黒白のあわいを歩んで行く

『どうしてママの言ってることを分かってくれないのかなあ』

 母は鍵盤に置いていた私の手をぴしゃりと叩き、それから深く長い息を吐いた。

 ごめんなさい。頑張るから。ママみたいにすごい人になれるように頑張るから。見捨てないで。

 泣きじゃくり、胸の中を渦巻く吐き気に耐えながら、子どもの私はひたすら謝った。続きを弾くよう促され、また叩かれ嘆息されては泣いて、弾いて、叩かれて。その繰り返しの日々だった。それでも振り落とされないよう着いていこうとした。母が私を思うからこその指導だと思っていたから。これに関しては今もそう信じている。

 それから高校生になって雪歩先生の教室に通うようになり、部活の助っ人でキーボードを弾くようになった。それでも私は私を叱る母の顔色を窺っていた。母に着いて行くことは出来ない。けれども、道を違える勇気もかつての自分には無かった。

 最終的には母の方から突き放され、ピアノに触れることもめっきり減った。

 進学を機に、街も家も捨てて、遠くへと離れて。でも、母の立ち上げた教室で働くようになったことで、のこのこ戻ってきてしまった半端者の自分に嫌気が差す。でもほんの少し、安心感も覚えるのだ。

 何故なら、きっと、母の下にいるのが『正解』で『当たり前』という基準から逃れられないから。だって、私は母の半身となることを期待されて生まれてきた。

 ─未だに私は、私の在り方を見つけられていない。





【八木侑心さんの態度は目に余ります。教室の生徒にふさわしくありません。】

 教室の窓口宛に届いた手紙は、簡素な時候の挨拶に始まりこう綴られていた。

 たまたま封筒を開いたのが私で運が良かったのか、悪かったのか。どくんと脈打つ心臓を必死に深呼吸で押し戻しながら、続きに目を通す。

【ここは数々の有名音楽大生を排出する名門です。日々クラシック音楽に対して実直に努力している生徒ばかりなのに、八木さんは練習もろくにせず場当たり的な行動が目立ちます。】

 筆跡はきれいながらも小ぶりの文字で、行間の隙間が大きく見えた。白い便箋にも、茶封筒にも、差出人の名前は無い。おそらくは郵便ではなく直接ポストに投函されたのだろう。生徒が書いたのか、保護者が書いたのか。はたまた同僚の先生方か。何も分からない。

【八木さんがいると教室の士気が下がります。八木さんを教室に入れないでください。】

 最後の行までたどりついた。体が震えて、内容は頭に入らない。

 そしてどうして、私は震えているのだろう。実力が無い生徒なら、責められても仕方がない。それがこの世界の正解で、当たり前なのに。

「清葉せんせー。いまヒマ~?」

 たたっと軽やかなスキップで、張本人がやってくる。私はそっと手紙を封筒に仕舞うと机の引き出しに隠してから、どうしたのと答える。

「曲作ってみたから、ねねっ、聴いて」

 有無を言わさず侑心は私の左の横髪をかき分けイヤホンを耳に入れてきた。

 PCの打ち込み音源による、感情の抑揚が少ない電子のギターが聴こえてくる。ジャンルはポップスだろうか。生憎、作曲の授業で私の点数はいつも及第点ぎりぎりだったから、ちゃんと評価をしてあげられない。……いや、評価はいらない。ただ受け止めてあげることが必要だ。

 侑心の興味は演奏よりも作曲に向いていた。夏のクラシックピアノコンクールは予選会は参加したものの本選には進めず、夏休みの残りは作曲に費やしている。早いうちから鹿野さんに懐いたのも、作曲に心を惹かれたのが理由なのだろう。

 この教室は作曲専門コースを設けていない。侑心の熱意はこの教室には噛み合わないことがいよいよ如実に現れ、ゆえにあの手紙が届いたのだ。そんな風に合点する。

「侑心はさ、教室楽しい?」

「楽しいよー」

 即答だった。疑いようのない自信が侑心の瞳にあった。

「それなら良かった」と私は言葉を返す。

 仮にすぐ過ぎ去る熱だとしても。彼女の熱意が相応しくないなんて誰が決めるのだろう。誰が、何を持って縛ることをよしとするのだろう。大人は彼女の熱意を認めないといけない。

 なのに、どうして、胸が苦しいのだろうか。
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