それは突然、日常を。
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ラインの通知音で目が覚めた。
ベッドに寝転んだまま寝返りを打つように、私は枕元に置いてあるスマホを手に取った。
時刻は午後4時半を過ぎていた。
どうやら遅めの昼食を食べた後、横になって一眠りしてしまったらしい。
ラインの画面を開くとそこには、「大丈夫?何かあったら言ってね」というメッセージと共に、心配そうに顔を歪める可愛い犬のスタンプが表示されていた。
結衣からだ。
何かあったらとはどういう意味だろうと思ったが、私は「大丈夫。ありがとう。」ととりあえず返信し、スマホを握りしめたまま仰向けになり部屋の天井を眺めた。
文化祭の次の日、私は熱を出した。
2日目の頭痛と何か関係があったのかはわからなかったが、多少はあれが前兆だったのかもしれない。
文化祭の次の日は代休だったので、とりあえず家にある解熱剤を飲んで一日中ベッドで寝ていた。
その日の夜にほとんど熱は下がっていたのだが、何年かぶりの発熱に体のだるさが取りきれず、今日は学校を休んだ。
言ってしまえばズル休みだ。
あの時のことは、不鮮明ながらに覚えている。
彼の体温、吐息、香り、唇、全部。
私の体に未だに染み付いているそれこそが、あの日の出来事が夢ではないということを証明していた。
だけど、あのキスの意味は正直わからなかった。
彼が私に恋愛感情を抱くとは到底思えないし、流川楓と言う人物像から想像してみても、それと結び付けるのはどこか違うような気がした。
流川くんだって男だ。
「思わず」「したかったから」「何となく」そんな理由でも私は驚かない。
「無かったことに」そう言われてもきっと私は納得してしまう。
男なんてみんなそんなもんだ。
だけど、そう思うとなぜか心臓の奥の方がキュッと痛んだ。
熱は下がったはずなのに、火照る体と破裂しそうな頭を冷やしたくて、私はまだ少し気だるい体を無理矢理起こした。
階段を下りリビングにいる母に声をかけると「大丈夫?」なんて心配そうな声が聞こえてきたが、私はそれに「大丈夫。」と返して玄関のドアを開けて外に出た。
時刻は午後5時になっていた。
外はまだ明るかったが、昼間のような暖かさは感じられなかった。
最寄りの駅のコンビニの前を通り過ぎようとした時、自動ドアの開く音と共に「ありがとうございましたー」とやる気のない店員の声が聞こえた。
その声と一緒にコンビニから出てきた人物を見て、私は驚いて思わず彼の名前を呼んだ。
「…流川くん!?」
私がそう名前を呼ぶと、彼は顔を上げて私と同じように驚いたような顔をした。
「…槙田、何でいんの?」
「こっちの台詞なんだけど。」
「丁度良かった。」
「え?何が?」
「今から槙田んち行こうと思ってた。」
流川くんは「お見舞い。」と言って、左手に持っていたコンビニのビニール袋を持ち上げた。
手渡されたビニール袋の隙間から、大好きなカフェオレの文字が見えた。
コンビニから家までは歩いて5分程度だ。
次第に薄暗くなってきた空には雲が薄くかかってきて、涼しい風が頬や髪の毛を撫でた。
公園の網のフェンスの横を通り抜け、コンクリートの花壇の脇を歩く。
流川くんとこの道を並んで歩くのは、何だか不思議な気分だった。
彼が押す自転車がカラカラと心地よい音を立てて、いつもの帰り道が全く別の道の様に感じられた。
コンビニの前で袋を受け取り別れても良かったのだが、家まで送ってくれると言う彼の好意に思わず甘えてしまった。
病み上がりとかそんなことは関係なく、私がカフェオレを好きなことを知っていてくれたことが素直に嬉しかったからだ。
「流川くん、わざわざありがとね。」
「熱出したって聞いた。」
「あぁ、うん。もう下がったから大丈夫。」
あの日のことは考えないようにと外に出たつもりだったのに、流川くんに直接会ってしまったら胸の奥がざわつき始めた。
極力いつも通りに、何も変わらない自分自身を演じているつもりだがうまくやれているのか自信はなかった。
そんな自分を悟られないようにと、私は当たり障りのない言葉を探す。
「よくうちの場所知ってたね。」
「槙田の友達に聞いた。」
「友達って、結衣?」
「わかんねぇ。いつも一緒にいる騒がしい人。」
「結衣だね。」
ふと、さっきの結衣のラインの文面を思い出した。
「何かあったら」とはこのことだったのかと納得した。
ラインに流川くんの名前を入れなかったのは彼女なりに気を遣ったのか、それとも私を驚かせたかったのか。
どちらにせよ、楽しんでいる結衣の顔が頭に浮かんだ。
「部活は?」
「今日は自主練。休んだ。」
「え、何で。」
「槙田に話したいことあったから。」
「話したいこと?」
バスケットが大好きな彼が、部活を休んでまで私に話したかったこととはなんだろう。
そう思った後にすぐに気がついた。
流川くんは、あの日のことを「無かったことに」したいんじゃないだろうか。
「思わず」「したかったから」「何となく」してしまったあの日のキスを、きっと「無かったことに」してほしいと私に言いに来たんだ。
わざわざ直接言いに来てくれなくても、流川くんと私は友達なんだから、ちゃんと「無かったことに」するつもりだったのに。
気まぐれな彼のことだから仕方ないと思いながらも、なぜかまた心臓の奥の方が締め付けられるように痛んだ。
そんな焦る気持ちを押し殺し、ざわつく胸に静かに蓋をした。
「大丈夫だよ。友達なんだから、あの日のことはちゃんと無かったことにするから。」
私は彼の方を見ずに真正面を向いたまま、息つく間もなく早口でそう言った。
すると突然カラカラと鳴っていた自転車の音が止まり、歩幅を合わせてくれていた彼が急に立ち止まった。
私もつられるように立ち止まり彼の方を見ると、明らかに彼は怪訝そうに顔を歪めていた。
「誰がそんなこと言った?」
「え?」
「俺はあんたのこと友達なんて思ってねぇ。」
夕方の閑静な住宅街に、彼の抑揚の無い低い声が静かに響いた。
それと同時に、私のポケットの中のスマホが小刻みに震える音がした。
画面が見えないので誰からなのかはわからなかったが、絶えず震え続けて中々鳴り止まない振動に、これはきっと着信だと確信する。
「ごめん。」と一言呟いて、私はポケットへと手を伸ばした。
取り出したスマホの画面を確認すると、そこには洋平の名前が映し出されていた。
「水戸?」
まるで私の心を見透かしたように彼が発したその名前に驚き、私は思わず画面の通話ボタンを押してしまった。
電話越しに「咲?」と私の名前を呼ぶ洋平の声が聞こえた。
その声に応えようとした瞬間、流川くんはスマホを持つ私の腕を思いっきり引っ張った。
その拍子に、自転車がガシャンッと大きな音を立てて倒れた。
『咲?何だよ今の音。』
「悪いけど、今俺と話してるから。」
『…流川?』
「どうも。」
『…咲は?』
私が洋平の呼び掛けに応えるように「ごめん、後でかけ直す。」と言うと、洋平は「わかった。」とだけ言ってスマホを切った。
洋平の声が電話越しだからなのか、いつもよりも低く感じた。
流川くんに掴まれたままの腕が熱くて、私は思わず手のひらからスマホを地面に落としてしまった。
本当に私は彼の前で何かを落としてばっかりだ。
私が拾い上げるよりも先に流川くんはスマホに手を伸ばし、それをゆっくりと拾い上げた。
「…わりぃ。」
驚いた。
謝るのは私の方なのに、なぜか流川くんに謝られたからだ。
彼は私にスマホを手渡すと、そのまま私の手をギュッと握り締めた。
さっきの強引に引き寄せられた感覚とは違う、彼は少し遠慮がちに優しく私の手を包み込んだ。
「ムキになりすぎた。」
「あぁ、大丈夫だよ。洋平にはあとでかけ直すから。」
「かけ直すなよ。」
「え?何で?」
「好きな女が他の男と喋ってたら誰だって嫌だろ。」
一瞬、彼が何を言ってるのかわからなかった。
だけど目の前の彼の狼狽えたような表情があの日の彼と重なって、私の心臓がドクンっと大きな音を上げた。
「俺、あんたのこと好きだから。」
彼の言葉と自分の大きな心臓の音と共に、押し殺していたあの日の感情が一気に込み上げてきた。
彼の体温、吐息、香り、唇、全部。
私の体に染み付いている彼のすべてが身体中に流れ込んでくるような感覚に襲われて、彼の指先の体温で更に全身がどんどん熱くなっていく。
平然を装うとすればするほどに、なぜか私の心臓は言うことを聞かず暴れ出す。
恥ずかしさでいっぱいになりながら、私は必死に言葉を引き出した。
「…ごめん。」
「何が?」
「流川くんのこと、そんな風に見たことない。」
悪い癖が出ないようにと必死に握りしめていたもう片方の手が、無意識に額へと移動していた。
そんな私の手に、いつかと同じように彼の細くて長い骨張った指先が優しく触れる。
「じゃあ、今から俺のことちゃんと見て。」
私はわかっている。
恋愛感情なんてものは単なる一過性のもので、永遠に続くような尊いものじゃないということを。
そして男という生き物の生態が、どれほどろくでもないかということもちゃんとわかっている。
だから異性に抱く恋愛なんて感情は無意味なものだと思っているし、ひどくくだらないものだと思っている。
だけどそんな思いとは裏腹に、私の心臓はさっきとは比べ物にならない程大きく波打っていた。
鼓動が物凄い早さで私の体を駆け巡り、彼に掴まれた手が焼けるように熱くなっていく。
彼の真剣で迷いの無いその瞳から、私はまた視線を逸らせなくなっていた。