それは突然、日常を。
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ワイシャツの袖口から覗く腕時計が、午前8時35分を差していた。
駅から学校までは歩いて15分。
どう足掻いたって8時40分からのホームルームに間に合うわけがない。
一本前のいつもの電車を乗り過ごした時点で遅刻は確定していたんだから、むしろもう何時に行ったって変わらない。
諦めと同時に一息ついて、私は駅のホームの階段をゆっくりと下り始める。
さっき電車が発車したせいか、吹き抜ける低気圧の強い風がとても心地良かった。
もう朝のホームルームが始まってるな。なんて考えながら外に出ると、冷たい水滴が鼻の上をかすめた。
案の定見上げた空からは、小さな雨粒達がしとしとと降り始めていた。
9月の空はどこか寂しい。
そんなことを思いながら、私は予報通りの雨に溜め息をついて、持っていた傘をゆっくりと開いた。
今から行ったら1時間目の現代文には間に合うだろうと、仕方なく学校へ向かう為に重い足を進めたその時だった。
「落ちた。」
知らない男の声が耳に入って、私は思わず足を止めた。
私に話しかけているわけじゃないとも思ったが、周囲を見渡して見ると明らかに今この場所には私しかいなかった。
振り返ろうとしたその時には、すでに私の足元にしゃがみ込んでいる男の姿があった。
そして男は気だるそうにゆっくりと立ち上がる。
「これ。」
「え?」
「これ。落ちた。」
早く受けとれと言わんばかりに突き出された男の大きな左手には、黒いパスケースが握られていた。
入学祝いに親に買って貰った私のお気に入りのパスケースだ。
「あ、ありがとう。」
その男は私と同じ湘北高校の制服を着ていた。
多分190近くはあるだろうか。私の頭2つ分ははるかに大きい。
男の長めの黒い前髪が微かに揺れて、その隙間から覗く端正な顔立ちに私は目を奪われた。
色白で透き通った肌。スッと通った鼻筋と少し薄めの唇。キリッとつり上がった一重瞼。
私と同じ1年生だろうか。
どこかで見たことがあるような気もしたが、この顔立ちにこの出で立ちなら、一度見たら絶対に忘れないと思う。
「…雨」
男はそう呟きながら空を見上げ、雨空に向かってうんざりしたような表情を浮かべていた。
よく見ると男の傍らには自転車が停めてあって、わざわざパスケース一つ拾うために立ち止まってくれたのかと思ったら、何だか急に申し訳ない気持ちになった。
「傘ないの?」
「ない。」
「入ってく?」
そう言った瞬間、突然傘を差し出した右手をぎゅっと掴まれた。
突然のことに驚いて、私は思わず男の顔を見た。
男はそんな私の顔を見つめて右手を掴んだまま、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
男に追い詰められながら、私は一歩一歩男から離れるように後ずさりする。
「近いんだけど。」
「…」
「聞いてる?近いんだけど。」
「…見たことある。」
「は?」
ついに追い詰められて、私は壁に背中を打ちつけた。
気がつけば、鼻が当たるか当たらないかの距離に男の顔があった。
ゆっくりと詰め寄ってくる男から逃れようとしても、私の背中は壁に当たって動けない。
このままでは唇と唇が当たりそうな距離まで近づいてきて、思わず私は声を上げた。
「だから近いってば!」
その瞬間、私は男の股関目掛けて右膝を思いっきり蹴り上げた。
我ながら見事なクリーンヒットだ。
「いってぇ…」
男の綺麗な顔が歪む。
やばい。やってしまった。
どうして私はこう、昔から気が強くて可愛げがないんだろう。
だけど急にキスされそうになったんだから、これはきっと正当防衛だ。
私は男の横をすり抜けるようにして走り出した。
後ろで男が何か言っているような気がしたが、そんなのはお構い無しだ。
私は雨が降りしきる中、遅刻確定なのに全力疾走で学校までの道のりを走り出した。
息が上がり心臓が高鳴っていたのは、怒りなのか、焦りなのか、何なのかはわからなかった。