黒白のあわいを歩んで行く

「やっぱり開けないといけないかな……」

 私は母の寝室で、ジュエリーボックスらしき木箱を抱えながら唸っていた。

『ママが死んだら開けてみてちょうだい』

 以前、私が偶然何かの古い鍵を見つけたときにそう母から言われたのをようやく思い出し、ベッド下を探して出てきたのが、このマホガニーの木箱だ。私が両手で抱えるほどの大きさはあるものの、持ち上げられるくらいには軽い。

 どうしてだろう。開けるのが怖い。開けなきゃいけないのに。

「清葉さーん。公的書類っぽいのがごっそり入ってるぽいの見つけたよー」

 そのとき、鹿野さんがよく通る声で私をリビングから呼んだ。

「はーい。確認します。ありがとうございます」

 私は箱を一旦ベッドの上に置くと、鹿野さんのところまで駆けつける。

「これこれ。年金手帳もあるし。役所関係はこれと、あとこの下の引き出しもそうっぽい?」

 そう言いながら、鹿野さんは電話台の引き出しを丸ごと抜いてダイニングテーブルの上に置いた。光熱費の請求書も雑然と混ざっていて、まさにとりあえず放りこんだだけという有様らしかったが、確かに年金通帳があった。道理で寝室を探しても無いはずだ。

「結構探したんですけどね、探し方へたくそだったのかな。まさかこんな近くにあるとは……済みません」

「いやいや。なかなかこういうのってさぁ、分からんものでしょ。まして親のものだしね」

 けらけらと鹿野さんは笑うけど、私はぺこぺこ頭を下げて恐縮しっぱなしである。気を利かせて少々様子を見に来ただけだろうに、他人の家庭のことを手伝わせてしまうなどと。

 母の葬儀から二週間が経とうとしていた。死亡後になるべく早く行わなければいけない手続きが山のようにあって、私は教室を休んで連日その対応に追われている。そんな最中、寝室にあると聞かされていた通帳や仕事の契約書類について、いざ寝室を見ると書類が足りないことに気づき、しかし種々の対応をしているうちに体力を消耗していく中で探し物一つもままならなくなっていた。だから、正直なところ、鹿野さんがちょっとしたことでも手伝いを申し出てくれたのは渡りに船だった。

「しっかし、意外とさっぱりしてるもんなんだなあ」

 ダイニングチェアに腰を下ろし、何やら興味深そうに鹿野さんは部屋を見回している。私も横に座って一息入れることにした。

 母の入院中、私が独りで住んでいる間は、リビングと客間を隔てる引き戸を閉めっぱなしだった。私が寝室に使っていたからだ。今は私が母の寝室に移ったこともあり、風通しをよくするためにも扉を開けることにした。

「長年ずーっとトップランカーだった人のお家だから、もっと楽譜とか本とかいろいろとあるもんだとばっかり。ピアノもアップライトピアノだし。あーいや、偏見かもしれない。率直に言うと、さっぱりしてるね? って」

「この家に引っ越す前は戸建てに住んでたんですけど、その家の頃は鹿野さんのイメージ通りかもしれませんね。当時は家で教室も開いていましたから。ピアノも今置いてあるアップライトの他に、グランドピアノが二台ありましたよ」

 私は窓に顔を向ける。ベランダに続くサッシがあって、レースカーテン越しには路面に植えられた欅が頭をのぞかせる。今の家は五階にあるので、前の家とは違い通行人の姿が窓から見えることはなくなった。家に通ってくる生徒さんが、泣きながら帰っていく姿はもう見なくていい。

「あーやっぱりか。佐葉子先生だもんな。それくらい設備は整えてたんだな」

「はい。合同教室を主軸にするにあたって、家で教えることはなくなったので。なので確かに質素で、さっぱりしてると私も思います」

「あのアップライト、スタインウェイだろ。型式古めかな? めちゃくちゃいいやつじゃん。押さえるところはばっちり押さえてるんじゃない?」

 感心したように頷いてから、すっかりテーブルの隅に押しやられていた湯飲みに口をつける鹿野さん。私も倣って自分のお茶を飲み下す。すっかり温くなってしまっていた。

 そのまましばらく沈黙が流れる。居心地は悪くない。母がいなくなってから久方ぶりに訪れた、落ち着ける時間だった。

「鹿野さん、あの」私は声をかける。「もう少し、手伝ってもらえませんか」

「ん? どうかした?」

 鹿野さんは落ち着いた笑みをこちらに見せながら、首を傾げる。

「母の寝室に宝物が入ってそうな木箱があって。開けるの手伝ってもらえませんか?」

「そんな二人がかりで開けるような代物なんだ?」

「あ。いえ、箱は全然小さいのですが。ちょっと開けるのに勇気が必要で……」

 自ずから声が小さくなっていってしまう。

「遺言書でも入ってるの?」

「あ、うーん、いえ、母の言い方からしてそういうものではなさそうなんですが……私にあげる、って」

「ふーん。なら別にさ、今すぐ開けなくてもいいんじゃないの」

 別にいいじゃん。と、あっさり、普段の軽い調子で鹿野さんは言った。

「顔に無茶苦茶出てるよ。気が進まないってさ」

「そうでしょうか……」

「そうそう。それにまだまだ役所とかマスト事項で忙しいときなんだから、後回しにしていいものは後回しにしようぜ。時間も心の準備ができてからでいいじゃん」

 鹿野さんは私に向かってずいと身を乗り出し、それからにかりと笑う。

「……そうですね」

 私も頬を上げて応えてみようとしたけど、しばらく笑えていないからか、まるで筋肉が軋んでいるようだ。けれども心は確かに安堵を覚えていた。





 およそ三週間ぶりの教室。なんとなく調子がかからないので本棚の整理をしていると、背中にトンと何かがぶつかってきた。

「せんせぇ」

 振り向くとそこには侑心がいた。少し背が伸びたかもしれないなぁ。成長期かなあと呆けていると、正面から侑心がぎゅっと抱き着いてくる。

「どうしたの侑心。久しぶり。元気にしてた?」

「うん」

 侑心はなかなか顔をこちらに向けない。今まで見たことない様子にためらいつつも、私は侑心の肩に触れる。

「あのさ、せんせぇ。辞めちゃうの?」

 お母さんが亡くなったから、清葉せんせぇはもうお役ごめんなんだよって、他の人が言ってた。なんて言われ、私は思わず目を見張る。ようやく顔を上げた彼女の瞳は、不安そうに揺れていた。

「辞めないよ。変なこと聞かせちゃってごめんね」

 私は侑心に微笑んで見せる。

 辞めようか悩んでいるのは事実だった。辞めたくても辞められずにここまで来てしまった、という方が真実により近いかもしれない。如何せん毒が回りすぎた。一か八か、薬に転じるのを待っていたけど、つまるところ毒は毒のまま、叶わなかった。

 侑心は回していた腕を解いて、背負っていたリュックサックを下ろすと、中から取り出したCDを私に差し出してくる。

「これ、清葉せんせぇにあげる。あたしが作った曲」

 だから元気出して。侑心はささやくようにしおらしく言った。

 ─どうして。

 私は先生としても半端者で、人間性が優れているわけでもない。彼女をコンクールで勝たせてあげることなど到底かなわない。そもそもコンクールで勝つという基準を彼女は望んでいなかった。

 彼女にとっては大きな意味など無いものなのかもしれない。けれども私にとっては大きな衝撃である。こんな体たらくでもどうして慕ってくれるのか。

「ありがとう。大事に聴かせてもらうね」

 今度は動揺を隠して上手く笑えたか分からない。私はCDを受け取って、それから彼女の手を軽く握った。
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