行き止まりの道に音楽は鳴らない

 深呼吸をすると、私は玄関のドアを開けた。

 背後からは、中学生くらいの女の子が泣く声が聞こえる。母が自宅で開いているピアノ教室の生徒さんだ。レッスンを終えた生徒さんたちと庭先ですれ違うことはよくある。泣きながら帰っていく様子を見かけることも、とてもよくあることだ。

 私は速やかに家に入ると、教室として使われている南向きの洋間を、半開きのドア越しに覗く。

 ピアノの脇に置かれたソファーに腰かけて手帳を読んでいた母は、気配に気づいたのか顔を上げずに「清葉きよは、おかえり」と私を呼び止めた。眉間に寄ったしわ。黒いチュニックにステテコの出で立ち。今日はとりわけラフな格好をしている。ラフな姿をしているときは疲れているときに多いことを、私は知っている。

「ただいま。さっきの生徒さん、泣きながら帰っていったよ」
「そう。あれくらいで泣かれてもね。あの子もそろそろ無理みたいね」

 母は眉をひそめた。

 私の表情には気づいていないのだろう。内心ため息をつきつつ、私は部屋に足を踏み入れる。

「ママの今日のレッスンは終わり?」
「あと二十分したらもう一人来て、したらおしまい。そしたらあとは出張の準備を」
「三日後から仙台だっけ?」
「仙台は次の次。今回は広島。この時期は関東圏での審査が出来ないから出張三昧よ」
「関東だと同じ伊崎いざき一門の生徒さんが多いから、公平性が損なわれる危険性がどうとか、だっけ」
「そうそう。そんなわけだから、悪いけど留守番よろしく。次の週末にはハウスキーパーさんも呼んでるから。家事は心配ないけど、教室の掃除は、清葉。あなたがやるのよ」
「分かった」

 母はやおら立ち上がると、グランドピアノの、大屋根の上に積まれた楽譜の山から一冊抜き取る。真新しい楽譜の表紙、その著者名には『竹富佐葉子たけとみさよこ』と印刷されている。母の名前だ。ピアノの下に広げたキャリーバッグを引き寄せるとその中に仕舞った。

 母は関東ではそれなりに名の知れたピアノ教師だ。若い頃から様々なコンクールで腕を鳴らし、一流音大を卒業して教師になってからは、教則本を出版したり、招聘されていろいろな教室で講演会を行ったり教鞭をとったり、コンクールの審査員をしたりしている。かつて母が師事していた有名教室の出身者からなる一門では多くの先生が活動しているけれど、一門の中でも代表的な存在だと言われていた。

「ママ。これ雪歩ゆきほ先生から預かってきたよ」

 私はトートバッグから紙の束を取り出して母に渡す。これは来年春に出版予定の教則本のゲラ、らしい。雪歩先生は現在の私がお世話になっている先生だ。

「はいはい。あと、これも渡しておいて。次にレッスン行くときでいいから」

 母がピアノの上から新たな紙の束を出してきたので、交換するかたちで再び受けとる。母は服のポケットから老眼鏡を取り出した。

 アナログ派の母は電子データでのやりとりを殊更厭う。なので、雪歩先生の教室を行き来する私は原稿やらコンクールの書類やらいろいろ持たされるのだ。さながら伝書鳩のようだ、と思う。伝書鳩でしかないなと憂う一方で、それでいいやとほっとしている自分がいる。

 はぁー、と母は大きなため息をつきながら、がしがしと頭を掻いた。内側から白髪が涌き出るようにして露わになる。そろそろ次の黒染めを勧めないと。母の今日最後のレッスンが終わったら声をかけようか。

 とりあえずは用事も済んだので、私が部屋を出ていこうとすると、「ああ、そうだ」なんて、再び母は私を呼び止めた。

「軽音楽部? だったっけ。弾いてる曲、聞かせてくれないの?」
「キーボードだけ聴いても、面白くないと思うよ」
「どうしても駄目?」

 母はしおらしくなる。目許の笑みはぎこちない。

「練習中にみんなで録った音源でよければ、今度ね」
「本当にコンクールは受ける気ないの?」

 母はフーッと大きく息を吐いて、私を見つめる。これが本題だったんだろう。

「…………うん」

 私は部屋を出ていく。母の返事はどうだか聞いていない。聞きたくなかった。

 母のいる教室が、私は苦手だ。いたたまれなくなるからだ。

 二階の自室に飛び込むと、すぐにドアの鍵をかける。カバンを下ろして身軽になると、ようやくほっとした心持ちになって、深く息を吸うことができる。西向きのこの八畳間は、私の城だ。

 ベッドに腰かける。いっそう西日が差してきたから、私は目を細める。

 山あり谷あり、起伏が激しいこの街で、崖に沿うように建つ我が家の見張らしはとてもよい。今も、オレンジの絵の具を垂らしてぼかしたような、暮れようとする夕日がよく見える。

 空から漏れたオレンジの光が部屋を満たし、ふわりと、壁際に置かれたアップライトピアノが照らされる。

 絵になる光景だ。と、思うと同時に、ひう、と喉が鳴った。

 いつからだろうか。ピアノを見るのもしんどくなってしまったのは。
 十七年生きてきて、これからもピアノを弾いて生きていくものを信じて疑わなかったのに、今は先が靄がかかったように、なにも考えられない。けれど。

「……弾かないとな」

 弾かなきゃ、私は私の存在を認めてもらえないから。
 震える手で、私は、アップライトピアノの蓋を開けた。
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