眠れぬ夜は君を想う
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白波が足首を覆った。
私は波に足の裏が吸い寄せられるような何とも言えないこの感覚が好きなのだが、彼はサンダルの中に砂が入り込むのが気持ち悪いと怪訝そうな顔をした。
波打ち際を歩こうと言い出したのは彼の方なのに。
「見て、咲。砂がやばい。」
「歩こうって言ったのリョータじゃん。」
「やっぱ歩くんじゃなかった。」
リョータは唇を尖らせて、片足を軽く浮かせてサンダルの中に入った砂を海水で洗った。
彼はたまに無邪気な小学生みたいなことをする。
金曜日の午後8時。
もう季節は秋だと言うのに、私の体に夏の様な湿った空気が絡みつく。
私達以外誰もいない夜の海は今日も静かに変わらずそこにあって、私のかけがえのない時間を演出してくれる。
「どうせまた砂つくよ。」
「わかってるよ。」
「リョータのことだからわかってないかと思った。」
「おい。」
指先が掠めるほど近い距離にあるのに、彼の手と私の手は触れることはなく別々に中を舞う。
思わず伸ばしてしまいそうになるこの手を、私がいつも見えないところで強く握り締めていることを彼は知らない。
だけど今日は片手にペットボトルを握りしめているから、自然にその感情を制御出来るからいつもよりも都合が良かった。
もちろんペットボトルの中身は私の好きなレモンティーだ。
この間ノートを運ぶのを手伝ってくれたお礼だと、街灯の下の自販機でさっきリョータが買ってくれたものだ。
缶で充分だったのだが、生憎自販機にはペットボトルのレモンティーしか売っていなかった。
蓋を開けた瞬間、レモンの香りが一気に広がった。
「めっちゃレモンのにおいする。」
リョータはそう言って、鼻を鳴らして大きく空気を吸い込んだ。
私も同じように吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出しながら言った。
「お姉ちゃんの香り。」
「え?」
「お姉ちゃんがレモンティー好きだったから。」
姉がいなくなってから何年かは、この香りは切なく苦しい香りでしかなかった。
だけど今はどこか懐かしい香りに変わった。
「初めて聞いた。」
「初めて言った。」
「そしたら俺は海のにおいだな。」
「海?」
「ソーちゃんのにおい。」
“ソーちゃん”とは、彼の亡くなった兄のことだ。
誰にでも優しくて、頼りがいがあって、バスケが上手で、とにかく彼の憧れの自慢の兄だったことは聞いていた。
顔は写真でしか知らないが、優しそうな目元がリョータによく似ていた。
「好きだな。海のにおい。」
自分自身の感情すらわからず波打ち際を彷徨っていた彼が、もういっそ暗い海の底に沈んでも構わないと泣いていた彼が、笑いながらそんなこと言うもんだから、私は思わず泣きそうになった。
嬉しくて泣けてきて、私は涙が溢れ落ちないように視線を上げて空を見た。
疎らに散らばって光っている星を見て、いつだったか彼と2人で叶わない願い事をしたことを思い出した。
だけどもうお互いにそんなものは必要ない気がした。
街灯の光が微かにリョータの頬を照らして、それがあまりに綺麗で、私は無意識に彼の方へと手を伸ばしていた。
我に返ってその手をどうしたら良いのかわからず、私は思わず彼の髪を撫でた。
リョータは身体の向きはそのままに、首だけこちらに向けて私の方を見た。
「何?いきなり。」
「いや、…成長したなって。」
「何だよそれ。親戚のおばちゃんかよ。」
「せめてお姉さんにしてくれる?」
「ちっさい姉ちゃんだな。」
リョータはそう言いながら、大きな目を細めて笑った。
微かに覗くガラス玉みたいな瞳が綺麗で、私はあの日の彼を思い出した。
もしもの話をするのはあまり好きではない。
だけどこんな時決まって思うことがある。
あの日。海で見かけたリョータのことを見て見ないふりしていれば、リョータを好きにならなかったんだろうか。
それ以前に私が海に行かなければ、リョータが同じクラスに転校して来なければ、そしたらこの胸の痛みを味わわなくてすんだんだろうか。
残念ながらそんな都合のいい話なんてあるわけない。
そんなことは到底無理な話だ。
私が海に行かなくたって、リョータが別のクラスに転校してきたって、きっと私は彼を無視することなんて出来なかった。
一度目が合ってしまったら、ガラス玉みたいなその瞳に引き寄せられて、吸い込まれて、きっと何度だって同じように溺れてしまう。
「咲、どうした?」
そう言う目の前の彼が、先程とは違い心配そうに顔を歪めていた。
まずい。さすがに感情が高まりすぎた。
「何でもないよ。」
「そう?」
「うん。いつも通り。」
「ならいいけど。」
いつも通り。
私は自分にそう言い聞かせながら、今この瞬間もまた自分に嘘を纏って演じている。
感情の高まりを抑えるように、私はまた波打ち際へとゆっくりと一歩足を沈めた。
足首を濡らす波の冷たさが気持ち良かった。
波はまた私のサンダルの中に砂を残していく。
リョータは相変わらず唇を尖らせて、私の隣で砂を洗い流していた。
「リョータは調子良いんだって?」
「俺もいつも通りだよ。」
「シュート練習頑張ってるって。めっちゃ入るようになったって聞いた。」
「え、誰に?」
「ヤスに。」
私はペットボトルを持ったまま、それをボールに見立ててシュートを打つマネをした。
「あぁ、ヤスか。」
「練習しすぎてバッシュの紐も切れたって。」
「うん。」
「何?」
「いや、三井さんから聞いたのかと思った。」
「え、三井先輩?」
「最近仲良いから。咲と三井さん。」
「そんなことないよ。」
リョータの言葉に少なからず驚いた。
まさか私と三井先輩が、端から見たらそんな風に見えていたのかと。
三井先輩は私にとって仲良しの友達でもなければ、顔見知りの先輩でもない。
秘密の共有者だ。
誰も知らない、誰にも知られてはいけない、私の秘密を知っている唯一の共有者。
それに代わる答えを何も用意していなかった私は、今リョータに三井先輩のことを問われたらうまく切り抜けられる自信がなかった。
何とか話を逸らそうと咄嗟に頭に浮かんだのは、先程口にしたヤスとの会話だった。
それが一番話の流れを考えたら自然だと思ったからだ。
「バッシュの紐は?買ったの?」
「まだ。とりあえず昔のやつに付け替えた。」
「新しいの買わないとだね。」
「じゃあ、一緒に見に行く?」
だからまさか私の何気ない一言に、彼が特別な一言を返してくるなんて夢にも思わなかった。
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