黒白のあわいを歩んで行く
母の四十九日は教室の繁忙期と重なった。正確な日付で行うと平日にあたってしまうので、少し前倒して土曜に行うことにする。
当日は朝から重たい灰色の雲が広がっていて、時折通り雨が降っていた。終日休みをもらった私は家の片づけをしながら、お坊さんと参列者である先生方を待つ。家も決して広くはないので、母と付き合いが長かった一握りの先生だけお呼びしていた。
法要は午後二時から始まった。母は自分が大切にされること、注目されることが好きで─好きかどうかというよりは当たり前という感覚に近いのかもしれないけど、ゆえに読経は出来るだけしっかりとしたものをあげてもらった。
すべての予定が終わり参加者が帰っていく中、「この後、ちょっといい?」と私に声をかけて唯一この場に留まったのは鹿野さんだった。
「んー。で、本気で辞める気なの?」
「はい」
「おお……そうか……」
悩まし気に片顔を押さえながら鹿野さんは唸る。
私たちを隔てる壁は、出会った当初と比べるとずいぶんと低くなった。ベーシックコースの教師同士として接点が多かったのはもちろんだけど、ひとえに鹿野さんの人柄のおかげだと思う。
リビングのテーブルにて、食後のコーヒーを飲みながら、私たちは話し合う。鹿野さんはスーツの上着を脱いでいるし、私に至っては法要で着ていたワンピースはもう着替え済みであり、この場ではカットソーとジーンズ姿という至ってラフなものだった。
「近々留学から帰ってくる、とても優秀な先生が入るとも聞いていますし。あまり人員不足感も無いと思いますが」
「人員追加はいろいろな状況を踏まえて決まったもので、人が足りているとはとても言わんのだけど。もしかしなくともなんか、陰口でも叩かれた?」
「それも一因と言えなくはないです。でも決定打ではありません」
「そこまで気にしてないのか……」
否定はしないらしい。私も『そんなことはないよ』とか見え透いたおべっかが欲しいわけではないのだけれど。
二人でじっと見つめあって、待つ。どちらが先に言葉を発するか。
「そっかあ。さみしくなるなあ……」
先に折れたのは鹿野さんだった。ふうと息を吐いて、険しかった眉が少し解ける。その表情を見て、心がちくりと痛む。
母は亡くなった。私が母の下で仕事をする大義名分も消えた。私はどこに行ったっていい。地元から離れて進学し、昨年までほとんど里帰りすらしなかったように。
「でも……」一人であんなに逡巡していたのに、鹿野さんを前にしてか、口を開けるだけで言葉の続きはするりと出てきた。「まだ、どうしようか悩んでいるんです」
「どうしようか、とは?」
「私は、母にはなれない。けれど、母があっての私なんです。子どもの頃からずっとそうでした」
窓に目を向ける。しとしとと雨が降っていた。奥二重の目に薄い唇。そして丸顔。窓ガラスが映す私の顔だちは、とても母に似ている。
母は自身の功績を残すために私を産んだ。私の成績が振るわなかったり音大に進まなかったりして計画は狂ったものの、今際の際に私が手の届くところに帰ってきた。想定外でありつつも、母にとっては、きっと、嬉しかったのだろう。
そして私もまた、母の影を見てしまう。否、追いかけてくる。母と子で二人きり、同じピアノを弾き、私は母の世界を垣間見た。
私には母の血が流れている。母の存在が私を埋める。
だって、私は母の半身なのだ。私は母であり、母もまた私だ。
やおら席を立つ。私は寝室に置いてあった木箱を携えてリビングに戻った。
「さて。四十九日も終わるし、この箱をいよいよ開けないといけないなと、思って」
ポケットから取り出した鍵を挿しこむ。なかなか奥まで入ってくれなくて、鍵が回せない。
「あれ、おかしいな、あれ……」
押しても押しても手応えがない。
「おいおいちょっとちょっと。そんな乱暴にやっちゃあ壊れるって」
焦る私を、鹿野さんはその伸ばした腕で制す。
「ちょっとおれに貸してみな?」
鹿野さんは私から鍵と木箱を取り上げる。かと思うと、鍵を後ろ手に隠し、そのまま背後のソファーに放り投げてしまった。慌てて鍵を拾えば、箱を小脇に抱えた鹿野さんと真正面から対峙する形になる。
「鍵、投げてごめん。でもやっぱり開けるの今じゃないんじゃねえかな……」
「えっ」
「そんなひきつった顔で開けるもんでもないでしょ。ねえ。やめときなよ」
私が呆ける隙すら与えてくれないまま、冷静に、鹿野さんは畳み掛けてくる。
「それにこの箱を開けたら、清葉さんは清葉さんでいられる? 浦島太郎の玉手箱みたいなもんでさ。この箱を開けても、ちゃんと自分でいられる?」
「でも……」
「うーん。なんていうかな? おれはもうここにいない人より、目の前にいる人を選ぶよ。それにさ、決して安定した間柄でなかったところに罪悪感でさらにしんどいもんを抱えるように動く必要もないんじゃないかって。おれはそう思う」
鹿野さんは私と母にあった隔たりを知っている。以前、私が打ち明けた。だからこそ、鹿野さんの言葉は的確に心臓の真ん中を掴んだようであり。頭の芯がすっと冷える。
罪悪感。私を突き動かしているものの正体は、罪悪感なのか?
私は、母がすべてを捧げて切り開いたものの何一つも継げなかった。継ぐだけの技量も度量も無いから。じっとりと肌にまとわりつくような恨み言は、受け止めるしかない。目立って言い返したことも大学進学のときが一番で、そもそも数えるほどしか無いと思う。反撃するでもなく、内部崩壊していくような。そんな感覚で。
母に恨み言を言わなかったのは、それを口にしたら母に見捨てられたと認めることになるから。私の方から離れた、戻ってきたのは娘としての最後かもしれない親孝行のため。そう、思っていたかった。
恨んでくれてもいいのよ。大学進学で家を出る日の前日、母は私に言った。私は母を責めなかった。母に謝られたって嬉しくなかった。母と私の行く道は違う。母には私を『見捨てた』という感覚すら無いのだろう。ほんの一瞬交わったとて、向いている方角は全然揃わなかったのだから。私は母の後ろ姿しか見ていない。
「私は……」
……そう。執着しているのは母より私なのだろうね。この期に及んでも、なお。生きている間に恨み言の一つでも言えていたら違っていたのかもしれない。
そう、ならば、それならば。
「あの。一つ、お願いしてもいいでしょうか。迷惑でしょうけど」
「いいよ、聞こうか」
「この箱を、預かっていてくれませんか。鍵は私が持っているので、私が心を決めて、開けたくなったときに、箱を、返却してもらいたくて」
言葉は喉につっかえるから、腕を回し手を振って、勇気をもって、身振り手振りで何とか最後の音節まで体外に吐き切る。
「おう。承りました」
鹿野さんからの返事は迅速で、そして極めてさっぱりとしていて明るいものだった。力強く頷いたのち、胸を張る仕草をしてくれる。
「一応、期限は?」
「うーん三回忌までは……。私の努力次第ですね……」
「了解。ま、別に焦んなくていいよ。おれはどこに行くわけでもないしさ」
「お願いしておいて今更かもですが。人様に頼み事をするって、難しいことですよね……すごく図々しいことも分かってます」
「人様て。図々しいて。まあ、そうかもだけどいいよ。おれは清葉さんを同志だと思ってるからさ」
私を真似して鹿野さんもじたばたと手を広げる。お互いにけん制し合うその様は、何だかアリクイのポーズみたいだ。
「……あはは。変なの。おっかしー」
「いいじゃんいいじゃん。それでいいよ。そんな感じで行こうぜ」
ぽんと鹿野さんは木箱を撫でながらくしゃりと笑う。私も鍵をポケットに仕舞って、小さく頷いた。
その日の晩、母が夢の中に出てきた。亡くなってから初めてのことだった。
かつて暮らした戸建ての実家。グランドピアノの前に座る母。私は無言でその背中を見つめていた。母は何も奏でない。私も何も話さない。時間だけが過ぎていく。
そのうちに母は鍵盤の蓋を閉める。それから改めて私に向き直ってゆっくりと瞬きをして見せる。その表情はよく窺い知れない……私が、目を逸らしたから。
母の声が聞こえる。
あなたは私のようになるのよ─────
──私は、母にはならない。たった今、そう決めた。
当日は朝から重たい灰色の雲が広がっていて、時折通り雨が降っていた。終日休みをもらった私は家の片づけをしながら、お坊さんと参列者である先生方を待つ。家も決して広くはないので、母と付き合いが長かった一握りの先生だけお呼びしていた。
法要は午後二時から始まった。母は自分が大切にされること、注目されることが好きで─好きかどうかというよりは当たり前という感覚に近いのかもしれないけど、ゆえに読経は出来るだけしっかりとしたものをあげてもらった。
すべての予定が終わり参加者が帰っていく中、「この後、ちょっといい?」と私に声をかけて唯一この場に留まったのは鹿野さんだった。
「んー。で、本気で辞める気なの?」
「はい」
「おお……そうか……」
悩まし気に片顔を押さえながら鹿野さんは唸る。
私たちを隔てる壁は、出会った当初と比べるとずいぶんと低くなった。ベーシックコースの教師同士として接点が多かったのはもちろんだけど、ひとえに鹿野さんの人柄のおかげだと思う。
リビングのテーブルにて、食後のコーヒーを飲みながら、私たちは話し合う。鹿野さんはスーツの上着を脱いでいるし、私に至っては法要で着ていたワンピースはもう着替え済みであり、この場ではカットソーとジーンズ姿という至ってラフなものだった。
「近々留学から帰ってくる、とても優秀な先生が入るとも聞いていますし。あまり人員不足感も無いと思いますが」
「人員追加はいろいろな状況を踏まえて決まったもので、人が足りているとはとても言わんのだけど。もしかしなくともなんか、陰口でも叩かれた?」
「それも一因と言えなくはないです。でも決定打ではありません」
「そこまで気にしてないのか……」
否定はしないらしい。私も『そんなことはないよ』とか見え透いたおべっかが欲しいわけではないのだけれど。
二人でじっと見つめあって、待つ。どちらが先に言葉を発するか。
「そっかあ。さみしくなるなあ……」
先に折れたのは鹿野さんだった。ふうと息を吐いて、険しかった眉が少し解ける。その表情を見て、心がちくりと痛む。
母は亡くなった。私が母の下で仕事をする大義名分も消えた。私はどこに行ったっていい。地元から離れて進学し、昨年までほとんど里帰りすらしなかったように。
「でも……」一人であんなに逡巡していたのに、鹿野さんを前にしてか、口を開けるだけで言葉の続きはするりと出てきた。「まだ、どうしようか悩んでいるんです」
「どうしようか、とは?」
「私は、母にはなれない。けれど、母があっての私なんです。子どもの頃からずっとそうでした」
窓に目を向ける。しとしとと雨が降っていた。奥二重の目に薄い唇。そして丸顔。窓ガラスが映す私の顔だちは、とても母に似ている。
母は自身の功績を残すために私を産んだ。私の成績が振るわなかったり音大に進まなかったりして計画は狂ったものの、今際の際に私が手の届くところに帰ってきた。想定外でありつつも、母にとっては、きっと、嬉しかったのだろう。
そして私もまた、母の影を見てしまう。否、追いかけてくる。母と子で二人きり、同じピアノを弾き、私は母の世界を垣間見た。
私には母の血が流れている。母の存在が私を埋める。
だって、私は母の半身なのだ。私は母であり、母もまた私だ。
やおら席を立つ。私は寝室に置いてあった木箱を携えてリビングに戻った。
「さて。四十九日も終わるし、この箱をいよいよ開けないといけないなと、思って」
ポケットから取り出した鍵を挿しこむ。なかなか奥まで入ってくれなくて、鍵が回せない。
「あれ、おかしいな、あれ……」
押しても押しても手応えがない。
「おいおいちょっとちょっと。そんな乱暴にやっちゃあ壊れるって」
焦る私を、鹿野さんはその伸ばした腕で制す。
「ちょっとおれに貸してみな?」
鹿野さんは私から鍵と木箱を取り上げる。かと思うと、鍵を後ろ手に隠し、そのまま背後のソファーに放り投げてしまった。慌てて鍵を拾えば、箱を小脇に抱えた鹿野さんと真正面から対峙する形になる。
「鍵、投げてごめん。でもやっぱり開けるの今じゃないんじゃねえかな……」
「えっ」
「そんなひきつった顔で開けるもんでもないでしょ。ねえ。やめときなよ」
私が呆ける隙すら与えてくれないまま、冷静に、鹿野さんは畳み掛けてくる。
「それにこの箱を開けたら、清葉さんは清葉さんでいられる? 浦島太郎の玉手箱みたいなもんでさ。この箱を開けても、ちゃんと自分でいられる?」
「でも……」
「うーん。なんていうかな? おれはもうここにいない人より、目の前にいる人を選ぶよ。それにさ、決して安定した間柄でなかったところに罪悪感でさらにしんどいもんを抱えるように動く必要もないんじゃないかって。おれはそう思う」
鹿野さんは私と母にあった隔たりを知っている。以前、私が打ち明けた。だからこそ、鹿野さんの言葉は的確に心臓の真ん中を掴んだようであり。頭の芯がすっと冷える。
罪悪感。私を突き動かしているものの正体は、罪悪感なのか?
私は、母がすべてを捧げて切り開いたものの何一つも継げなかった。継ぐだけの技量も度量も無いから。じっとりと肌にまとわりつくような恨み言は、受け止めるしかない。目立って言い返したことも大学進学のときが一番で、そもそも数えるほどしか無いと思う。反撃するでもなく、内部崩壊していくような。そんな感覚で。
母に恨み言を言わなかったのは、それを口にしたら母に見捨てられたと認めることになるから。私の方から離れた、戻ってきたのは娘としての最後かもしれない親孝行のため。そう、思っていたかった。
恨んでくれてもいいのよ。大学進学で家を出る日の前日、母は私に言った。私は母を責めなかった。母に謝られたって嬉しくなかった。母と私の行く道は違う。母には私を『見捨てた』という感覚すら無いのだろう。ほんの一瞬交わったとて、向いている方角は全然揃わなかったのだから。私は母の後ろ姿しか見ていない。
「私は……」
……そう。執着しているのは母より私なのだろうね。この期に及んでも、なお。生きている間に恨み言の一つでも言えていたら違っていたのかもしれない。
そう、ならば、それならば。
「あの。一つ、お願いしてもいいでしょうか。迷惑でしょうけど」
「いいよ、聞こうか」
「この箱を、預かっていてくれませんか。鍵は私が持っているので、私が心を決めて、開けたくなったときに、箱を、返却してもらいたくて」
言葉は喉につっかえるから、腕を回し手を振って、勇気をもって、身振り手振りで何とか最後の音節まで体外に吐き切る。
「おう。承りました」
鹿野さんからの返事は迅速で、そして極めてさっぱりとしていて明るいものだった。力強く頷いたのち、胸を張る仕草をしてくれる。
「一応、期限は?」
「うーん三回忌までは……。私の努力次第ですね……」
「了解。ま、別に焦んなくていいよ。おれはどこに行くわけでもないしさ」
「お願いしておいて今更かもですが。人様に頼み事をするって、難しいことですよね……すごく図々しいことも分かってます」
「人様て。図々しいて。まあ、そうかもだけどいいよ。おれは清葉さんを同志だと思ってるからさ」
私を真似して鹿野さんもじたばたと手を広げる。お互いにけん制し合うその様は、何だかアリクイのポーズみたいだ。
「……あはは。変なの。おっかしー」
「いいじゃんいいじゃん。それでいいよ。そんな感じで行こうぜ」
ぽんと鹿野さんは木箱を撫でながらくしゃりと笑う。私も鍵をポケットに仕舞って、小さく頷いた。
その日の晩、母が夢の中に出てきた。亡くなってから初めてのことだった。
かつて暮らした戸建ての実家。グランドピアノの前に座る母。私は無言でその背中を見つめていた。母は何も奏でない。私も何も話さない。時間だけが過ぎていく。
そのうちに母は鍵盤の蓋を閉める。それから改めて私に向き直ってゆっくりと瞬きをして見せる。その表情はよく窺い知れない……私が、目を逸らしたから。
母の声が聞こえる。
あなたは私のようになるのよ─────
──私は、母にはならない。たった今、そう決めた。