カワラナイモノ
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「今日遅くなるから。」
「ん。」
何で?
聞かれたら聞かれたで煩わしく思うんだろうけど、聞かれなかったら聞かれなかったで虚しく思う。
女なんて、ただの我侭で厄介な生き物だ。
「楓。」
「ん?」
「…何でもない。」
いつからだろう。
彼があまり私の名前を呼ばなくなったのは。
元々彼は口数が多い方ではないし、付き合って3年目にもなれば、どこの恋人同士もこんなものなんだろうか。
新鮮味がなくなるのは自然なことだし、いて当たり前と思うのも当然だ。
だけど、
『咲』
そう名前を呼んで欲しいと思うのは、単なる私のエゴなんだろうか。
一ヶ月前、大学の同じサークルの先輩に告白された。
もちろん彼氏がいるからと断った。
だけど、楓にはない彼の紳士的な振る舞いと飾らない優しさに、全く惹かれていないと言ったら嘘だった。
『咲』と自然に名前を呼んでくれること。
寄り添うように並んで歩いてくれること。
先輩と一緒にいることは、私にとって物凄く新鮮なことだった。
いつになっても付き合い初めた頃のように愛されていたいと思うのは、きっと女の性なんだろう。
家に帰ると、部屋の明かりが点いていた。
今日は講義が早く終わると言っていたから、楓が来ているのかも知れない。
そう思いながら玄関のドアに手をかけると、鍵は開いているのに何かが引っ掛かってドアが押せない。
不思議に思って少しだけ開いた隙間から中を覗き込むと、そこには座り込んで寝ている楓の姿があった。
「ちょっ!何してんの!」
「んー…」
「ベッドで寝なよ!」
酒臭い。
部屋の中に入りテーブルの上を見ると、案の定ビールの空き缶が数本転がっていた。
「楓飲みすぎ!明日も講義でしょ?」
私は楓を起き上がらせようと、その手を思いっきり引っ張った。
大きくてごつごつとした男らしいその手。
手を繋いだのいつぶりだろう。
初めて繋いだのも、確かこんな暑い夏の日だった。
「…何で?」
微かに聞こえた楓の声。
何で?
何でそんなこと聞くのか。こっちが聞きたかった。
「何でって…何が?」
「何で…?」
「だから何がよ?」
「何で…今日、遅いの?」
楓は虚な目で私を見上げながら、呂律がうまく回らない舌でそう言った。
「飲み会。サークルの。」
「何で?」
「だから飲み会だってば。」
「何で言ってくんねぇの?」
「…え?」
「いつも、何で言ってくんねぇの?」
「何でって…」
「何で…」
いつも冷静沈着で、絶対に人前で感情を剥き出しにしない彼が、まるで駄々をこねる子供の様に座り込んだままそう言い続けた。
楓は気付いていたのかもしれない。
独りよがりになって揺れ動いてる私の心に。
私はゆっくりとしゃがみ込んで、ウサギみたいに真っ赤な目をした彼と視線を合わせる。
「楓。」
彼の名前を呼んですぐに、体中が一気に熱くなった。
楓の顔がすぐ近くにあって、私はその時にやっと自分が抱きしめられていることに気がついた。
ああ、楓のにおいだ。
初めて抱きしめられた時と変わらないその香りは、まるで鎮静剤の様に私の心を落ち着かせる。
「咲」
楓の口から久しぶりに聞く自分の名前。
彼のこの声も、どうやら私のために調合された鎮静剤の一つの様だ。
「咲…」
「ん?」
「ごめん…」
「…え?」
「俺、ちゃんと好きだから…咲のこと。大好きだから…」
何で忘れてたんだろう。
彼が人より口下手で、彼が人より寂しがり屋だってこと。
そして、彼が誰よりも私を好きでいてくれてること。
そして、そんな彼が私は誰よりも大好きだってこと。
「咲…」
「ん?」
「…咲」
「楓?」
「…」
楓は私を抱きしめたまま、玄関に座り込んでそのまま眠ってしまった。
「咲…」
そんな寝言を呟きながら。
明日の朝になれば、楓は今日のことなんて忘れてるかもしれない。
また“ねぇ”って呼ぶかもしれないし、
もう“何で?”なんて聞いてくれないかもしれない。
だけど、私の体に残った彼の香りとぬくもりは当分消えそうにない。
3年目。
あの頃と変わらないものが一つでも在るならば、
それはきっと、目に見えないあなたと私の大切な気持ち。