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温かかった。
彼の優しさが。
彼のぬくもりが。
彼という存在が。
温かすぎて涙が止まらなかった。
その温かさに比例するように、
止め処なく溢れ出る涙に願った。
この涙と一緒に、
彼への想いも流れてしまえばいいのに。
そんな儚い願い。
_____________
今日はいつもより30分早く学校に到着した。
案の定、校舎の中に生徒の姿は数えられるくらいしかいなくて、朝練をしている野球部のかけ声だけがやけに大きく響いていた。
下駄箱に手をかけて上履きに履き替えようとしたその時、無意識に視線の先は彼の下駄箱へと移る。
三井 寿
彼の下駄箱には履き古した上履きが乱暴に一組入っていた。
どうやら彼はまだ登校していないみたいだ。
いつもより30分も早く来たんだから当たり前か。
いつもとは違う胸の痛みが走って、私は思わず彼の名前から視線を外した。
そもそも、今日私がこんなにも朝早く学校に来たのには理由があった。
“明日の朝、屋上で。”
彼からそうラインがきたのは昨夜のことだった。
彼が私を呼び出すなんて稀なことで、もうその時点でただ事でないことはわかっていた。
正直足取りは軽いとは言えなかったけれど、私にはどうしても行かなければならない理由があった。
私は、決心したからだ。
階段の最上にやってきて、私は一呼吸おいてから屋上の扉に手をかけた。
こんなにもこの扉は重かっただろうか。
精一杯の力で押し開けた扉の先には、コンクリートで出来た階段に座っている1人の男子生徒の姿があった。
それと同時に彼もこちらに気がついたらしく、ゆっくりと振り返った。
「おはよう槙田さん。」
「おはよう。木暮くん。」
木暮くんは、いつもみたいに優しく笑った。
「ごめんな。朝っぱらから呼び出して。」
木暮くんは笑顔のままでそう言ったけれど、その笑顔から彼の様子がいつもと違うことは明らかだった。
彼の顔はどこか引きつっていて、唇が何か言いたげに小刻みに動いている。
私は彼の隣に腰掛けた。
木暮くんと一緒にいて、これほどまでに居心地が悪いと感じたのは初めてだ。
「何?」
「え?」
「何かあるから呼び出したんでしょ?」
「あぁ…」
私は急かす様に彼にそう問いかけた。
婉曲な言い回しは苦手だし、この空気から早く解放されたかったからだ。
彼が口を開くまで、私はそれ以上何も言わずにただ彼の横顔を見つめていた。
悩ましげな彼の横顔。
その目を私が持っていたら、その鼻を私が持っていたら、その唇を私が持っていたら、寿は私を好きになってくれたんだろうか。
その寿の大好きな唇が、静かに動いた。
「俺…見たんだ。」
「何を?」そんなこと聞くだけ野暮だった。
木暮くんが私を呼び出す理由は、もう此処まできたら一つしかないんだから。
先日の流川くんとの出来事が鮮明に思い出されると同時に、私の心臓は一気に音量を上げて加速していく。
「槙田さん。」
「…」
「流川のこと好きなの?」
やめて。
これ以上、私の決心を鈍らせないで。
「槙田さんが好きなのは、三井だろ?」
塞ぎたい耳を我慢して。
叫びたい口を我慢して。
堪えきれなくなりそうな涙を我慢した。
木暮くんにだけは涙を見せたくなかった。
木暮くんにだけは同情されたくなかった。
木暮くんにだけは寿を好きな自分を知られたくなかった。
私は木暮くんを絶対に傷つけるから。
「木暮くんには関係ない。」
堪らなくなって、私は階段から立ち上がると入り口へ向かって走り出した。
そんな私の腕を、彼は引き止めるように思いっきり掴んだ。
「待って!」
「何?」
「関係なくないだろ!友達なんだから!」
「友達だって関係ないよ。」
「俺はただ、2人にはうまくいってほしいんだよ!」
「…何言ってんの?」
「槙田さんが好きなのは、流川じゃなくて三井だろ?」
もう、やめてよ。
「三井あんなんだけど、絶対槙田さんのこと好きだから!だから…」
「木暮くんに何がわかんの…」
ずっと我慢してきた。
この気持ちは何があっても木暮くんにはぶつけたらいけない。
寿の木暮くんに対する想いも、私の寿に対する想いも、何も知らない木暮くんには関係ない。
だから木暮くんが悪いわけじゃない。だから木暮くんを傷つけてはいけない。
この醜い嫉妬なんて感情で。
「全部木暮くんのせいだよ!」
だけどもう遅い。
ほら、私は彼を傷つけた。
目の前の彼の悲しそうな顔が、私の胸を締め付ける。
不意に緩んだその手からスルリと抜けるように、私は彼から離れると再び走り出した。
私の名前を呼ぶ彼の声に聞こえないフリをしながら、私は屋上の重いドアに手をかけた。
その瞬間、その重い扉が嘘のように軽やかに開け放たれた。
神様は意地悪だ。
私はそんな漫画みたいな台詞を思い出した。
ぶつかった瞬間に、目の前にいる人物が誰であるかなんてわかっていた。
顔を上げなくても、目を瞑っていても、全身で感じる彼の体温でわかってしまう。
本当に、神様は意地悪だ。
「寿…」
学校に来た以上、寿に会うことは当たり前のことだ。
決心してきたのにも関わらず、まさかこんなにも自分の体が反応してしまうとは。
心臓が大きく波を打つ。
足が竦んで動けないというのは、こういう時のことを言うんだろう。
私と向き合っている彼の顔に、笑みは一つもなかった。
「おはよう。咲。」
「…おはよう。」
「何?木暮と一緒?」
「うん。」
「こんな朝早く珍しいな。」
「寿…」
「何?」
「寿に、話したいことがあるんだけど。」
「何だよ。いきなり。」
こんなこと言ったら、寿はめちゃくちゃに壊れてしまうかもしれない。
めちゃくちゃに壊れて、木暮くんをめちゃくちゃに壊してしまうかもしれない。
この期に及んでまだそんなことを考えてしまう自分にいい加減うんざりする。
もう、決めたのに。
寿は私と木暮くんの話を、一体何処から何処まで聞いていたんだろう。
今はもう何を言っても仕方ないけれど、欲を言えば私が寿を好きだと言う事実だけは聞いていてほしくない。
万が一聞いていたとしても、聞かなかったことにしておいてほしい。
もう、決めたから。
「私、好きな人がいる。」
そう決めたことに、後悔なんてなかった。
「だから…」
「…流川?」
「…ごめんね。」
“私を逃げ道にしていいよ?”
言い出したのは私だった。
まるで廃れたおもちゃみたいな目をした寿を、純粋に助けてあげたいと思った。
私は寿のことが好きだから、ずっとこのままでもいいとさえ思った。
だけどそんな純粋な感情は、日を増すごとに醜く汚いものへと変わっていった。
寿への独占欲。
木暮くんへの嫉妬心。
流川くんへの安心感。
私は寿が好きだから、ずっとこのままではいられないと思った。
私は周りが思っているよりも、ずっと弱くてちっぽけな人間だから。
寿を助けることは自分を傷つけることに繋がっていて、自分を助けることは寿を傷つけることに繋がっている。
私は、自分自身を選んだんだ。
「もう、寿を助けてあげられない。」
寿の顔は見れなかった。
寿の隣をすり抜けた時、彼の香りが鼻を掠めた。
もうこんなに近くで彼の香りを感じることもないのかと思ったら、なんだか涙が溢れてきた。
屋上から大分離れたところまで来て立ち止まると、私は壁を背にしながらズルズルとしゃがみ込んだ。
「…っ…っ」
瞳から涙が次々と溢れ出してくる。
都合よく寿への想いまでも流れ落ちてくれることはないけれど、少しは軽くなる様な気がした。
最後なんだから、もっとちゃんと彼の顔を見ておけば良かった。
そんなこと想いながら、廊下には私の声に鳴らない声だけが響いていた。