黒白のあわいを歩んで行く

 思っていたよりも気楽。それが、音楽教室で働き始めて二週間経った今の感想だ。気楽というか何と言おうか。こんなものか。という、拍子抜け感。母の穴埋めだからといって母と同等のポジションは求められていない。求められたところで応えることは出来ないのだけど─現役時代はそれを求められていたのだ。母からも、その周囲からも。

 とはいえ、気楽だから負担が少ないというロジックが成立するわけでもなかった。

 教室の二階、西側の防音室の中。生徒が全員帰ってから私は教本と睨めっこを続けている。明日担当するソルフェージュの授業のためだ。

 大学以降クラシックに触れる機会はめっきり減っていたものの、意外と知識面はしぶとく残っている。ただし『覚えている』と『指導が出来る』は同義ではないし、教えるためには思い出す作業以上に学び直しも要求されるように感じていた。

 つまるところ。端的に言うと。とてもしんどい。

 肩甲骨をぐいと寄せ、それから肩をゆっくりと回す。吐いた息が鍵盤に落ちていく。

「おーやってるねえ」

 がちゃりと音を立てて防音室のドアが開いたかと思うと、鹿野先生が中に入ってきた。ノックをするでもなく、するりと。鹿野先生は視界の端にいても無視出来ないように、存在が派手で目立つ。そのくせして気配を隠すのが妙に上手いときがあって、気がついたら近くにいて驚かされることがある。

「こんな夜遅くまで根を詰めてるけど、なんか食べた? よかったらこれ、どうです?」

 鹿野先生は私の眼前に丸く膨らんだ赤いビニール袋を掲げた。駅前のパン屋の袋だ。

「ありがとうございます」

 手を伸ばすと、鹿野先生はさっとその袋を私から遠ざけるようにして頭上まで手を挙げてしまった。

「休憩しよう。休憩。根詰めすぎもよくないんで。ほんと」

「あ、……はい。お気遣いありがとうございます」

 鹿野先生の後について防音室から出て、私は廊下の長ソファーに腰掛ける。普段はレッスンを待っている生徒さんが座るこの場所も、今は私と鹿野先生しかいない。

 ようやく受け取った袋には、チーズパンとあんパンが入っていた。「どっちか選んで。片方はおれにちょうだい」と、鹿野先生は言いながら私に缶コーヒーを渡してきた。少し悩んで、私はチーズパンを戻す。

「チーズパン苦手だった?」

「あ、いえ。苦手じゃないですよ。単に気分です。では遠慮無くいただきますね」

 私はあんパンを一口かじる。こしあんの甘さが疲れた脳に染み渡るようだ。

「仕事は慣れました?」

「まだまだ。今日もこの通りですよ」

「今日もおれのレッスンを手伝ってもらったけど。クラシック自体にブランクあるようには見えなかったけど」

「いやいや毎日必死です。でもありがとうございます」

 お世辞かもしれないが、素直に言葉は受け取っておくことにした。仮に本当にブランクを感じさせないのだとしたら、それは母から長年仕込まれた技術と、雪歩先生のおかげに違いない。

「いやー。しかしホントにさあ、清葉さんが来てくれて助かったわ」

「そうですか?」

 最近を思い起こしてみれば、鹿野先生の黒い隈はほとんど確認できなくなっていた。

「少しは鹿野先生の仕事も楽になっていれば良いのですが」

「ああもちろん、仕事もそうだし。それ以上におれと来し方が近い人が来てくれてほっとしたね。四面楚歌、孤軍奮闘しなくてよくなってさ」

 鹿野先生はあっという間にチーズパンを食べ終わっており、リラックスするように腕を上にあげて大きく伸びをした。

 この数週間の間に鹿野先生について分かったこと。ポップスからクラシック系まで一通り網羅しているフリーの作曲家。三十歳で、私より六つ年上。中学まで一門にいたが普通高校進学と同時に離脱。アメリカで作曲と編曲を学び、三年前に帰国。かつて伊崎一門にいたときに師事していた先生の要望で、一年前よりこの音楽教室でソルフェージュと作曲の授業を担当するようになる。

 ……さて。果たして、私のどこを見て来し方が同じと判断されたのだろう。

「鹿野先生と私は違いすぎますけどね」

 せっかくなので、本人にも訊いてみることにした。

「まーね。伊崎一門筆頭の佐葉子先生のところでゴリッゴリに研磨された人にはおれはかなわんよね」

「ああいえ、違いますよ。音大出身でもないし、三ヵ月前まで一般企業の事務やってたような人間と、恵まれた海外経験を積んで音楽業界に携わってる鹿野先生との共通項の話です」

 きっと半分くらいはからかう意図があるだろう。そうに違いない。いつもの軽薄そうな笑顔で笑い飛ばして欲しい。

「伊崎一門を自分の意志で出て、また戻ってきたという点だよ。要するにおれたちは一門、クラシックピアノ以外の世界を知っているってコトさ」

 けれど、返ってきた内容は至極平静なものだった。

「おれたちみたいな存在ってかなり珍しいよな。この一門って結構ルールとか階層とかガッチガチだし、その分出てった人は戻ってくることそうそうないし、いる人らはいる人らで頭カッチカチになりやすいし」

「ああ、確かに……。私も一門を抜けるときすごく勇気が要りましたし、これからどうなるんだろうって怖さや不安がありましたね……」

「うん。おれも中学で辞めるときに思ったよ。人生終わったーって。でも音楽やりたい諦められないいっそ留学してみっかー、って。おれの場合は、だけど。けど人生終わったって思った瞬間は今でも覚えてる」

「留学が転機だったんですね」

「そーね。そう思っちゃうくらい、あれ? と気づいたときには息しづらいし逃げ場がないし。なんつうか、蟲毒みたいな? そうは思わない?」

「そうですね……生徒を競わせるっていうのが行き過ぎてると考えると、確かにそう表現してもいいのかもしれませんね」

 私は目を伏せる。こうもはっきりと組織の問題を口にされると動揺してしまう。

 一門を、ひいては母の下を離れた理由を私は自分の中にしか見いだしてこなかった。真正面から当たるのを避けてきた事項を易々と突きつけられて、跳ねた鼓動ごとコーヒーで何とか飲み下した。

「で、その毒を何とかするかーっていって出来たのがこの教室らしいけどな。先生たちが本気で毒を抜く気ならおれもやれるもんはやってみようと思って。まー、毒だと思ってない人が予想以上に多かったのは誤算だったけども」

 鹿野先生は笑った。穏やかな表情だけれど、瞳には力がこもっている。

「ん? なんか呆けてるようだけど。びっくりした?」

「ああ、はい。その、今まで一門や母を疑ったことがあまり無かったので……」

 母は子どもの私にとって絶対的だった。母が黒と言えば黒だし、周囲も黒だと言った。あれは白だったかもと思えるようになったのは、大学に進んだ頃からかもしれない。

 ……まだ、私の心は不確実だ。鹿野先生のように確固としたものなど無くて、大した立場でないにしても一門に戻ってきてよかったのか、判断がつかない。

 しかし。断れるあらゆる段階で戻ることを拒まなかったという事実について私は、それ以上の追求をする気にはなれない。どんな外的要因があったにせよ、これが私の今現在の答えだ。

「さて、清葉さんも食べ終わったし。あとどれくらいやっていく? 家まで車で送るからさ、大体の目安を教えてもらえます?」

「そんな。気にしなくて大丈夫ですよ。この前も送ってもらいましたし。私の都合で残業してるので鹿野先生が気にする必要は……」

 それに、同僚といえど男性と二人きりというのが久しぶりなので緊張する。伝えないけど。

「その授業の予習はおれのクラスのサポート目的じゃん。多少はおれに先輩面をさせてくれよ。せっかく後輩が出来て嬉しいからさ」

 何もしないしさ。だいじょーぶ。と、鹿野先生がひらひらと両手を挙げる。

 意外と神経質だな、変なの。なんて考えて、私はふっと目を細めた。
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