それは突然、日常を。
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今夜は頬に当たる夜風が気持ちよくて、俺は思わず外に出た。
なんて言うのはただの口実で、本当は眠れなかった。
無理矢理起こした気だるい体を動かしながら、ポケットから取り出した煙草の先端に火をつける。
ゆっくりと吐き出した煙が消えていくのを見つめながら、あの日の彼女の姿を思い返していた。
目を閉じるとあの日の出来事が浮かんでは消えて、すべて夢だったんじゃないかという錯覚に陥りそうになる。
時刻は午前0時。
真夜中の住宅街にはほとんど音はなく、どの家の明かりも当たり前のように消えていた。
切れかけた街灯の弱々しい光だけが道路を照らしている。
気配の薄い真夜中の道は少しだけ息がしにくくて、自然と足が進むのは行き慣れた海沿いの道だった。
幼い頃からよく彼女と一緒にこの道を歩いた。
あの頃はまだ彼女の方が俺より背が高くて、手を繋いでいるとよく姉と弟に間違えられたっけ。
彼女は幼い頃から正義感が強く、どんな時も人に流されたりはしなかった。
言葉にしてしまうと聞こえは良いが、客観的にものを見ることが多いから自分のことはいつも後回しだった様に思う。
飾らない性格と恵まれた容姿で、女子からは妬まれ、男子からは絡まれ、嫌な思いをしたところもたくさん見てきた。
だからいつの間にか、俺が強くなって彼女を守らなければいけないと思うようになっていた。
その使命感が、幼馴染みだからと言う単純な理由ではないと言うことは自覚していた。
それと同時に、彼女にとって俺はただの幼馴染みだって事もちゃんとわかっていた。
いつの間にか、煙草の先端が指先に触れそうなほど短くなっていた。
火傷する前にポケットに手を伸ばし、携帯灰皿を取り出して擦り付けるように吸殻を閉まった。
より一層静けさが増した夜の闇の中で、耳に響いてきたのは規則的に靴の裏を踏む足音だった。
その音のする方に目をやると、パーカーを目深に被り、俯き加減でランニングしている1人の男の姿が目に入った。
すれ違いざまに男の顔が見えて、思わず無意識に声が出た。
「…流川。」
少しだけ声が震えた。
予期せぬ偶然に困惑してしまう自分が情けない。
流川はイヤホンを耳に入れていたので声は聞こえなかったようだが、俺の姿に気づくとその場に立ち止まった。
前髪が下りているせいで俺が誰なのかわからないのか、怪訝そうに眉間にシワを寄せて俺の顔をジッと見ている。
いつものように前髪をかき上げ顔を見せると、流川は「あ」と小さく声を上げた。
どうやらやっと俺だと気づいたらしい。
「水戸か。」
「流川、何してんだよ。」
「ランニング。」
流川はそう言って、少し乱れた息を整えるように小さくゆっくりと息を吐いた。
「驚いた。」
「何が。」
「流川でもこの時間に起きてることあんだな。」
「俺だって眠れない時ぐらいある。」
「何で?」と聞こうとして聞くのをやめた。
「水戸は、何してんの。」
「俺?俺は、…夜の散歩。」
まさか聞き返されるとは思わず、在り来りの返答しか思い付かなかった上に声が上ずってしまった。
俺の答えに納得したのかしていないのか、流川は相変わらず真顔のまま無表情で俺を見ていた。
こんな真夜中でさえ、流川の姿は凛として見えた。
涼しげなその目元から送られる真っ直ぐな視線は、男の俺から見ても羨むほど綺麗だった。
「前髪。」
「え?」
「水戸だってわかんなかった。」
「あぁ。」
「幼いな。」
「咲にも同じこと言われた。」
前髪が下りている俺のことを幼いと笑う、彼女の無邪気な笑顔を思い出す。
「槙田っておもしれぇよな。」
「そうか?昔からあんなんだけど。」
「いいよな、幼馴染みは。」
“幼馴染み”
俺はこの6文字の言葉にずっと縛られてきた。
まるでそれが当たり前の日常のように、ずっと自分で自分にそう言い聞かせてきた。
俺のことを幼馴染みだとしか思っていない咲は、いつも無防備に、無自覚に、身勝手に、俺のすべてに触れてくる。
幼馴染みという安心感から来る信頼を前に、まるで理性を試されているような毎日。
どうせ報われないのならと、別の女と付き合ってみたところで何も変わらなくて、勝手に期待して、勝手に幻滅して、結局毎回咲への気持ちを再確認するたけだった。
だからそんな言葉を流川にかけられるほど、今の俺にとって腹立たしいことはない。
「嫌味かよ。」
「は?」
「どうせ俺は、いつまでたっても幼馴染みのまんまだよ。」
咲のことを好きだという純粋でまっさらな感情が、咲の中に流川が存在し始めてから次第に変わっていくのが嫌でもわかった。
醜くてどす黒い嫉妬と言う感情にだ。
だけど流川は相変わらず表情一つ変えずに、静かに俺の方を見て言った。
「嫌みじゃねぇ。嫉妬してる。」
「…は?」
一瞬、流川が何を言っているのかわからなかった。
「知ってるか?嫉妬。」
「知ってる、けど。」
「俺は最近知った。教えて貰った。三井先輩に。」
「え、三井さん?」
「俺は嫉妬してる。水戸に。」
「何で俺になんか嫉妬すんだよ。」
「水戸が羨ましい。」
その言葉に俺は耳を疑った。
だってそれはこっちの台詞だろ。
宣戦布告でもされるのかと思っていたから正直驚いた。
「こんな奴のどこが羨ましいんだよ。」
「俺はなんも知らねぇ。」
「え?」
「槙田のこと。癖とか、好きなもんとか、小さい頃とか。」
「それは俺が…」
「幼馴染みだから。だろ?」
本当はわかっていた。
一度触れたら戻れなくなる、そんなことはわかっていたんだ。
だけどこのままでいたら、咲は俺の気持ちなんて一生知らないままなんだろう。
そう思ったらいっそ知ってほしかった。
知って俺のために悩んで、俺のことだけを考えてほしかった。
咲の全てを自分だけの物にしたいと思ってしまったら、一度抱き締めてしまったら、自分の感情が制御出来なくなっていた。
すべてが崩れるのはわかっていたのに、あの時咲に気持ちを伝える以外の選択肢が俺にはなかった。
もう無理だった。
16年間、幼馴染みから抜け出せなかったのは全部自分のせいだ。
結局俺は幼馴染みなんて言葉に縛られながらも、ずっとそれにしがみついていた。
流川は何も悪くない。
今さらになって我慢できなくなって、全部流川のせいにした。ただの臆病者だ。
だけど、流川の言葉に今度は少しだけ救われたような気がしたのは確かだった。
「ありがとな、流川。」
「何が。」
「色々と。」
「意味わかんねぇ。」
流川はコンクリートの壁に寄りかかると、肩から下げていた黒いボディバックからペットボトルを取り出した。
その蓋を開けるのと同時に流川が言った。
「なぁ、槙田って昔から?」
「何が?」
「すげぇ鈍感なの。」
「あぁ、あれは昔から。」
「苦労してんな。」
「お前もな。」
「俺はちゃんと好きだって言った。」
「俺も言ったよ。」
突然強く吹いた塩辛い風が頬を撫でて、長い前髪が額に触れてくすぐったかった。
流川は一呼吸置いてから、「あっそ。」と呟いてペットボトルを口に運んだ。
前髪の隙間から微かに見えた流川の顔が、一瞬揺らいだような気がした。
「気にならないのかよ。」
「別に。俺の気持ちは変わんねぇし。」
「俺は流川が羨ましいよ。」
その言葉に嘘はなかった。
流川のように自分の気持ちに正直になれたらと、何度思ったかわからない。
さっきの狼狽えたような表情は錯覚だったのか、目の前にいるのはいつも通りの流川だった。
流川は「そろそろ行くわ。」と言ってペットボトルをバックに仕舞うと、パーカーを被り直しイヤホンを耳に入れた。
「じゃあな。」と言う俺の声に応えるように軽く右手を上げると、颯爽と来た道を戻り走り去って行った。
遠く続いている真っ黒な夜の中に、流川の後ろ姿が段々と小さくなって消えていく。
俺はそんな光景に目を細めながら、誰に言うわけでもなく心の中で「帰るか。」と呟いた。
流川に背を向け回れ右をして、ポケットの中から煙草を一本取り出して火をつけた。
赤くなった煙草の先端を見つめながら、俺はあの日彼女に言われた言葉を思い出していた。
“ごめん。私好きな人がいる。”
彼女に言われたその言葉を流川に言わなかったのは、俺のせめてもの悪あがきだ。
本当は全部わかっていた。
彼女が俺の気持ちに応えられないということも。
彼女が俺以外の誰かのことを想っているということも。
わかっていたからこそ、日常が壊れるのが怖くて伝えることができなかった。
吸い込んだ煙草の味がいつもよりも苦く感じて、煙を吐き出しながら柄にもなく少しだけ泣きたくなった。
目を閉じると、またあの日の彼女の姿が浮かぶ。
“洋平、ありがとう。”
最後にそう言った彼女は、俺が今まで見た中で一番綺麗だった。