黒白のあわいを歩んで行く

「わー。ふられちゃった。やばいやばい」

 そう言いながら、頭のてっぺんからつま先までびしょびしょになってエントランスに入ってきた女の子を見たとき、私の頭の中でなにかが弾けた音がした。

「せんせぇ。タオル持ってる?」

 彼女は私に気がつくと、前髪をかき上げながら、屈託ない笑顔を向けてくる。

「ああ、ええ。はい。しっかり拭いてね。足りなければ持ってくるよ。風邪だけはひかないようにね」

 私は新品のバスタオルを渡した。本来は掃除用にと購入して保管していたものなので、薄手なのは仕方ない。

「うひー。スカートまでびっしょびしょだあ」

 おもむろに膝上丈しかないプリーツスカートの裾を掴んで搾ろうとするので、慌てて「こらっ」と止める。視界の端で鹿野さんがぐるんと音がしそうな勢いで踵を返したのが分かった。

 台風並みの天候悪化予報が出たので、今日の授業は急遽中止となっていた。けれど休講連絡に気づかず来てしまう生徒さんも少なからずいる。そんなおっちょこちょいな生徒へ休講を告げるためだけに、鹿野さんと私は教室に残っていた。

「スパッツはいてるからへーきだよ」

「それでも、だよ。気をつけなきゃダメ」

「はーい」

 今はたまたま鹿野さんしか男の人はいないけれど。そもそも教室には鹿野さんと私、そしてこの生徒だけ。先程まで一人生徒がいたが、迎えにきた母親と帰っていったばかりだった。

「えー! せっかく来たのに休講かー! がんばっちゃって損した」

 休講を告げれば、くりくりとした大きな瞳が一層大きく見開かれる。この子の名前を私は知らない。最近入門したばかりだろうか。

 よいしょっと、と重たそうにうめき声を出して、彼女はリュックサックを傘立ての上に下ろす。リュックサックももちろんびしょ濡れで……。

「あ! 楽譜! 無事!?」

 遅ればせながら思い至った私は思わず声を上げる。言わずもがな、楽譜は紙だ。楽譜は重たいから、大抵の生徒は課題曲の譜面のみコピーしたものをファイリングして持ち運んでいる。ただ、この子はどうだろうか。荷物を重たそうに下ろしていたので不安だ。

「だいじょーぶ。ほらね」

 彼女はスーパーの袋につつまれた冊子を取り出して私に見せてくる。

「それくらいはゆうみも頭まわしてるよ」

 肩下まであるポニーテールを彼女はタオルで絞りつつ、むくれたように言ってから、不意ににかっと白い歯を見せて笑った。





 八木やぎ侑心ゆうみ。それがあのびしょ濡れになっていた少女の名前だった。

 入門はつい二週間前。学年は中学二年生。近所に引っ越してきたのを機にたまたま近くにあったこの教室を選んだだけで、ここが『名門』だとは入るまで知らなかったらしい。確かに対外的には経歴不問を謳っているけれど、実際はある程度経験を積んだ子たちがクラシック音楽で食べていくための力を養う教室だ。そんな経緯であり、もちろんコンクールでの受賞経験も無かったので、侑心もベーシックコースからのスタートだった。

「ねーねー清葉せんせー。この曲あきた」

 ピアノ椅子の背にもたれ掛かり、だらりと腕を落とす侑心。

「いいとこまで来てるから。あと少し練習してくせを直せばいい感じになるよ」

 内心顔をひきつらせつつ……とはいっても隠せていないだろうけれど、努めて柔らかく私は語りかける。しかし彼女には完全に飽きが来ていて、宥めても注意しても響いていそうにない。もはやどうしようもなかった。

 というわけで、担当講師は私である。

 当然ながら、侑心の演奏技術には基礎が欠けていた。腕の脱力とか、運指ルールとか、ペダリングとかの基礎的な演奏技法はもちろん、ソルフェージュに至るまで。細かい点も挙げればキリがない。入門して間もないものの、彼女も教室のルールに沿ってコンクールの準備を進めているのだが、進捗は芳しくない。

「バッハとかモーツァルトとかさー。弾いててもなんか楽しくない。ときめかないっていうの? 違うのやりたいよ」

 足をぷらぷらとさせ、不貞腐れている侑心。

「でもねえ。コンクールの課題曲だから、これはやらなくちゃダメな曲です」

 侑心が閉じた楽譜を私が開き直す。楽譜への書き込みは私が入れたものが大半だ。基礎のソルフェージュも足りていないので、楽曲分析の手解きもしつつの実技補講の時間だった。

 彼女は比較的呑み込みが早い。初心者同然とはいえ悪くはないように思える。しかしやる気がいまひとつ。

「つまんないなー」

「これを弾けないと上手くなったとは言えないよ? それに、この曲の良さは自分で見つけるものだよ。練習したら良くなるから、ほら。頑張って」

 侑心にも少なからず素質があった。彼女は耳が良い。音感とリズム感には光るものがある。これのおかげで入塾テストも合格できたのだろう。

「んー。でもさ。つまんないもんはつまんないもん。もっと派手な曲やりたい。なんかないの」

「ショパンとか、ドビュッシーとか。花がある曲ってことかな? 本選まで進めないと弾く機会もないから。まずは今やってる予選会の曲をしっかり仕上げないとだね」

「コンクールないと弾いちゃだめなの?」

「ダメではないけど。物事にはね、何事にも順番があるの」

「えぇー」

 見るからにやる気の最後ひとかけらをなくす侑心。でも、それがここのルールなのだ。理解して、従ってもらわないと困る。

「おーっす。元気にやってるか、侑心」

 そんなとき防音室の扉が開いて、鹿野さんが入ってきた。さしずめ外から様子を見ていて気になったのだろう。侑心か私、どちらへの助け船か。

「鹿野せんせぇの授業は楽しいのになー」

「ホントか? 嬉しいぜ。でも基礎の基礎も大事だからな、清葉先生との授業も頑張れよー」

 笑いあう鹿野さんと侑心。鹿野さんは私にそっと目配せしたけれど、私は曖昧に笑うことしか出来ずにいた。

 仲の良い二人を見て、はっと気づき、それからぎゅっと胸の底が痛む。

 侑心がルールにそぐわないんじゃなくて、ルールが侑心には合っていないだけ。そしてルールなんて無くても、本当は彼女の好きに弾いてもらっていい。何を弾いてもいい。コンクールなんてでなくてもいい。やりたいことに背中を押してあげること、きっと先生って本来そうあるべきで。

 悔しさを覚えたのは、侑心を導いてやれない自分に対して。

 それならば、心の奥底にわずかにある敵愾心は、枠組みにとらわれずのびのびと音楽を楽しもうとする侑心に対してであって。自分はなんてふがいないのだろう。

 私は和気あいあいとしている二人の横顔を眺める。近くにいるのに、何故だか、遠い。
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