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Catcher in the HL

「普通ってなんなんだろうね」

三種類が重ねられたアイスクリームに頬を緩ませるだとか。スクリーンの中で永遠の別れを迎える恋人に涙するだとか。
そういった、一般的には普通と呼ばれる感覚をこの男が知る由もなく。全ての魔道に通じ、求めるものは全て手中に納め、傍迷惑な暇つぶしに精を出すこの男が唯一手に入れられず、理解すらできないもの。それが「普通」であった。

「ええ~?まだ諦めて無かったの~?」

どこともいえない、どこでもない空間。世界と世界の狭間で堕落王フェムトの独り言に答えたのは、今回ばかりは人面瘡などではなく、立派な人間の少女であった。もっとも、世間から偏執王などと呼ばれているこの少女を人間と分類するかはまた別の話であるが。少女、アリギュラはどこからか吊るされたブランコに腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせている。仲がいいかと聞かれれば二人して首をかしげるだろうが、この二人にはとある混沌とした霧の街に興味があるという共通点がある。そのため、こうしてお互いの話相手になることがままあった。つまりは、二人とも暇なのである。

「知らないことがあるというのは気持ちが悪いんだよ。喉の奥に小骨が刺さっているような、そんな気分なんだ」
「そういうもの~?」
「そういうものさ!だから僕は考えたんだ。そう、ランチにパンケーキを焼く片手間にね!」

そう言ったフェムトが指を鳴らす。たったそれだけで彼の魔術は発動し、霧につつまれた街–−ヘルサレムズ・ロットを駆け巡った。それを感じ取ったアリギュラは、「アタシはバターとハチミツがいい~」と主張する。

「普通の世界とはなんなのか。見せてもらおうじゃないか」





ピピピ、という緊急招集のアラーム音でザップは眼を覚ました。
緊急招集の連絡は、メールで送られてくることが多い。大人数に対して一斉に送ることができ、通話の傍受による情報漏洩を防ぐことができるため、と説明されている。また、内容も詳しいことが書かれていることの方が少ない。こちらは、万が一、不正に内容を見られた場合の対策であるらしい。まあ、簡潔に説明するのが難しい案件だから直接話した方が早い、ということの方が多いのではあるが。今回も例に漏れず、ザップのスマートフォンに送られてきたメールには、「緊急事態発生、今すぐに事務所に集合」といったことしか書かれていなかった。

「あら、今日は早いじゃない。起こす手間が省けたわ」

起き抜けの気だるさもなく瞬時に仕事の顔に切り替え、最低限の身支度を整えたザップの背中に声がかかる。昨夜共に熱い夜を過ごしたのは…と考えかけたところで、それよりはこっちが大事かと思考を放棄する。仕事入った、とだけ告げ、そのままひらりと十階の窓から飛び降りた。
途中で数回血糸を壁に当てて勢いを殺し、地面に着地する。コンクリートの壁には数カ所えぐれたような跡ができたが、問題無いの範疇だ。あくまでザップの中で、だが。
アパートのすぐ側に駐めた愛車へと向かう前に、自分の飛び降りた窓を見上げる。そこから彼女が顔を出し、笑顔で手を振っていたので、上機嫌にウインクを返した。よくわからない理由で突然仕事へ向かう自分を、こうしてあっさりと見送ってくれる、そんなものわかりの良い女性は大好きだった。ついでにおっぱいも大きいし、出してくれた手料理も絶品だったので、文句なしである。不満があるとすれば、名前がジェシカだったかアンナだったかが思い出せないところだろうか。
愛車にまたがり事務所へ向かう。この時間帯の入り口ならば、ここから十五分もかからない。最近の仕事とといえば、敵地に潜入し内側からこっそり壊滅させるだとか、空から落ちてくる人間を一人残らずキャッチするだとか、三百に一つ「アタリ」入りがあるというヤモリの尻尾の瓶詰めの出どころを聞き込み調査するだとか、どうにも地味な仕事ばかりであった。今回こそは暴れられる仕事がいいなと不謹慎なことを考えるが、街はいつも通りのせわしなさであり、崩壊の危機に瀕してるようには見えないため、期待はできないだろう。ちなみに、「アタリ」の瓶詰めには超高性能再生機能をもつ異界生物の尻尾が入っており、瓶を開けた瞬間元の姿に戻り、目の前にあるものを全てくらい尽くすのだ。それだけならばただのヘルサレムズ・ロット式ジョークグッズなのだが、観光客が土産にと購入した瓶が運悪く「アタリ」であり、危うく外の世界に混乱を巻き起こすところであったため、警察からの依頼でライブラが回収に勤しんだのである。警察に恩を売ってやったぞと上機嫌な副官を思い出し背筋が震えた。彼の輝く笑顔にはどうしたっていい思い出がない。
もう少しで見慣れた扉だ、といったところで、見知った顔が道を歩いていることに気がついた。ザップの後輩である、レオナルドだ。いかにも平和ですといった顔で、チェーン店のハンバーガーを頬張りながら歩いている。大抵の緊急招集では、ザップが呼ばれていればレオナルドだって呼ばれている。純粋な戦闘力しか必要のない時など、もちろん例外もあるが、相性の良さを買われているのか二人で一つの仕事を任されることは少なくない。

「オウオウいいご身分だな陰毛様。先輩様を差し置いて優雅にブランチか?ああン?」

ライブラの事務所にも行っていない。バイトにも行っていない。休みだとも聞いていない。この時間帯にレオナルドが外にいることを不自然だが、その違和感を感じたというよりは、自分が呼び出されているにも関わらず呑気に食事をする後輩の姿が純粋に癪に触ったザップは、気づけば道に寄り、レオナルドに突っかかっていた。
隣に止まったザップに気づき、レオナルドがザップを見る。しかし、それだけである。いつもであればその呼び名に苦言を呈し、平和そうな顔の割にはザップに負けず劣らずな暴言を言い返しているところであるが何も言わず、ひたすらにハンバーガーを口に詰め込んでいる。
ここにきてザップも違和感を感じ、レオナルドの顔をまじまじと見つめる。その間にも、ハンバーガーを食べる口はもぐもぐと動き続けている。よく見れば、彼がもう片方の腕に抱えているものは、ハンバーガーが大量に詰め込まれた紙袋であった。

「何、お前…どうしたんだよ」

呪いの類を拾ってきただとか、妙な手術をされてしまったとか。そんな不安が頭をよぎる。見た目はいつものレオナルドと変わりないのだが、中身がそっくり変わってしまう可能性など、恐ろしいことにこの街にはいくらでもあるのだ。しかし、そんな心配も視界の端に映った信じがたい光景に霧散してゆく。
レオナルドがいた。ハンバーガーを食べつづけるレオナルドとは別に、だ。3段に重ねられたアイスクリームをだらしない表情で頬張りながら歩いている。ザップは恐る恐る周りを見渡した。
猫に似たもふもふの生物を撫で回すレオナルドに、新作ゲームの販売を待つ行列に並ぶレオナルド、横断歩道を渡るお年寄りの荷物を持つレオナルドと、その他数人のレオナルドが居た。

「はあああああ?!!?」

思わずザップが叫び、周りを行き交う人々がうるさそうにザップを見るが、そんな視線を気にする余裕がザップにあるはずもなかった。





「どうなってんすかコレェ?!」

あいさつもなく事務所に飛び込んできたザップに視線が集まる。事務所にはすでにザップ以外の呼び出された全員が集まっていた。両手と背中にレオナルドを抱え、ザップは何よりも先に事態の説明を求める。抱えられたレオナルドは、それぞれハンバーガーを食べ続けたり、新作ゲームに頬ずりしていたりしている。

「おお…三人も連れてきたのか。まあ、緊急招集の理由は見ての通りだよ」

そう言ったスティーブンが指差した先、部屋の隅には、さらに三人のレオナルドがいた。一人はゲームに勤しみ、一人はギルベルトの淹れてくれたであろうコーヒーを味わい、一人は黙々と本を読んでいる。その側ではレオナルドの友人である音速猿のソニックが、その光景を不思議そうに眺めていた。うげっと思わず声を出してしまったザップだが、とりあえずは、レオナルドの群れに三人のレオナルドを追加した。

「理由はわからないが…とにかく増えてるんだよ、レオナルドが」

頭が痛そうにこめかみを揉むスティーブンが、ため息とともにザップを見る。言外に何か知ってることはあるかと聞かれたようだったので、ザップは全力で首を横に振った。

「私もここにくるまでに何人か見かけててね。ドーナツを配り歩くレオっちとか、写真を撮るレオっちとか。とりあえず一人連れてきてみたけど、見た目に関してはいつものレオっちにしか見えないのよね」
「諜報員や末端構成員でざっと調べて、八百人くらいは確認されました」

誰もが複雑そうにこぼすだけで、結局は何もわからないようだ。いつものレオナルドと違うところといえば、一言も喋らないところと、一つの行動しかとっていないところだろうか。
いや、何もわからない、というには少しだけ語弊がある。誰も口に出さないだけで、全員がある心当たりを持っており、一つの事件を思い出していた。

堕落王。稀代の怪人が、「普通になりたい」などとのたまったことに起因する、大量発生事件。

嫌な予感しかしない。
誰もがそう思った時、事務所に備えられたモニターにノイズが走る。ああ、やはりか。頭を抱えたくなった。モニターからは、聞き慣れてしまった聞きたくもない高笑いが部屋に響いている。

「ご機嫌よう!凡庸な日々を意味もなく消費するだけの人類諸君!いくら平和ボケに平和ボケを重ね続ける愚かな君たちといえども、この街の異変には気づいているだろう?!」

おそらくは、事務所のモニターだけでなく、街中のモニター、電光掲示板、各自のスマートフォンなど、ありとあらゆる媒体がジャックされ、この映像が映されているのだろう。堕落王の口元が歪み、比例するように構成員たちの目が険しくなっていく。

「僕は、普通を理解しようと思ったんだ。いじらしいだろう?この僕が!君たちが退屈でくだらない生活に何を見出しているのか、理解しようとしたんだ!」
「余計なお世話だっつの…」

ザップがぼやくが、モニターの中の堕落王の勢いは止まらない。それどころか、だが!嘆かわしいことに!とさらに激昂する。

「普通とは!こんなにもつまらないものなのか!全くもって度し難い!なんなんだ?期間限定のポテトチップスだの、映画の第二シーズンの公開だの!そんなことをして一体何が楽しいと言うんだい?
あまりにも、あまりにもつまらない世界になりすぎてしまったから、思わずこんなものをつくってしまったよ!」

カメラの前から堕落王が退き、その後ろにいた合成魔獣を映し出した。獅子の頭にキリンのような模様をしたゴリラの胴体、足はダチョウのように見える。
腹からは唸るような音も聞こえるため、相当空腹であるようだ。

「どうにもつまらなかったから、一時間後にこいつをヘルサレムズ・ロットに放つことにするよ!
こいつはね、今やこのヘルサレムズ・ロット内に八百人はいる「普通の少年」だけを狙って喰らい尽くすのさ!ゲームをしようじゃないか、愚かな人類代表諸君。君たちの愛する「普通」とやらを、守ってみたまえよ!」

高笑いを残して、画面はぶつりとブラックアウトした。

「どこがいじらしいんだよ! 変な譲歩見せるなっつうんだよ!!」

ザップが吠えるが、もちろんその声が稀代の怪人に届くことはない。
予想が外れて欲しかったが…と呟くスティーブンがタブレット端末を操作する。

「先ほどの堕落王の話と、術者に調べさせていた情報で状況に整理がついた。まあ全員わかっていると思うが、以前堕落王が大量発生した事件。理論としてはアレと同じだ。堕落王が八百人近くの人間をレオナルドに同調させている。さらに今回は同一化まで意図的に行なってな」
「じゃあ、早い話、あの時と同じように本物のレオっちを見つけ出して、爆弾で同調を解けばいいっとこと?」
「その通り。理論爆弾の手配は既に済んでいる。必要なければよかったんだがな」
「あの、ちょっといいですか?」

慌てたようにツェッドが口を挟んだ。

「原因も、対処法もわかりましたが、堕落王のときはレオ君がいたから本物を見分けられたんですよ。今回は誰も本物を見分けられなくないですか?」
「それも、仮説ではあるが検討はついているのだ」

それまで黙っていたクラウスがゆっくりと声をあげる。クラウスがスティーブンを見れば、心得たというように言葉の続きをスティーブンが引き継いだ。

「現在、レオナルドの人格は八百人近くで希釈されている。その影響下での混乱なのか、平凡な少年を希釈させてしまったからなのかはわからないが、一人につき一つの人格しか現れていない。人格というか…つの特徴や欲望に近いのかもな。おそらく喋らないのもその辺りが影響してるとの推測だ。それと、今回は堕落王がレオナルドを同調させてる。つまり、他人が他人を同調させているんだ。だからこそ、同調しているのは『他人から見た』レオナルドの特徴でしかない。そこから考えれば、本物は『本人しか知らない』特徴をもっているはずなんだ」
「ジョハリの窓でいう、秘密の窓に当てはまる部分が本人にのみに現れている、と我々は考えている」
「…なるほど。本物は、レオ君の人格のうち、レオ君だけが認識している人格である、と考えればいいんですね」
「窓?なんだそれ」
「これだからバカ猿は。本くらい読みなよ、秘密結社でしょ。それとも本も読めないくらい脳みそにガラクタつまってるの?」
「ああ?テメ、一度泣かされたいみてぇだな?」

ツェッドが神妙な顔で頷き、反対にザップは疑問符を浮かべながら首をかしげる。さらにチェインが反応を示し、いつも通りの応酬が始まりそうになったところでスティーブンがわざとらしく咳払いをした。ピタリと口を閉じた二人を見て、続きを話し出す。

「ジョハリの窓、っていってな。自分の特徴を4つに分類して自己理解を深めることに使われる手法なんだが、その中で「自分は知っている」が「他人は気づいていない」という分類がある。その領域が「秘密の窓」と呼ばれているんだ。
…話を戻そう。つまり、他人からは気づかれていない…僕達が知らないレオナルドの人格、特徴、欲望。それが本物に現れているはずだ」
「…えっと、いちばんレオらしくないレオが、本物のレオってこと?」

自分の発言に違和感を感じずにはいられないのか、チェインが顔をしかめながら発言する。それに頷くことで肯定し、さらにタブレットを操作した。

「前回の爆弾に改良を加えて、今回はスマートフォンに理論爆弾の術式を転送する。あと三十分もすれば各自の端末に術式が転送されるから、本物を見つけ次第起動してくれ。本物以外に使った場合何が起こるか保証できないからくれぐれも慎重に、な」

そういうことだ。話し終えたスティーブンが、スティーブンだけでなくほぼ全員が、ザップとツェッドを見つめた。その視線を受けて、互いに顔を見合わせた兄弟弟子は、俺らですか!?と自分を指差した。

「当然だろう、お前らが一番レオナルドと親しいんだ。何がレオナルドらしくて、何が違うのか。その判断材料が僕達にはどうしたって足りないんだよ」
「確かにね。こうして並べられればなんとなくレオっちだってわかるけど。私が知らないこともたくさんあるだろうし」
「いや、にしたって無茶じゃねぇすか?!」
「でも、やるしかないですよね。…時間も、かなり厳しい」

その通り、とスティーブンが肯定する。

「堕落王から放たれる魔獣もそうだが、そもそもレオナルドの人格が耐えられない可能性が高い。一時間という数字は、レオナルドの人格が揮発され始める時間としてもいいだろう。…計画としては、二人には二人でレオナルドを探してもらう。他の構成員にも本物のレオナルドを探してもらうが、思い当たるレオナルドがいたら二人に連絡、二人は特徴を聞いて判断してくれ。二人分の意見が必要なパターンに備えて、二人行動を取ること。それで、なんとか本物を見つけ出す」

できるな、と念を押されては頷く以外の選択肢はない。
よし、というスティーブンの言葉を合図に、各自が慌ただしく準備を始め出した。





「レオが三人くらいピザの配達してるって?増えたらその分大量にバイトいれて仕送り増やすだろうが!」
「レオ君がサラダバーで大量の野菜を食べている…いや、ああ見えて彼は野菜も好んでますよ。あと、バイキングであれば値段以上に食べようとするはずなので、大量に取っているのはむしろ正解です」
「は?レオが貧乳の女に見とれてる?お前アイツの好きな女優知らねぇだろ。アイツおっぱいより太もも派だぞ。よく見ろ短けぇスカート履いてんだろその女」

ごく短い間隔でかかってくる電話の中のレオナルドは、そのどれもがザップとツェッドにとっては当たり前のレオナルドであった。普段であれば、他の人よりもレオナルドのことを理解できているのだと誇りに思うこともできたかもしれないが、状況が状況である。当たり前のことを言うなと、うんざりした気持ちと苛立ちが先行してしまっていた。

「埒があかねぇ!」

悪態をついてザップは辺りを見渡した。そこらかしこにいるレオナルドは、そのどれもが想像の範囲内の行動をとっている。
カフェのテラス席でパスタの大盛りを食べるレオナルド。セントラル・パークのひなたにある芝生に寝転んで穏やかに眠るレオナルド。幸せそうにトッピングマシマシのクレープを頬張るレオナルド。母親の腕に抱かれた赤ん坊をあやすレオナルド。ケチャップとマスタードとチーズがこれでもかと乗ったホットドックにかぶりつくレオナルド。幸せそうな顔で両手にジャパニーズヤキトリを持つレオナルド。

「つーかなんっで半分以上なんか食ってんだよ!欠食児童かよ!!」
「…僕、今度からもっとレオ君に食べさせることにします…」

ビビアンさんのところでお代わり自由のコーヒーを頼んで、空腹をごまかしてるんですよね…と給料日前に力なく笑うレオナルドを思い出し、ツェッドが思わず遠い目をした。
全力のツッコミに肩を上下させていたザップがもう一度辺りを見渡して見ても、見えるのは平和ボケした『普通の』レオナルドのみ。時計を確認すれば、タイムリミットまであと二十分といったところか。早く見つけなければ、レオナルドという人間が消滅してしまう。ザップやツェッドの焦りは積もるばかりであった。
そのとき、とす、という軽い音とともに、何かがザップの背中にぶつかった。

「あ?」

レオナルドだ。振り向いたザップが見たものは、後ろからぶつかってきたレオナルドがザップを一瞥し、すぐにまた走り出して行く瞬間であった。

何かに追いかけられている気配はない。ただ、ひたすらに何かから逃げているようであった。

「なあ、今の…」

ザップの直感が違和感を告げ、目を細める。
ツェッドに意見を仰ごうとするが、直前にかかってきた電話に対応している最中であった。

「そうですね、はい、レオ君はシュミレーションゲームも守備範囲内です」
「…」

ではやはり、自分の勘だけが頼りだ。一体何を違和感としたのだろうか。レオナルドの特徴。先ほどのレオナルドと自分の知るレオナルドをすり合わせる。
俺たちの知っているレオナルドは?

「−−−間違いねぇな、アイツか!」

ツェッドの驚きの声を背中に受けながら、ザップはレオナルドを追いかけた。
幸いなことにこの道は直線が続いており、通行人も多くはない。レオナルドもただまっすぐに進んでいる。
非力な一般人と秘密結社の戦闘員。その差は明らかで、レオナルドとザップの距離はすぐに縮まった。ザップに追われていることを察したらしいレオナルドは、少しでも距離を稼ぐためか路地裏に飛び込んだ。ヘルサレムズ・ロットの路地裏は、魔術や区画変動の影響か道が複雑に入り組み、別れているため、追っ手を撒くには確かに最適だろう。
遠くへ行きすぎていないことを願って飛び込んだが、レオナルドはまだ直線に進んでいる。これならすぐに追いつけるだろうと更に加速した。

「彼が本物のレオ君ですか!」

ザップを追いかけてきたツェッドが合流し、ともに追いかける。レオナルドは未だ道を曲がる気配はない。

「手間かけさせやがってこの陰毛頭が!」

レオナルドとの距離は手を伸ばせば届くまでになり、さあ首根っこを捕まえてやろうと手を伸ばす。
そのときであった。

「ぐおあああああああああ?!」
「…これは…!!」

視界が回る、いや、正確には高速で視界が変わっていく。人のひしめく雑踏、ドロドロの水が流れる下水道、高度五百メートルの空、高速で線路を進む地下鉄。ザップが何度か経験したことのあるそれは、神々の義眼を持つ少年にしかできない芸当であった。
視界をかき混ぜられ足を止めたザップとツェッドに構うことなく、レオナルドは走り続ける。どこか当てもなく逃げているらしい。

「待てやこのやろ、あーくそ!吐く!」

二人が視野混交からようやく解放された時には、すでにレオナルドは道の先にある角を曲がり、視界からは消えてしまっていた。様々な視界を入れ替えられたことによりひどい吐き気に襲われるが、こちらはライブラの精鋭である。遠くへ行かないうちにと同時に駆け出し、角を曲がる。

「神々の義眼、まさか使ってくるとは思いませんでしたが…これで確定ですね!」
「だな、流石の堕落王もこんなカミサマの玩具まで同調させられねぇだろ!」
「ちなみに、なんで気づいたんですか」
「あ?見りゃわかんだろーが」

足を止めず、ツェッドの方を見ることもせず、ザップは声を荒げた。

「俺らの知ってるレオは、逃げねぇだろ!何が相手だろうと!」

角を曲がった先にレオナルドの姿は見えず、三つほどに枝分かれした道があるのみであった。くそ、とザップは舌打ちし、すぐ右に建つ五階程度のアパートメントに目をつけた。パイプや窓の出っ張りを足場に上へとのぼりつつ、ツェッドに向かって声を上げる。

「二手に分かれるぞ!俺は上から探す! お前は下から探せ!あと番頭に連絡しとけ、本物見つけたっつってな!」
「分かってます、可能なら増援を頼みますが、期待はできませんよ!」

ツェッドの言葉を聞き終わらないうちに、ザップが屋上へとたどり着いた。そこから下を注視しつつ目の前の建物へ飛び移る。早く見つけなければ。タイムリミットものせいもあるが、見慣れない様子のレオナルドの姿が余計にザップの胸に焦燥感を生んでいた。なんとしても捕まえなくてはいけない。そんな気がしたのである。

(見つけた!)

足の速さの関係なのかあまり遠くには行っていなかったらしい。思ったよりも早くレオナルドを見つけることができた。ザップは自分の足元を確認した。今いる建物の高さは三階程度だろうか。ならこのままでいいか、とザップはそのままレオナルドに向かって足を踏み出した。
何かが迫ってくる気配でも察したのか、レオナルドが立ち止まり、上を見上げる。その時にはすでにザップが自分に向かって落ちてくる真っ最中であった。レオナルド思わずぽかんと目と口を開き、固まってしまう。逃げるんじゃねえぞ、と心の中で祈りながら、ザップはあることに気がついた。

このままだとぶつかるな?

そう思ったのはレオナルドに激突し、レオナルドを下敷きに地面に倒れ伏したあとであった。一般人にこれはマズイのではないかとレオナルドを確認したが、驚きすぎて目を白黒させながら固まっているだけであった。たくましくなったな…などと感動を覚えつつ、このまま理論爆弾を起動しようと体を起こし、ザップはスマートフォンに手を伸ばす。

「!」

ふ、とザップの目の前が暗くなった。更に言えば、軽いめまいのようなものが起こり、体勢が崩れてしまう。その隙をついて下敷きにしていたレオナルドがもがき、抜け出したのだろう。捕まえていた感覚が無い。眼を使いやがったか、とザップは舌打ちし、だが闇雲に動くことはせず、今ならすぐ近くにいるだろうと見当をつけて意識を集中させる。レオナルドは戦闘員ではない。故に、気配を消すなどという芸当ができるはずもないのだ。そこだ、とレオナルドがいるであろう位置に血糸を伸ばし、レオナルドを絡め取った。そのまま自分の元へ引っ張り寄せる。何とか逃げ出そうともがいているようだが、もう逃がすつもりはない。腕の中に抱き込んで、座り込んでいることをいいことに足を絡める。腕に収まる大きさ、高めの体温、ひなたの匂い。姿は未だ見えていないが、レオナルドで間違いないだろう。

「お前よー、何がそんなに嫌なんだよ」

思わず、ザップはレオナルドに話しかけていた。他人には知られていない、レオナルドしか知らない「逃げたい」という思い。堕落王により暴かれてしまった、心の中にしまっていた気持ちだと分かってはいるのだが、いや、むしろだからこそ納得がいかなかった。

「どうせ逃げねぇくせによ、お前そんなこと考えて、んで隠してたのかよ。往生際が悪いんじゃねぇの。認めちまえばいいだろーが。逃げたいときは言えばいいだろ、しんどいってよ」

ぴたり、とレオナルドの動きが止まる。言葉が届いているかはわからないが、それでもザップは続けた。

「逃げたいなんて思ってても、本当に逃げたら死ぬほど後悔すんのはお前だろ。だから、どんなに弱音吐こうが喚こうが、逃がしてなんかやらねぇし、助けてやろうとも思わねぇよ。けど、また前に進めるようになるまでとっ捕まえててやるくらいならできんだぞ」

レオナルドが「逃げたい」と思うことは何も不思議なことではない。なにせ、つい最近まではただ平凡に暮らす一般人だったのだ。それが、神様の気まぐれにより神々の義眼などという迷惑なモノを押し付けられ、さらにこんな平凡とは対極にいるような街まで来ているのだ。逃げたいと思わない方がおかしい。
しかし、そこで逃げないだけの、むしろ自ら進んでいく心の強さがあることをザップは知っている。そのことを好ましくすら思っているのだ。でなければ日常的につるんだりしていない。
感情に無理やり蓋をして、押し込んで隠して見ないようにしてしまうよりは、素直に弱い部分を認めて潔く立ち止まる方が強くなる、というのがザップの持論である。だからこそ、逃げ出したいと思う時ぐらい誰かを、自分を頼って立ち止まってもいいと思うのだ。もっと強くなるのだから。
ぱちり、と視界が開けた。どうやら義眼の使用を止めたらしい。腕の中に捉えたレオナルドとザップの目が合った。見えていなかったが、どうやら向かい合わせになっていたようだ。

「安心して任せとけよ」

青く輝く瞳から目をそらさず、額と額を合わせた。直接レオナルドの瞳を見つめる機会など滅多にないのだが、なるほど、確かに綺麗だな、とザップは場違いに呑気なことを考える。それは人の手では到底及ばないような精緻なつくりをしているからでもあるが、どちらかといえば、レオナルド自身の強さが瞳の光に現れているからだろうな、と勝手に結論づけた。もっと強くなってみせろよ。心の中だけで呟いた。

「お前をとっ捕まえてんの、誰だと思ってんだ?このザップ様だぞ。逃げようったって、離してやらねぇよ。だからまぁ、立てるまで大人しくしてるんだな」

不敵に笑ってみせれば、見開いた目をさらに大きくさせたレオナルドが、ぐっと唇を噛み締めた。泣くのを我慢しているのだろうか。相当不細工だぞ、と盛大に笑ってやろうとも思ったが、喉の奥で笑うだけに留めておいた。ザップ様は優しいのだ。
血糸でスマートフォンを取り出し、理論爆弾を起動する。小さな電子音がしたかと思えば、すぐにレオナルドの瞳に瞼が下され、全身の力が抜けていった。
帰るか、と何事もなかったかのようにレオナルドを肩に担ぎ、スマートフォンからツェッドの連絡先を探す。

「終わったぞ、今から事務所帰っから」





苦しくて、不安で、押しつぶされてしまいそうで。全てから、逃げ出したかった。
いつもなら抑えて内側に閉じ込めておけるその感情が、枷を失って暴れ出す。気が付けはどうしようもなく走っていて、逃げられるわけでもないのに足が動いた。
わかってはいるのだ。こんなことをしていてはいけない、こんな想いは押し込めていなければならないと。

僕が決めたことだから。僕が背負ったものだから。僕から背負ったから。
僕の、せいだから。

そのはずなのに、足は止まってくれなかった。

「安心して任せとけよ」

捕まってしまうことが怖かった。何に、とは自分でもよくわからないけれど。
ただ、この腕の中に捕まってしまうことは、不思議と心地よく感じた。まるで自分を丸ごと肯定されているような。心の全てを預けてしまってもいいと言われているような。どうせ、しばらくしたら放り出されるのであろうが。

体の中に様々な感情が流れ込んでくる感覚がした。
逃げたかった思いは、そんな感情の中に埋もれ、蓋をされていく。
またこの気持ちが顔を出して、どうしようもなくなってしまったときには。また、僕を捕まえてくれるのだろうか。
そんなことを考えていたら、ゆるゆると意識が闇に引きずられていった。僕を見つめる彼の目がひどく優しく見える。そんな天変地異みたいなことあるのかな。笑いそうになりながらも、僕の意識は完全に闇の中に捕らわれていった。





「戻りました」
「おー、おつかれ」

スティーブンの用事を終え、ライブラの事務所に帰還したツェッドにスティーブンが労いの言葉をかけた。これが受け取ったものです、とUSBメモリの入った封筒を渡せば、おつかいは一人の方が優秀だな、と苦笑される。どちらかといえば兄弟子との行動に問題があるのだが、という言葉は飲み込んでおいた。

「…で、あの、貴方は何を」
「は?見りゃわかんだろーが報告書だよ」
「そうじゃなくて…いや、なんでもないです」

あんだよ、と歯をむき出して威嚇するザップから、そのザップの膝に頭を乗せて青い顔で唸るレオナルドに視線を移す。三人掛けのソファの端にザップが腰掛け、その膝を枕にレオナルドが寝転んでいる。ザップは片手でその頰をつまんだり、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜていたりと忙しそうだ。報告書を書いている、というのも本当で、反対の手とそこから伸びる血糸がノートパソコンのキーボードを叩いていた。無駄に器用だなと思いながら、「レオ君は大丈夫なんですか」と問えば、今日は百目兎の駆除だったんだよ、とスティーブンから回答が返ってきた。
百目兎、といえば、その名の通りウサギによく似ているが全身に目がついている異界産の生物である。凶暴性もあり、頻繁に住人を襲うくせに繁殖力も高いという厄介な生き物で、時折ライブラが駆除にあたっている。大量の百目兎に囲まれながらの駆除活動は確かに、精神衛生に良くない。なにせ、何百何千とある目が一斉にこちらを見てくるのだ。思い出すだけで背筋が寒くなる。一般人の感覚を未だ持ち合わせるレオナルドの精神には特に悪影響だろうが、大量の目を持つこの生物の駆除にレオナルドの参加が効果的であるのもまた事実である。
今回のように、任務後のレオナルドが精神をやられ、倒れることは珍しくない。しかし、ザップがこうしてレオナルドをケアするようになった−−いや、ケアになってるのかあやしくはあるが−−のは最近の話である。具体的にはレオナルド大量発生事件の後だ。


「…いや、すんません、何も覚えてないんすよ」

仮眠室で目を覚ましたレオナルドは、そう答えた。その直後、六人のレオナルドとソニックが事務所の隅で戯れている写真を見せられたレオナルドが悲鳴をあげたのは言うまでもない。そんな姿もまさに皆の知るレオナルドであったため、安堵をもたらしたのではあるが。正確に数えたところ、本人を含め八百三人のレオナルドが発生していたらしい。それを聞いたレオナルドが再び倒れそうになっていた。
終わったぞ、という簡素な連絡を受け取ったツェッドがザップと合流した時には、街中のレオナルドは元の人間に戻り、本物のレオナルドはザップの肩に担がれていた。意識は無いが眠っているだけのようで、その後すぐに仮眠室に連れて行けば小一時間ほどで目を覚まし、一応、と検査をしてみても、特に異常は発見されなかった。

事後処理はこちらで引き受けるよ、と言うスティーブンに報告書を提出し、自分の水槽に戻ったところでふと逃走するレオナルドのことを思い出す。そのときはレオナルドを取り戻すことに必死でそこまで考えは回らなかったのだが、自分と兄弟子の二人が見たものは、レオナルドにとってはあまり好ましいものではなかったのではないだろうか。あのレオナルドは本人だけが知る部分だ。と、いうことは、他人には知られたくなかった、一番心のやわらかい部分なのではないだろうか。それを不可抗力とはいえ、あのようなかたちで暴かれてしまったのだ。本人に記憶がないとはいえ、不快なことには変わりないだろう。そのことをザップにそれとなく伝えたのだが、「ハァ?弱みは暴いてナンボだろ、暴いて食ってやらぁ」と一蹴されてしまった。この兄弟子は、と当時は呆れるしかなかったのだが、その後ザップのレオナルドに対する態度が変わっていることに気がつき、戸惑いを隠せなかった。精神的に弱っていると構っているし、眼の暴走やら何やらで動くのが大変そうなときも、自然に担いで事務所まで帰ってくる。
よくよく観察していれば、レオナルドの方もザップに素直に甘えているような様子が見受けられる。膝枕だって嫌だと突っぱねることはできたはずだ。そもそも、これまでは精神的ダメージにより倒れたとき「大丈夫です」の一点張りで、あまり周りを頼ることはしていなかったのだ。

「うーん、わからなくもないんだけど。でも多分、あたしが考えてるよりもっと適当で、雑で、大雑把で曖昧なものだと思うんだよね」

何が起きているのだろう、と首をかしげるツェッドにチェインははそう答えたのだが、かえってツェッドの戸惑いを深くしただけであった。もう少し深く聞きたいところではあったが、その時のチェインの意識は既にギルベルトお手製パンナコッタに全て持っていかれており、諦めたのである。人類は難しい。

「うう…もう大丈夫です、起きます」
「はぁ?んな真っ青な顔で何言ってんだよ。寝てろよまだ」
「でも報告書…」
「今俺がPC使ってんだ、せめて空くまで待ってろよ」
「ていうかこの枕固すぎません?休めるもんも休めなくないですか?」
「いい度胸してんな落としてやろうかコラ」

口でのやり取りは相変わらずではあるが、拳で軽くレオナルドを小突く姿は優しさすら感じる。レオナルドにとってはいい変化であるし、スティーブンをはじめとした構成員たちも気にする様子は無い。それならばまぁいいか、とツェッドも向かいのソファに腰掛けた。

これは余談だが、スティーブンとライブラの情報部が行なった「事後処理」とは、レオナルドの偽のプロフィールをさりげなく流すことであった。今回の事件により、レオナルドの姿が街中の住民の目にさらされることとなった。もちろんライブラの構成員であることや、神々の義眼を持っていることまでは知られていない。しかし、ある意味有名になってしまったレオナルドから世間の目を逸らさなければ、いつ暴かれてしまうかわからない。ここでレオナルドに関する、出回ってしまった情報を躍起になって抹消してしまえば、裏があると勘付く輩がでてくるだろう。そのため、平凡な一般市民であるように見せかけた、実際に平凡な人間ではあるため、完全な嘘とも言えない情報を流したのである。あの少年は何者なんだと調べても出てくるのは平凡な情報ばかり。増えたレオナルドの行動も相まって、調べるほどの価値もないだろう、と深くまで調べようとする者もおらず、街でのレオナルドの話題は少しずつ風化している。この街には、それよりも話題になりそうな事件で溢れかえっているのだ。そしてその情報の中に「この少年に手を出せば銀色の猿が噛み付いてくる」というものもあったのだが、嘘か本当か、誰にも知るすべはなかった。





「結局なんだったんだ?」

フェムトは心底訳がわからないという顔で首をひねる。その隣では、レオナルドを食べることに特化した合成魔獣が満足そうにパンケーキを頬張っていた。ひたすらにフェムトから量産されるパンケーキを一皿頂戴し、これでもかとハチミツをかけていたアリギュラは、そんなことどうでもいいじゃない、と上機嫌に言う。

「フェムトには向いてなかったんでしょ~普通ってやつにさ~」
「ふむ…確かにどうにも退屈な世界だったよ。思わずゲームを始めてしまうくらいにはね」
「でも、アタシは好きだったよ~あんな世界も~」

きゃっ、とアリギュラが頬を染める。それはまさに恋する乙女のような表情であった。実際に恋する乙女ではあるのだが、そんな彼女に愛された恋人が今どんなことになってしまったのかは割愛する。

「だって~愛だったじゃない~!愛は最後に勝つのよ~!」

ハチミツが染み込んで甘ったるくなったパンケーキを、幸せそうに頬張った。
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