二日酔いとコーヒー
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昨夜、2年間付き合っていた彼氏の浮気現場に遭遇した。
柄にもなく別れたくないと縋り付いたが見事に玉砕。
そんな夜に限って捕まる友達は誰もいなくて、1人寂しく朝まで飲み明かした。
起きた時点で遅刻は確定していたのに、私は一体何のためにこの道を走っているのか。
いい加減飽き飽きしてきた。
諦めも肝心。と、同時に遅刻決定。
「ギリギリまで様子見たんですけど、やっぱり熱が下がらなくて。すいません。今日休ませて下さい。」
そして、時には嘘も必要だ。
私は駅前のベンチに座り小さく溜め息をついた。
昨夜の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、私は二日酔いの頭を思い切り振って悲惨な現実を消去する。
「そこ、俺の特等席なんだけど。」
消去の途中で誰かに声をかけられた。
顔を上げるとそこには1人の男が、私を見下ろすように立っていた。
長身の上にがたいが良く、黒縁の眼鏡の奥の瞳はジロリと私を睨んでいるように見える。
彼の声は初対面の私でもわかるほど、明らかに不機嫌だった。
「そこ。」
「え?ここ?」
「そう、そこ。どいてくれる?」
「何でですか?」
「言っただろ。俺の特等席だって。」
「隣、空いてますけど。」
「は?」
「これ3人掛けだし。2人でも余裕で座れますよ。」
「いや、だから。ここでコーヒー1杯飲んでから仕事行くのが俺の日課なんだよ。」
「はぁ?」
なんて傲慢な男なんだ。
そう思ったら思わず大声が出てしまった。
こうなったら私はもう止まらない。
「駅前って言うのは公共の場所なわけですよ!」
「え?」
「だからこのベンチも誰のものでもないんですよ!」
「…」
「聞いてます!?」
「え、あ、はい。」
やばい。言い過ぎた。
いくら何でも初対面の人にこれはやりすぎだ。
何を隠そう気が強いのが私の短所。
この気の強さで昨夜は彼氏に詰め寄り責め立て、見事に撃沈したわけだ。
浮気された原因の1つと言っても過言ではない。
が、時すでに遅し。
目の前の彼の表情がどんどん変わっていくのがわかった。
眉間の皺が先程よりも深くなり、口元が徐々に歪んでいく。
罵声を浴びる覚悟さえしていたのだが、彼は予想外の一言を吐き出した。
「あんた面白いな!」
そう言って彼は笑った。
「…は?」
「公共の場って!確かにそうだわ!」
「え?すいません!え?」
「ははっ!いいいい!面白れぇ!」
彼は大きな口を開けて、まるで少年のように笑っていた。
笑った時に唇がつり上がりよく見える、口元の傷痕が印象的だった。
その笑顔のまま彼は私の右隣に腰を下ろした。
「確かに2人座っても余裕だな。」
ここでコーヒーを飲んでから仕事に行くのが日課なのは本当なようで、彼の手には駅前のコーヒーショップのカップが握られていた。
「…今日は仕事午後からですか?」
何か話さなければと思い、とりあえず社交辞令の如く聞いてみた。
すると彼は少し驚いた様子でカップに口を近づけた。
「え?」
「私は休みですけど。ズル休み。」
「ズル休みって…大学生?」
「違います!列記とした社会人ですよ!飲みすぎて寝坊したんで、もう嘘ついて休みました。」
「だからか…」
「え?」
「めっちゃ酒臭い。」
「えっ!?」
私は思わず口を抑えた。
また少年のように笑う彼。
私はこの笑顔が嫌いじゃないと思った。と言うより、むしろ好きだと思った。
もちろん笑顔が。の話だけど。
「何のお仕事されてるんですか?」
そう聞いたところで、とりあえず彼の身なりから自分なりに推測してみた。
まず確実に私よりも年上。
明らかに顔立ちが大人びてるし、落ち着いているし。
オフィス街のある駅前にいるってことは、この辺の会社の人だろうか。
ラフな格好からしてアパレルか美容師か編集か、まさか学生ではないだろうし。
「…俺のこと、知らねぇの?」
「え?どっかで会ったことありましたか?」
「いや、そうじゃなくて…。」
「あ、じゃあやっぱり会社この辺なんだ。」
「いや…ま、いいか。」
「え?何?何ですか?」
「俺もまだまだだなってこと。」
彼はコーヒーを飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。
「もう行くわ。あ、名前は?」
「は?名前?槙田咲ですけど。」
「咲ちゃんね。」
彼は私の頭を優しくポンッと叩いた。
頭なんて触られたのは子供の頃以来で、何だか急に恥ずかしくなってきた。
「仕事、頑張ってくるわ。」
そう言って、彼は駅前の大きなビルに掛かっている男子バスケットボールの日本代表のポスターを指差した。
来年のオリンピック出場を決め、男子バスケットボールは今物凄い人気が出てきている。
特別好きというわけではないが、さすがの私でもそのポスターに並ぶ選手の顔と名前ぐらいは知っている。
前列に並ぶ1人の選手の口元に、よく見ると小さな傷跡が見えた。
まるで少年みたいなその笑顔。
…いや、きっと私の勘違いだ。
私はその笑顔に似ている人物を知っているけど、きっとそれは他人の空似と言うやつだ。
私は恐る恐る視線をポスターから目の前にいる彼の方へと移す。
まさにそれは、ポスターの中の笑顔そのものだった。
「…嘘」
「嘘じゃねぇ。」
「嘘っ!」
「だから嘘じゃねぇって。」
「み、三井…寿?」
「呼び捨てかっ!」
駄目だ。思考回路がうまく機能しない。
昨日飲み過ぎたせいで、もしかしたらまだ夢を見ているのかもしれない。
「俺はその気の強いとこ嫌いじゃねぇよ。咲ちゃん。」
突然の出来事に言葉を失っている私に、三井寿はそんな一言を残して去って行った。
あの笑顔は営業用だったのか。それとも自然に出たものだったのか。
またあの笑顔に出会えるかどうかはわからないけど、私は不覚にもまた会いたいと思ってしまった。
ポスターの中の彼は、さっきと同じ笑顔で笑っていた。
仄かにコーヒーの香りが鼻を燻った。