それは突然、日常を。
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放課後の教室は、文化祭の準備でどこのクラスも騒がしかった。
それはうちのクラスも例外ではなく、私も廊下に座り込みながら、段ボールに“縁日”と書かれた看板を装飾していた。
黄色い絵の具を筆に含ませ塗り始めると、結衣は私の耳元で囁くように言った。
「見たよ。流川くん。」
その名前で、結衣が何を聞きたいのかはすぐにわかった。
どうやら彼女なりに気を利かせて、一応小声で話してくれているようだ。
「いつの間に仲良くなったわけ?」
「別に仲良くないって。挨拶しただけじゃん。」
「だから、挨拶する時点でまずあり得ないんだってば!」
「何でよ。」
「あの流川くんだよ?王子だよ?あり得ないじゃん!」
結衣の声が次第に大きくなっていく。
そう言えばこの間、洋平にも同じようなことを言われた。
その時、ジャージのズボンのポケットに入れていたスマホが静かに音を立てた。
私は握っていた筆を一度降ろしてバケツに入れると、画面を確認するためにスマホを取り出した。
「誰?王子?」
「何でそこで流川くんが出てくんの。」
「やっぱ王子だ。」
「洋平。もうすぐ帰るって。」
そう言って、私は結衣にラインの画面を見せた。
桜木くんと一緒に買い出しに出た洋平からのラインの文面は、買い出しがすんだからもうすぐ帰ると言う内容だった。
結衣はラインの画面を確認すると、「本当だ。」となぜか少し残念そうな顔をした。
「そもそも、流川くんの連絡先知らないし。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
私は洋平に“了解”と返信すると、スマホをポケットに仕舞い込み、再び筆を持ち直してダンボールを塗り始めた。
結衣はそんな私の横で、わざとらしく溜め息を吐いた。
「そりゃあ水戸も焦るよね。」
「え、洋平?洋平が何?」
「いや。まぁ、何かあったらいつでも言ってよ?」
「え?」
「ほら、私って何でもかんでも話すじゃん。でも咲はあんまり自分のこと話さないからさ。」
結衣の見解は全くその通りだった。
私は自分のことをあまり話さない。と言うよりは自分の中でほとんどのことを消化してしまう。
特に恋愛話に関しては話を広げるのは好きじゃないし、正直言うと面倒臭い。
口角を上げて微笑んでいるフリをして、相手の納得しそうな言葉を選んで、適当に相槌をうってやり過ごす。
それでも、幼馴染の洋平と中学からの親友の結衣だけは、自分の中では特別だと思って接しているつもりだった。
2人には何かあれば相談するし、他愛もない話もする。
だけどそんな結衣がそう感じてしまうと言うことは、私は自分が思っている以上に壁のある人間なのかもしれない。
その時、廊下がやけに騒がしくなった。
目の前の結衣の視線が私の遥か頭上に移動して、その表情が徐々に高揚していく。
黄色い歓声も所々で聞こえて、まさかと思って振り返る。
案の定、そこには廊下を颯爽と歩く流川くんの姿があった。
彼は私と目が合うといつもみたいに会釈して、私が会釈したのを確認して通り過ぎていく。
そうとばかり思っていたのに、今日の彼は会釈した後もなお、何か言いたそうな顔でジーッと私を見つめている。
そしてゆっくりと私の目の前にやって来た。
しゃがみこんだ状態で彼に見下ろされるのは、何とも言えない威圧感だ。
冷静な私とは対称的に、結衣は興奮した様子で、「やばい!王子!」とグイグイと私のジャージの袖を引っ張ってくる。
その声はさっきとは比べ物にならない程大きくて、突き刺さる周囲の視線は正直結衣の思うような嬉しい状況ではなかった。
「面倒臭い。興味ない。」
そして何の脈略もない彼の一言に、思わず気の抜けたような声が出た。
「えぇ?」
「考えとくって言った。女の定義。ってやつ。」
その言葉に、この間彼と廊下で話したことを思い出した。
「ずっと考えてたの?」
「たまに。」
「あー!キツネー!」
その時、廊下の突き当たりから桜木くんの大きな声が聞こえた。
桜木くんは両手に大きなビニール袋を持って、それを持ち上げながら流川くんを指差した。
キツネとは、多分流川くんのことなんだろう。
桜木くんの隣には洋平の姿があって、私と目が合うとなぜか彼は驚いたような顔をしていた。
「おい!キツネ!うちのクラスの前で何やってんだよ!」
「うるせぇな。」
流川くんはチッと舌打ちして、なぜか私の腕を引っ張り上げた。
そして力強く強引に私の手を握りしめると、そのまま階段の方へと歩き出した。
「え、流川くん!?」
「…」
私の声に応えることなく、彼は早足に階段を駆け上がる。
その間も繋がれた手と手。
その握られた手を離そうとすると、逆に強くその手を握り返されて、気がつくと階段の踊り場の最上階まできていた。
彼は慣れた手付きで屋上のドアに手を掛けたが、鍵がかかっていたようでドアは開かなかった。
彼が何をしたいのかが全くわからない。
ただ、彼が何となくいつもと違う雰囲気なのはわかった。
マイペースな彼のペースが何かに乱されているような、無頓着で無表情の彼が何かに執着しているような、そんな感じだ。
「王子らしくないね。」
「は?」
そう言って、彼は本当に嫌そうに眉間に皺を寄せた。
その顔はどこからどう見ても王子様とはほど遠くて、私は思わず笑ってしまった。
「王子、ひどい顔ですよ。」
「やめろ。その呼び方。」
「ごめん。ごめん。」
その時、私のラインの通知音が鳴った。
結衣からだった。
どこにいる?何なの?どういうこと?と言う矢継ぎ早の文面に、この後行われるであろう尋問のことを思ったら一気に疲れが波のように押し寄せてきた。
私は“もうすぐ戻る”と一言だけ返信すると、スマホを握り締めたまま彼に軽く頭を下げた。
「ごめん。教室戻るね。」
「待てって。」
階段をかけ下りようとする私を引き止める様に、彼はスマホを握ったままの私の手を強くギュッと握りしめた。
「ライン。教えて。」
彼は反対側の手をポケットに突っ込むと、徐に自分のスマホを取り出した。
「え…あ、私の?」
「他に誰がいんの。」
私は彼の言葉に応じて、スマホの画面を切り替えた。
前屈みになって私のスマホを覗き込む彼の横顔は相変わらず綺麗で、自分のスマホに流川楓の名前が表示されているのが何だか不思議な気分だった。
登録してある名前がフルネームなのが彼らしいと思ったその時、額に温かい何かが触れた。
「ここ。何かついてる。」
そう言われて視線を上に向けるまで、それが彼の指先だと気づかなかった。
「黄色い。」
「え。」
「黄色いの。ついてる。」
「あ、絵の具だ。看板描いてたから。」
その黄色い線をなぞるように、彼の細くて長い骨張った指先がゆっくりと私の前髪を撫でる。
額に何度も触れる前髪がくすぐったい。
「まだついてる?」
「ついてない。」
「え、じゃあ何。」
「水戸も触ってた。」
その言葉に、私はこの間の教室での洋平とのやり取りを思い出した。
きっと洋平が私の前髪を触る癖を面白がって、額に手が触れていた時だ。
どんな理屈だと思ったが、それ以上に洋平とのやり取りを見られていたことに驚いた。
「見てたの?」
「見えた。」
「あれは癖。」
「癖?」
「私、焦ったりすると癖で前髪触るから。それを洋平がふざけてからかってただけ。」
「俺はふざけてねぇ。」
なぜか子供みたいにムキになって不貞腐れたような顔をした彼が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
「王子、また顔が。」
「おい。」
「ごめんて。」
「あんただって体育の時でかい欠伸してた。」
「え?」
「窓から見えた。ひでぇ顔だった。」
その言葉に、今度は私が眉間に皺を寄せた。
きっと物凄い顔になっていたんだろう。
彼は微かに声を出して笑った。
いつもの何もかも見透かしたようなすました顔とは違う、この間の一瞬見せた柔らかい表情とも違う。
初めて見る彼の笑顔。
彼のその笑顔に、私は不覚にも見とれてしまった。
「何?」
「あ、いや。流川くんも笑うんだなって。」
「面白いことあれば誰だって笑う。」
「それって、私の顔が面白いってこと?」
「大概面白い。」
「友達に対してひどくない?」
そう自分で口にしてみて改めて思った。
私と流川くんの関係性って何なんだろう。
“友達”と言えるほど、流川くんのことを知っているかと言われるとそうでもない。
だけど、ただの“知り合い”と言うほど希薄な感じでもない。
私と流川くんはどこか似ている。
恋愛と言うものがひどく面倒臭くて、煩わしくて、それ自体にあまり興味がない。
お互いに異性の定義には当てはまらない、言うなれば“似た者同士”だ。
だけどとりあえず、ここは“友達”としておくのが一番良い様な気がした。
「友達?」
「うん。流川くんは、友達。」
正直、私にはその答えが正しいのかどうかはわからない。
だけどちゃんと枠に嵌めておかないことで、誰かが傷つくのかもしれないと思ったら、その答えは正しいことのように思えた。
彼は私の言葉に納得したのかしていないのか、「友達ね。」と呟くように繰り返した。
たった数週間前までは、私は彼のことをマイペースで無頓着で無表情な人間だと思っていた。
確かに今目の前にいる彼はその一面を兼ね備えてはいるけれど、決してすべてにおいて無頓着で無感情なわけではない。
彼は子供の様にムキになることもあるし、王子と呼ばれれば嫌だとハッキリ言うし、面白いことがあればとても柔らかい表情で笑うのだ。
そしてその彼の笑顔に、私の心は少しだけ静かに騒ぎ出していた。