それは突然、日常を。
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今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
正確には目が覚めては寝返りをうっての繰り返しで、中々眠れなかったと言うのが正直なところだった。
重い身体を起こしてもなお、昨日の流川くんの姿が頭の中から離れなかった。
いつも自信に満ち溢れている彼の、あんなに弱々しい姿を見るのは初めてだったからだ。
あの時の彼の声や体温、仕草一つを思い出す度に、心臓が鷲掴みされた様に痛んで熱くなる。
なぜ流川くんは、私が洋平に告白されたことを知っていたんだろう。
いつ。どこで。何で。
そんなこと聞いたところで、彼の満足する答えなんて持ち合わせていないのに。
玄関で履き慣れたいつもの靴に足を通していると、「今日は早いね。」と言う母の声が背後から聞こえた。
眠れなかったからとはさすがに言えず、「まぁね。」と苦笑いして玄関のドアを開けた。
生憎の曇り空に自然と溜め息が溢れそうになって、少しだけ冷たくなった朝の空気を無理矢理吸い込んだ。
そしてゆっくりと視線を下ろした先に見えた彼の姿に、私は一瞬息を飲んだ。
「洋平…」
呼吸をするように、吐き出す息と一緒に彼の名前が溢れた。
私のその声に応えるように彼は顔を上げると、ゆっくりと歩き出して私の前で立ち止まった。
「おはよう。咲。」
「…おはよう。」
洋平に会うのはあの日以来だった。
ましてやここ最近は一緒に登校することも殆ど無くなっていたから、まさか今日に限って待っているなんて思わなかった。
まさに不意打ちだ。
強く風が吹いて、金木犀の花弁が地面の下で小さく踊るように舞った。
乱れた前髪の隙間から覗いた彼の表情はいつもと変わるず穏やかで、制服からはいつもと同じ煙草の香りがした。
「行くか。」と言って私の半歩前を歩き出す彼の後ろを、私は前髪を整えながら頷いてゆっくりとついていく。
駅まで繋がっているこの路地を、学校に向かうために洋平と歩くのはいつぶりだろうか。
最後に一緒に登校した日は、暦の上では夏は終わっていると言うのに残暑が厳しくて、緩やかなこの上り坂を上るのにも嫌気がさしていた様な気がする。
いつの間にか季節はすっかり秋めいて、肌寒い秋風にのって金木犀の香りが鼻を掠めた。
ワイシャツの袖口から、悪戯に冷たい風が入り込む。
「「さむっ。」」
何の前触れもなしにお互いの声が見事に重なって、思わず2人で顔を見合わせた。
目が合うと洋平は「ははっ」と声を出して笑った。
そんな彼につられるように、私の口元からも笑みと一緒に自然と短い息がフッと溢れた。
「やっと笑った。」
「え?」
「咲、ずっとここに力入ってたから。」
そう言って、洋平は自分の眉間を人差し指でグッと押さえた。
私も彼と同じように自分の眉間を押さえてみる。
正直そんな自覚は微塵もなかった。
「そんなことないよ。」
「そうか?」
「ただ…」
ただ、洋平に対してどう接するのが正解なのかをあの日からずっと考えていた。
彼の気持ちを知っているくせに。だけどその気持ちに応えられないくせに。
自分が洋平に笑顔を向けて良いのかがわからなかった。
私だけが何もなかった様な顔をして笑っているのは、あまりにも無責任で自分勝手なことの様な気がしたからだ。
当たり前の日常が当たり前ではなくなったあの日から、洋平を幼馴染みの枠に嵌めておくことが正しいのかがわからなかった。
間違えてまた、私は洋平を今まで以上に傷つけるんじゃないだろうか。
「またごちゃごちゃ考えてんだろ。」
私のそんな思考をかき消すように、洋平は額にある私の手を掴んだ。
幼い頃からの癖とはいえ、自分の手がいつの間にか眉間から前髪に移動していたことに気付かず驚いた。
そして視界の晴れた私の目の前に飛び込んできたのは、少し呆れたように苦笑いしている洋平の顔だった。
「どうせ俺に申し訳ないとか思ってんだろ。」
「え。」
「私は自分勝手だーとか。最低だーとか。」
「何で…」
何で。
洋平にはいつも私の気持ちが手に取るようにわかってしまうんだろう。
いつもそう思っていた。
だけど何でかなんて、その答えはすごく簡単なことなんだ。
「幼馴染み、なめんなよ。」
そう言った洋平の笑顔は優しく穏やかで、幼い頃から私がよく知る彼の笑顔だった。
こんな状況で少しだけ涙が出そうになってしまったのは、彼の左眉が下がっていないことに安堵したからだけじゃない。
こんな状況でも彼が心底優しい言葉をくれるからだ。
「…いいの?」
「ん?何が。」
「洋平のこと、…幼馴染みだって思ってて。」
「それ、俺の台詞だろ。」
「え?」
「咲のこと、ちゃんと諦めるように努力する。」
「洋平…」
「咲は俺の大切な幼馴染みだから。」
洋平が「都合いいけど。」と笑いながら言った。
違う。都合が良いのは私の方だ。
だけど彼が許してくれるなら、今まで通り幼馴染みのままでいてくれるなら、私は彼の言葉に甘えたい。
どんなに足掻いたって、どんなに理由をつけたって、私にとっても洋平が大切な幼馴染みだという事実が変わることはないんだから。
ゆっくりと瞬きをした後、頭の片隅に彼の顔が浮かんだ。
「で、流川には言ったわけ?」
まさに今思い描いていた彼の名前が出て驚いた。
「え、何を?」
「何をって。好きだって。」
「…言ってない。」
私のその言葉に、洋平は「はぁ?」と気の抜けたような声を上げた。
「俺には好きな人がいるって、あんなにハッキリ言っといて?」
「流川くんが好きだとは言ってない。」
「いや、言わなくったってわかるだろ。むしろ早く言ってやれよ。」
「…自信ない。」
「自信ないってどこが。あんなに想われてて。」
「自分に。」
「え?」
「自分に、自信ない。」
彼がどれだけ私のことを想ってくれているか、そんなことはさすがの私でもちゃんとわかっている。
そして想いながらもなお、こんな私のことを待っていてくれている。
だけど私はまだ、彼に気持ちを伝えることが出来なかった。
今まで恋愛というカテゴリーにおいて、◎をつけられる恋愛なんてしてこなかったし、むしろ✕をつけたい程うんざりだと思ってきた私だ。
そんな私に彼と普通の恋愛が出来るとは思えなかった。
眩しすぎる彼との日常は想像することさえ困難だったし、きっと心無い周囲の言動に耐えられなくなる。
昨日の女子生徒の嫌みなんてまだ可愛い方で、無くなったのが上履きで良かったなんて思う羽目になるかもしれない。
そんな私を彼が拒絶するわけがないし、むしろ周囲は関係ないと一蹴してくれるだろう。
そんなことはわかっている。
だけど怖い。強くなれない。資格がない。
ただ、自信がない。
「またごちゃごちゃ考えてんな。」
その声と同時に頭をポンッと叩かれた。
気付いた時には洋平の大きな手のひらに、髪の毛をグシャグシャにされていた。
「咲は余計なこと考えすぎ。」
「そんなこと…ないよ。」
「大丈夫だよ。自信持て。」
「洋平…」
「幼馴染みの俺が保証する。」
俯いていた顔を上げると、笑う洋平の顔が幼い頃の無邪気な姿と重なった。
私の頭を叩いた温かいその手はあの頃よりも骨張って大きくなったけれど、変わらず今もそこにある事にまた泣きそうになった。
彼の目を見ながらゆっくりと小さく頷くと、彼も同じように小さく頷いた。
涙を堪えるように鼻をスンッと鳴らすと、金木犀の香りと一緒に微かに洋平の煙草の香りがした。
