それは突然、日常を。
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初めて下駄箱から上履きが無くなったのは中1の冬だった。
漫画で見たことのあるような情景に、一瞬これは現実なのかと考えてしまった程だ。
誰がやったのかは大体予想はついていた。
いつもわざとらしく絡んでくる洋平のファンだろう。
洋平が桜木くん達と一緒にいるようになったのは中2になってからで、中1の頃の洋平は爽やかで優しいとファンがつく程人気があった。
この寒い中足元を靴下1枚で過ごせという事かと、悲しみよりも先に犯人に怒りがこみ上げてきたのを覚えている。
そしてそれと同時に、洋平をきちんと枠にはめておかなければいけないということを悟った。
ちゃんと幼馴染みという枠にはめておかないと、こういう事が絶対にまた起きると思ったからだ。
そして高1の秋、また私の上履きが無くなった。
「…ない。」
「…ないね。」
結衣と一緒に、今目の当たりにしている現実を思わず口にしながら思う。
まさか高校生になってこんな仕打ちを受けるとは。
もちろん今回も誰がやったのかは大体予想はついていた。
校内ミスターコン1位の彼と親密になるということはそういう事だ。
私は小さく深呼吸の様な溜め息をつくと、仕方なく職員室へスリッパを借りにいこうと足を進めた。
その時、誰かに肩を掴まれた。
振り返らなくても、目の前の結衣の高揚した顔でそれが誰なのかはすぐにわかった。
「王子…」
そして私よりも先に結衣が彼の名前を呼んだ。
名前ではなく“王子”と呼ばれたのがよほど気に入らなかったのか、彼は明らかに眉をひそめて嫌そうな顔をしていた。
なので私はわざとらしく彼の名前を呼んでみる。
「おはよう。流川くん。」
「…おはよ。」
少し怪訝そうな顔のままそう言う彼に、「王子、顔がまた引きつってますよ。」と思ったが、口にしたら余計引きつりそうなので言うのはやめた。
「流川くん今日は早いんだね。」
「槙田、上履きは?」
「…ない、ね。」
彼にしては鋭いところをついてくる。
まさか突然そんな事を聞かれるとは思っていなかったので、模範解答を用意し忘れ事実をそのまま答えてしまった。
彼は私のその言葉に何を思ったのか、自分の上履きを突然脱ぎ出した。
「え、何。」
「俺の履いて。」
「サイズ合わない。」
「あぁ、そっか。」
彼はそう言って、無造作に脱ぎ捨てられた踵の潰れた上履きを再び履き直した。
私はそんな彼の姿を見て思わず笑ってしまった。
彼なりの優しさだったのかもしれないがあまりにも唐突で、だけどそれが彼らしくて何だか可笑しかったからだ。
「何だよ。」
「いや、流川くんらしいなって。」
そう言う私の腕を結衣はグイグイと引っ張りながら「ホントに付き合ってないの?」何て小声で言うもんだから、私は「ない。」と即答した。
「私職員室でスリッパ借りてくるね。」
「俺も行く。」
「え、いいよ。私のだし。」
「行く。」
「でも…」
「行く。」
職員室までついてくると言い張る流川くんと、そんな彼を後押しする結衣を振り切れず、結局私は彼と一緒に職員室へ向かうことになった。
流川くんと並んで長い廊下を歩く。
途中体育館履きで過ごしても良かったかな、なんて考えも浮かんだのだが、そんなことより今の私は周囲の視線を耐えるので精一杯だった。
登校時間真っ只中に王子と2人で廊下を歩くという事は、今更ながらほとんど自殺行為に等しかったという事に気がついた。
そんな私の事なんて露知らず、彼はいつもの様に飄々としている様に見えた。
「流川くん。」
「ん?」
「何でついて来てくれたの?」
「だって俺のせいだろ。」
「え?」
「わりぃ。」
驚いた。
彼はこういう女子特有の生態には疎いと思っていたから、正直意外だった。
しかしながら断じて流川くんのせいなどではなく、彼が謝る必要なんてどこにもない。
彼の話し方からさぞかし消沈しているのだろうと思ったら、全くもってそうではなかった。
「でも俺、槙田のこと諦めるつもりねぇから。」
周囲を気にせず堂々とそう言う彼に、私は恥ずかしくなり思わず彼から目を背けた。
三井先輩に、“流川はオフェンスの鬼だから覚悟しといた方が良い”と言われたのだが、その言葉の意味がようやくわかった。
彼は本当にストレートに私に気持ちをぶつけてくるのだ。
私が何を言ってもどんな態度でも決して引かず、何の迷いもなく真っ直ぐに攻めてくる。
まさにオフェンスの鬼だ。
「槙田。」
「…何?」
「顔赤い。」
流川くんはそう言って小さく笑いながら、私の頬に優しく指先で触れた。
彼の笑顔に周囲がざわついたのがわかった。
私は無意識に彼の前髪を押さえ付けるようにして彼の顔を隠していた。
彼は突然のことに驚いたような顔をしたけれど、それ以上に私自身が一番驚いていた。
何をしているんだ私は。
そう思ってすぐに、彼の前髪から指を離した。
「…ごめん。」
「もっかい。」
「え?」
「もっかい触って。」
そう言いながら上目使いで催促する彼のせいで、私の顔はさっきよりも熱を帯びて赤くなっていく。
自分で自分の行動の意味がわからないのに、もう一回なんて出来るわけがない。
「友達はそんなことしないから。」
「友達じゃねぇし。」
思わず私が口にしたそのフレーズに、彼は敏感な程反応した。
あの日私は彼と約束したのだ。
“友達”という枠を外して、彼を“流川楓”としてちゃんと見ることを。
流川くんは本当に自分に正直だ。
いつか似た者同士なんて思ったことがあったけれど、彼と私は全然違う。
視線をそらして逃げてばかりの私とは違って、彼は絶対にその視線をそらさない。
「ごめん。」
「じゃあもっかい触って。」
「は?」
「友達じゃねぇから。」
「調子乗りすぎ。」
「槙田。」
「何?」
「顔赤い。」
流川くんはそう言ってまた小さく笑った。
ちゃんと意識していないと、思わずもう一度その髪に触れてしまいそうになる。
真っ直ぐ私を捉えていた彼の視線が、不意に私の背後へと移動した。
彼の顔つきが明らかに変わったのがわかった。
彼につられる様に私も思わず振り返ると、そこには洋平の姿があった。
「洋平。」
そう私が名前を呼ぶと、洋平はいつもみたいに優しく笑った。
「おはよう咲。流川も。」
「おはよう。」
「咲も流川も、早くしないと遅刻すんぞ。」
「え、もうそんな時間?」
「まだもうちょい時間あるけど。…咲、上履きは?」
「あぁ…、忘れた。」
「何で忘れんだよ。」
洋平は笑いながら私の頭をポンッと叩くと、「先行くわ。」と言って教室へとゆっくりと歩き出した。
流川くんと一緒にいて電話を切ってしまったあの日、洋平にかけ直したが電話は繋がらなかった。
何かあったのかと心配になったが、次の日何事もなかったかの様に電話がかかってきた。
流川くんとの事は何も聞かれなかったので、敢えて彼と何があったのかは洋平には話していない。
とりあえず、いつも通りの洋平で安心した。
が、流川くんはそうではなかった。
彼はいきなり私の頭をポンッと軽く叩いた。
何事かと思い彼の方を見ると、彼はもう一度私の頭をポンッと叩いて、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。
「…水戸は幼馴染み。」
「え、うん。」
「そう思ってんのは槙田だけだろ。」
そう言う彼の声はいつもと同じように抑揚のない落ち着いた声だったが、彼が何かに苛立っているのは充分に伝わってきた。
だけどそれが何なのかがわからない。
洋平と私は幼馴染だ。
その事実は変わらないし、お互いにそれが当たり前だと思っている。
「洋平も思ってるよ。」
「思ってねぇよ。」
「思ってるって。」
「本当にわかんねぇの?」
「何が?」
「水戸だって男だろ。」
「さすがにそれはわかってるってば。」
「…どあほう。」
「はぁ?」
「まじでどあほう。」
彼は私の頭に置いたままの大きな手で、前髪をクシャクシャと掴むように撫でた。
さすがに訳もわからずしかめっ面で乱れた前髪の隙間から彼を見ると、一瞬狼狽えたような表情を見せた。
その表情があの日の教室の彼と重なった。
一瞬にして、彼の体温、吐息、香り、唇、あの日の全部を思い出す。
そんな私と目が合って、彼はまた小さく笑った。
「槙田。」
「何?」
「顔赤い。」
なぜ彼がいつもよりも感情的になっていたのか、なぜ彼があんなことを言ったのか、私にはその理由はわからなかった。
だけど、なぜ自分が無意識に彼の顔を隠そうとしてしまうのか、その理由はわかってしまった。
他の人に流川くんの笑顔を見せたくないからだ。
だから今もほとんど無意識に、私の手は彼の前髪に触れようとしている。
どうして自分がそんな事を思うのかよりも、そんな自分の行動に驚き思考が全く追い付かない。
彼に触れるのなんて初めてじゃないのに、その理由に気がついた瞬間に心臓が大きく波打って、鼓動が物凄い速さで私の体を駆け巡っていくのがわかった。
これ以上流川くんと2人きりでいたら、自分が自分でなくなるような気がした。
その理由を、私はちゃんと考えなければならない。