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“私を逃げ道にしていいよ。”
突然のあいつのその言葉に驚きながらも、
気がつくと俺はその体になだれ込んでいた。
いっそ逃げたかった。
いっそ逃げ出して、
この感情をすべて投げ出したかった。
あいつに。すべてを。
______________
唇が似ていた。
少し薄めで艶やかで、笑うと両端が左右対称に上がるあの唇。
その唇が、俺にひどい罵声を浴びせる。
「最低!」
俺はよっぽど怪訝そうな顔をしていたんだろうか。
目の前の女は、俺に向かって勢い良く右手を振り下ろした。
ああ。
俺は最低だ。
だからって朝っぱらから全校生徒が行き交う公衆の面前で、こんな仕打ちを受ける俺の身にもなってほしい。
笑い者確定だ。
それでも、これで満足してくれるなら安いもんだと思うべきなんだろうか。
走り去っていく女の背中に煮え切らないほどの怒りを感じたが、別に好きでもない女にどう思われ様と何の感情も湧かなかった。
俺は、女の歪んだ部分が大嫌いだ。
自分勝手に媚びるだけ媚びて、上手くいかないと手のひら返した様に他人のせいにして、すぐさま加害者から被害者に成りかわる。
二面性と言う女の一番嫌な部分を見ているようで腹が立つ。
だけどやっぱり、あの唇だけはどこか似ていた。
俺の名前を呼ぶ唇に、耳を塞いであいつの声とリンクさせた。
そしてその唇を強引に塞ぎ込んで、あいつのことを支配したような気分になった。
だけどやっぱり偽者は偽者でしかないことを痛感するだけで、俺はおもちゃに飽きた子供のようにまた偽者をゴミ箱へ捨てた。
「おはよう。寿。」
今日はブラックにしようか、それともカフェオレにしようか。
彼女に声をかけられたのは、自動販売機の前でそんなことを考えている時だった。
その声と一緒に漂う甘くて少し癖のある香りが、鼻につく度にいつも思う。
アナスイは彼女にピッタリの香りだって。
「咲。」
「また別れたの?」
朝からまた唐突だ。
いや、むしろそんなところが彼女らしい。
咲は昔から何に対しても無駄がなく、常に客観的でいて冷静だ。
中学の時からの付き合いだからか、彼女に対しては不思議と一緒にいると心地良ささえ感じる。
「見てたのかよ。」
「見せてたんじゃないの?朝っぱらからあんなとこで別れ話とか。」
思い出される先程の光景。
確かに朝っぱらから校門前でする話ではなかった。
だけど言い訳させて貰えるのなら、持ちかけてきたのは俺ではなく向こうの方だ。
ものすごい不快感を感じながら、俺はブラックコーヒーのボタンを押した。
「別れたって言うか…そもそも付き合ってねぇし。」
「それで何言ったら最低とか言われんの。」
「一回やったぐらいで彼女面すんなって言った。」
「最低ー。」
「どうせ俺は最低ですよ。」
「自覚はあるんだ。」
「うるせぇな。」
「あ、唇切れてるよ。」
口中に広がる鉄の味。
さっきの一撃で切れた口の中にものすごい不快感を感じながら、何でもっとしっかり歯を食いしばらなかったのかと後悔した。
取り出し口から取り出した缶は入れたばかりなのか少し生温かくて、俺の気分を更に沈ませる。
今日はとことんハズレの日だ。
「これ。忘れ物。」
そう言って、咲はいきなり俺の目の前に左手を突き出した。
その手を突き出したまま、彼女は逆の方の手で器用に自販機に小銭を入れた。
突き出されたその手に握られているのは、湘北の生徒手帳。
“3年3組 三井 寿”
紛れも無く俺のものだ。
「え?何で?」
「その写真、顔暗すぎでしょ。髪長いし。」
「勝手に見んなよ。」
「見ないと誰のかわかんないし。」
「いや、わかるだろ。咲の部屋に落ちてたなら。」
「ばれたか。」
そう言いながら、咲は少し前屈みになって取り出し口から缶を取り出した。
咲の大好きなミルクティーだ。
茶色い綺麗な髪の毛一本一本が、パラパラと一定のリズムで重力に負けて落ちていく。
「寿は笑った方が可愛いのに。」
落ちた髪をそのままに、咲は唇の端をキュッと持ち上げて笑った。
彼女は口を閉じて笑ってるつもりなんだろうが、こんな風に笑うと必ずと言っていい程その隙間から白い八重歯が微かに覗く。
“私を逃げ道にしていいよ。”
あの時も、咲は今みたいに笑っていた。
「先行くね。」とヒラヒラと手を振って去っていく彼女の背中を見つめながら、俺はその後方に見える人影へと視線を移した。
「お、三井。」
屈託のない笑顔を向けながら、右手を小さくあげて俺の名前を呼ぶ。
よく見れば、こいつの唇の方が綺麗で艶やかだ。
この感情の正体が何なのか、俺にはまだよくわからない。
そう思う気持ちを必死に押し殺して、俺はいつも通りの三井寿を演じる。
「おう。木暮。」
誰にでも、秘密はある。
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