それは突然、日常を。
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洋平は無理して笑う時、昔からいつも左眉を少しだけ下げて笑う。
“わりぃ。何でもねぇ。”
洋平が昼休みに言ったあの言葉の意味を考えてみても、彼が何に無理して笑っていたのかはわからなかった。
久しぶりにあんな顔をさせてしまった原因が自分にあるんだと思ったら、このままわからないままにしておくのも何となく気が引けた。
「咲、机くっつけるよ。」
結衣にそう言われたのは、ちょうど帰りのホームルームが終わった時だった。
「え?」
「机。くっつけた方が作業しやすいから。」
「あぁ。うん。」
結衣はそう言って、自分の机を回れ右させて私の机とくっつけた。
作業と言うのは放課後の文化祭準備のことだ。
私たちのクラスは文化祭に縁日をやるのだが、呼び込みのためのチラシを作ることになった。
結衣と向かい合わせに座り、筆箱からシャーペンを取り出した。
その時、机の上の私のスマホがブブッと静かに音を立てた。
無意識に画面を確認する。
「咲、どうしたの?」
「…え?」
「いや、スマホ見ながら固まってるから。」
スマホの画面に反射して映る自分の顔は、結衣の言う通り面白いくらい表情が固まっていた。
「ライン?」
「いや、うん。」
「誰から?返して大丈夫だよ。」
「いや、うん。」
「え、まさかの王子?」
「いや、…うん。」
その言葉に、結衣は自分の机から身を乗り出した。
私は前髪を触らないように、右手で左手を押さえつける。
手首から伝わる自分の脈拍の音が、いつもよりもやけに大きく感じた。
「王子、何て?」
「…忘れ物。取りに来いと。」
「忘れ物?」
「多分ジャージ。体育館に忘れてきたから。」
「あぁ。何で寒がりなのに着てないんだろうって思ってた。置いてきたの?」
「6時間目の体育の時。多分。」
「何で多分なの。」
「私も忘れたことに今気づいたから。」
体育の後で体が火照っていたせいもあるだろうが、結衣の言う通り寒がりの私がまさかジャージを忘れてくるとは。
少なからず、昼休みの洋平とのやり取りのことを考えていたせいもあると思う。
「ちょっと取ってきて良い?」
「もちろん!」
出た。結衣の楽しんでる顔。
「いってらっしゃ~い」とヒラヒラと手を振る結衣に見送られ、私は廊下に出ると体育館へと足を進めた。
スマホを握りしめて歩きながら、私はもう一度画面に目を落とした。
“忘れもん。体育館”
彼からきた初めてのラインは、絵文字もスタンプもない、想像していた通りとてもシンプルな文章だった。
渡り廊下を抜けて体育館の扉の前に着いた時、体育館脇の水道場の前でそんな彼を見つけた。
流川くんだ。
流川くんはすごい勢いでドリンクを飲み干し、一息つく間もなく蛇口を上向きにして顔を洗っていた。
何も気にせずタオルでガシガシと顔を拭く彼は、遠目で見てもやっぱり一際目を引くほど綺麗で、滴り落ちる水がより一層それを際立たせていた。
きっと私のことなんて気づかないだろうから、そのまま体育館の中へ入ってしまおうと通り過ぎようとした時だった。
「あ。…咲。」
背後から聞こえたその声に、私は思わず足を止めた。
彼が口にしたのが自分の名前だと気がつくのに時間がかかったのは、まさか流川くんに名前を呼ばれるなんて思ってもいなかったからだ。
「名前、何で?」
「ラインの名前。」
「名前じゃなくて名字で呼んでよ。」
「…槙田。」
自分で言っておいてなんだけど、彼に名字で呼ばれるのも何だかしっくりこなかった。
かと言って名前で呼ばれるのはもっと変な感じがするのは、“あんた”と呼ばれ慣れてしまっているせいだろう。
「ジャージだよね。忘れ物って。」
「あぁ、あれ。」
彼の指差す方に目を向けると、体育館のステージの上に綺麗に畳まれたジャージが目に入った。
「よくわかったね。私のだって。」
「槙田って書いてあった。」
「あ、そっか。上履きで入って良い?」
「どうぞ。」
まるで自分の部屋かのように、体育館に招き入れてくれる彼が何だか可笑しかった。
体育館の中は真夏とまではいかないが、外とは違い初夏の様な蒸し暑さを感じた。
彼も私に続いて体育館の中に入ると、先程まで使っていたであろう体育館の片隅に落ちているバスケットボールを拾い上げた。
「流川くん、何やってんの?」
「バスケ。」
「見ればわかる。文化祭準備で部活休みでしょ。」
「関係ねぇ。」
「文化祭準備は?」
「当日いれば良いって言われた。」
「10組は何だっけ?カフェだっけ?」
「知らねぇ。」
部活が休みにも関わらず1人でバスケをしていた彼にとって、文化祭準備も文化祭自体も、大して重要なことではないらしい。
彼は先程拾い上げたボールを一度バウンドさせると、その位置からシュートを放った。
ボールは綺麗な放物線を描いて、ゴールへと吸い込まれていく。
ほんの一瞬だったのに、私は自分でも気づかないうちに彼のその姿に目を奪われていた。
なぜか動けなくて、なぜか目が離せなくて、やっと足が動いたのは、足元に転がってきたボールに気づいた時だった。
「パス。」
彼に言われるがままにボールを拾い上げパスすると、今度は勢いよくリングにボールを叩きつけた。
目の前のバスケットゴールが大きく揺れる。
こんな間近でボールがリングに叩きつけられる瞬間を見るのは初めてだった。
水で濡れた黒髪と白い首筋を伝う汗がやけに煽情的で、それより何よりもバスケをしている彼はとても感情的だった。
校内で会う制服姿の彼とはまるで別人のように見えて、彼と目が合い、私は思わず視線を逸らしてしまった。
“似た者同士”
なんてどうしてそう思ったんだろう。
そんなの勘違いも甚だしい。
彼はバスケットに心底夢中なのだ。
それ以外のものが入り込む隙間など一切ないほど、彼の頭の中はバスケットのことだけで満ち溢れている。
ただそれだけを見つめて、ただそれだけを追いかけて、ただそれだけを求めている。
私とは全然違う。
誰かを傷つけるのが怖くて、自分が傷つくのが怖くて、他人どころか自分さえ好きになれないような私とは。
眩しすぎる彼の姿に、ちっぽけな自分を痛いほど痛感した。
私はジャージの端をギュッと握り締めた。
「戻るね。」と一言彼に告げ体育館を出ようとしたその時、彼に突然腕を掴まれた。
「何?」
「何って…」
いつものどこか無機質な視線とは違う、少し憂いを帯びたようなその瞳がじっと私を見つめる。
なぜ私を呼び止めたのか。
彼自身も少し戸惑っているように見えた。
彼は徐に反対側の手をポケットに突っ込むと、「あ。」と声を上げた。
そして掴んでいる私の手のひらの上に、ポケットから取り出した小さな包み紙を置いた。
「やる。」
「…あめ?」
「あめちゃん。」
真剣な表情で“あめちゃん”なんて言う彼がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「何笑ってんだよ。」
「だって、あめちゃんとか言うから。まさかあめちゃんが出てくるとは思わないし。」
「出ただろ。あめちゃん。」
彼は相変わらずのポーカーフェイスでそう言った。
「何であめちゃん?」
「元気ねぇじゃん。」
彼のその言葉に、心臓がドクンッと音を立てた。
いつもと違う自分を彼に見透かされたせいなのか、それとも彼の真剣な眼差しのせいなのか、その理由は自分でもわからなかった。
「そんなことないよ。」
「嘘吐け。」
「嘘じゃないってば。」
「あんたの顔見ればわかる。」
「何でよ。」
「…友達だから?」
彼は自分でそう言って、納得いかないのか首を小さく傾げた。
「何で疑問系なの。」
「いや、まじであんた友達で合ってる?」
「え、友達でしょ。」
「…友達」
「うん。友達。」
私は迷わずそう答えた。
答えたと言うよりも、正確には答えざるおえなかった。
私が彼にこれ以上の感情を抱くことなどないし、彼が私にこれ以上の感情を抱くことも絶対にあり得ないことだからだ。
彼とは、“友達”なんだから。
その時、チャイムの音が校舎内に鳴り響いた。
それに反応するように彼の指先が一瞬動いて、私はその隙に彼の腕から逃げるように離れた。
「バスケ、頑張ってね。」
流川くんはとりあえず納得したのか、「ん。」と返事をして体育館の中へと戻って行った。
去っていく彼の背中が校舎にいる時よりも大きく見えて、やっぱりどこか別人みたいに見えた。
それ以上に、彼の言動に過剰な程に反応してしまう私の方が、いつもとはまるで別人みたいに思えた。
あめちゃんの包み紙を開けると、オレンジの甘い香りが鼻先を燻った。
私はそれを口の中へと静かに放り込んだ。