ小さな箱の中に丁寧にしまった。安価な物にはできない装飾を施されているその箱は、大切に人狼局内に保管されることになっている。彼女たちの唯一の存在証明。ぞんざいな扱いは決して許されない。

「それでも、拠点をこの街に移してからは消えてしまう人狼はかなり減ったさ。未練を残しやすくなったからじゃないのかと思っているけれど」

一理ある、とチェインはうなづいた。
もともと、人狼は基本的には裏稼業の人間との交流がほとんどであった。なにせ、普通の人間からすれば異能と恐れられる能力である。その上裏稼業の人間にとっては非常に便利な能力であり、必然的にビジネスライクな関係が多くなってしまう。そうなると、この世への強い未練や執着が生まれづらい。

「君たちのような存在でも、この街は受け入れる。友達ができて、家族ができて、大切なひとができる。それは強い未練として充分、だからねぇ」
「私の能力を見ても驚かない人間ばかりですもんね。この街は」

混沌としていて一秒後に死んでもおかしくない街ではあるが、人狼をはじめとした人間のようで人間ではない存在からすればかなり生きやすい。なにせ、普通の人間の方が少ないのである。

「それと、これは僕の個人的な意見だけどね。繋がりが増えたことによって、時間的な猶予も増えた気がするんだよねぇ」
「時間の猶予?」
「そう。境界線を越えてから、存在が完全に消えるまでの時間」

そうなのだろうか。消えてしまった人狼の記憶は一切無いため、比較ができない。そんな思いがチェインの表情に表れていたのだろう。拝がにこやかに言葉を続けた。

「境界線を越えてからこちら側に呼び戻すまで、少しだけ時間があるだろう? 僕は、それは存在が消えるよう、世界が書きかえられていく時間だと思っていてね。世界の書きかえなんて簡単なことじゃあない。きっと、世界に食い込んでいれば食い込んでいるほど、時間がかかるはずなんだ。だから、たくさんの人とであって、たくさんの人と思い出をつくって、たくさんのひとの大切なひとであればそれだけ「処理」に時間がかかって…それが猶予になるのではないかと思っているんだよ」

そうかもしれない。チェインは納得した。人の思いというものは意外と強い、ということをチェインは知っている。それを知ったのはこの街に来てからであるが。
強い想いほど人は忘れたがらない。その抵抗が、世界の書きかえの阻害に一役買っているとしたら。完全に消えるまでの時間が長くなっても不思議では無い。

「まぁ、所詮は僕の妄想だけどねぇ。でも、だからこそ君に関しては安心しているんだよ」
「私を…ですか?」
「そう。どうやら、いいひとたちに出会ってるようじゃないか」

それは、最近出向している秘密結社のことだろうか。確かに、彼らとの出会いはなかなかに衝撃的であった。まっすぐ進むことしか知らないボスだとか。やかましくて下品なクソ野郎だとか。面倒見のいいお姉さんだとか。誰よりも厳しくて、誰よりも仲間を大切に思っている副官だとか。
そう考えたところで、チェインは心のむずがゆさに顔をうつむかせた。すべてをわかった上で、符牒の入った箱を閉じて、丁寧に鍵をかける。

「さて。そろそろ君の符牒を更新しようか」

席を立った拝が、一枚の紙とペンをを取り出した。特殊な術が施されているそれらは、インクが紙に付着し、一定時間経つと書いた内容が消える。その後厳重なロックをかけ、保管室にしまわれた瞬間、文字が元どおり浮き出す。符牒の内容は、局長ですら知ることができない。残念なことに、記憶を吸い出す方法などいくらでもあるのだ。情報漏洩は一切許されない。

「僕はこのまま彼女たちをしまってくるから。その間に書いておくこと」
「…ウッス」

紙とペンを目の前に椅子に座る。部屋を出て行く拝のあとを追うように彼の飼い猫が歩き出した。その後ろ姿が見えなくなった瞬間、チェインが頭を抱えて机に突っ伏した。

(いや、だって、そんな大切なひと、なんてガラじゃないじゃん…)

クールに生きてきたはずなのに。そのあたたかい感情は決して嫌なものではないのだが、どうにもくすぐったさが勝ってしまう。
悔しい、と思ってしまった。誰かをこんなにも大切に思う自分も、誰かの大切なひとになりたいという感情も。そんなことではなく、符牒の内容を決めなくては。そう考えるチェインの頭の中に、一人の人間が思い浮かんだ。

(あのひとにはカッコ悪いところ、見せたくないな)

カッコいいあのひとの、仲間として頼りにされたい。私は彼を支える人間になりたい…ああ、カッコ悪いところを知られそうになったら意地でも戻ってこられそう。
チェインがペンを走らせた。書き上げた文章を見直してみる。

「…いや、コレ、絶対に戻ってくるだろうけど…絶対に嫌だな…」

思わず呟いたチェインの目の前で、書かれた文字は無情にも透明になっていった。
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