黒白のあわいを歩んで行く

 予想に反して、母の入院は続いていた。一ヵ月半前に退院して自宅に戻ったものの、夜中にトイレで倒れてまた救急搬送。そのまま再入院となった。

 私は住んでいたアパートを引き払った。契約更新直後だったので無職の身には出費が痛いが、仕方のないことだと諦めた。一人娘として、たった一人の身内である母を放っておくのを世間は許さないのだ。私とて他人のふりをしたり縁切りをしたりするまでの思いは無いので、それくらいは娘としてさすがに対応したい。

 とはいえ想定外の事態だ。だって、母は強い。私とは違う人種だ。殴られても倒れない。誰にも負けない。娘にも容赦が無い。

 だからだろうか。病気で倒れるなどという現在の状況は今まで一度も想像したことが無かった。狐につままれたとでも言おうか。まるで夢でも見ているようだ。

 けれども夢ではないので、このところ私は母の入院に伴う種々の対応を迫られている。

「あー! すんません遅い時間にありがとうございます! すぐそこの部屋でちょっと待ってもらえますか?」

 最寄り駅を下りて住宅街を十分ほど歩いたところにある、雑居ビルの一階。薄暗かったエントランスにパッと明かりがついて、小走りでやってきて私を出迎えてくれたのは、私と同い年くらいの若い男性だった。金のメッシュが入った黒髪のパーマに流行りの丸眼鏡。オレンジ色のアロハシャツは目にも鮮やかだ。彫りの深い顔とファッションは相乗効果を生んでいる。彼の風貌に私は少し目を見張る。こんな派手な人がこの一門にいたとは。

 私は軽く会釈を返し、用意されていたスリッパに履き替え、私は案内されたレッスン室へと向かう。

 ピアノ教室ひまわり。母が同門の先生たちとともに立ち上げた教室だ。自分個人の教室を畳んだ代わりに、母は教室の中核としてここでの指導に注力していた。

 今晩の私は、母が病室でも出来る仕事をするための準備として、職場に置きっぱなしにしていた仕事道具を代わりに取りに来るという役目を負ってここに来た。

 時刻は午後九時。生徒さんは全員帰宅済みで、残っている先生もこの男の人しかいないらしい。おもむろに壁に掛けられたカレンダーを眺める。今週は、ゴールデンウイーク明けの週。夏にかけてコンクールラッシュで忙しくなる前の、わずかな閑散期だ。早く帰れるときに帰ろうなんて魂胆だろう。

「お待たせしましたー。適当に座ってください」部屋に相手が入ってくる。私の横を過ぎるとき、キリっとした香水がかすかに香った。

「こちらこそ母がご迷惑をおかけして済みません」

 私はそう言いながらピアノの横の椅子に座る。相手も向かい合うようにしてピアノ椅子に腰掛けた。

「楽にしてもらって大丈夫です。……あ、自己紹介まだでしたね。自分はこういう者です」

 差し出された名刺には、白い紙に黄金色の文字で『鹿野慎司 Music Producer/Songwriter』と書かれている。

「作曲家さんですか?」私は聞き返す。

「本業はそうです。フリーの作曲家。伊崎一門の指導者としてはちょっと変わってるポジションだとは思うな」

 鹿野先生はくしゃりと笑う。派手な風貌だけど、とても人好きのしそうな雰囲気だ。

 私は同年代の人たちの記憶を探る。伊崎一門に属する先生も生徒も女性比率が高い。ましてこういう変わった男性なんて覚えていないわけないはずなのに。しかし、いくら考えても思い当たるところは無かった。

「で、これが佐葉子先生の置いてた本とか楽譜とか。結構分厚いけども、入りそうな袋とか持ってきてます?」

「ええ、それは大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 私は本やプリントの束を受け取ると、リュックサックから折り畳み式トートバッグを取り出してその中に入れた。この感じ、何だか高校時代を思い出すな。母の教室と雪歩ゆきほ先生の間を行き来した、そんな伝書鳩の記憶も久しい。

「しっかし、まさか入院がまだ続くなんてねえ。清葉さんだっけ。お母さまが倒れてバタバタでしょう」

「そうですね。ここの教室にもご迷惑おかけして済みません。生徒さんにも申し訳ないです」

 私が現役だった頃と同じ要領ならば、来週にもなればいよいよ六月中旬から順次スタートするコンクール予選会に向けて忙しくなるはずだ。母も当然ながらコンクールに挑む生徒さんたちを担当していたはずで、その生徒さんたちには途中で先生が変わるという不義理や精神的ダメージを与えてしまうことは必至だった。毎年本選まで残るような生徒を指導しているはずだし、なおさら。

「いやいや、こっちの方こそ突然悪いです。ま、おれもサポートしますんで」

「はあ……ありがとうございます」

 私の心配とは裏腹に、どうにも鹿野かの先生はあっけらかんとしている。

 しかしサポートって何のことだろう。荷物運びのこと? 想像がつかなくて、上手く形容しがたい違和感が私の胸に広がる。

「で、来週から来れます?」

「いえ、まだ全然母の退院目処が立っていなくて……」

「ん? いやっあなたの話ですよ?」

「え?」

 違和感は即座に的中した。

 何のことですか。私が訊ねれば、鹿野先生はぽかんと口を開ける。

「え。佐葉子先生がお休みする代わりに来てくれる段取りだって聞いてるんだけど。清葉さんが先生として」

「えっ。私ですか? 何でしょうそのお話、思い当たるところが無いのですが」

「えっ」
「え?」

 鹿野先生との間に沈黙が落ちる。壁掛け時計の針がカチコチと鳴る音が部屋に響いた。

「うーわ。これ全然食い違ってる奴だわ。やべえ。何これどうしよう」

 鹿野先生は一気に砕けた言葉をうわごとのように呟きながら、がしがしと頭を掻いた。それから「まずは話をすり合わせますか」と大きな息とともに吐き出す。

「おれはですね。佐葉子先生から、休業の間は娘のあなたが代理指導すると聞いてたんですよ。今晩ここに来てもらったのも、佐葉子先生の引き継ぎとか担当コースの軽い頭合わせをしようという気でいたんですけども」

「そうだったんですね。ええと、けど、私は母から何も聞かされていなくて……。今日もただ母の仕事道具を回収しに来ただけのつもりでして」

「なるほど。はー。全然話が違うんだな」

「違いますね、ふふ。どうしましょう」

 私たちは思わず目を合わせて苦笑する他なかった。

「うーん、どうすっかなあ……もう清葉先生が来るつもりで体制を組み始めてたんだけども。他の先生ももう清葉先生来る気満々でいたし」

「音大も出てない人間に無茶を言いますね」

「いやぁ、けど、軽く経歴聞いてますけど、佐葉子先生のところで高校まで大会出てたんですよね。あー、いや違うや、早乙女先生んとこか。どっちにしても伊崎一門であることに変わりねぇしな。おれと経歴そんな変わらんし……」

 あーとかうーなどと呻きつつ腕を胸の前で組んで逡巡している鹿野先生を前に、私は肩をすくめることしか出来ない。

 大学まで何だかんだ鍵盤には触れていたけれど、私はただの一般人だ。指導役なんて無理に決まっている。誰が考えても明らかなはずなのに。けれど鹿野先生の言葉は気になった。

「さっき、体制を組み始めてるって仰ってましたけど、私は何の担当になる想定だったんですか?」

「うちは大きく二コースあって。一つがアドバンストコース。もう一つがベーシックコース。清葉さんにはおれの指導補佐としてベーシックコースでソルフェージュをお願いしようと思っていて」

「ベーシックコースはコンクールのどのランク帯の生徒さんを想定してるんですか」

「ランク帯って言葉がさらっと出てくる辺り、ばりばり伊崎の人間っすね。だいたい予選通過はクリアできて、本選でも半分くらいは優秀賞取ってくる。全国大会出場はナシ。で、伝わる?」

「だいたい分かります」

 つまりは、恩師である雪歩先生が受け入れていた生徒くらいの実力ということだろう。

「佐葉子先生から清葉さんの経歴もさらっと聞いてて、ぶっちゃけ全く問題ないです」

「音大を出ていなくてもですか?」

「まーったく問題ないです。コンクールのタイトルも持ってるし、指導グレードも持ってるし。ちなみにおれはどっちも持ってないです。演奏グレードだけ」

 うんうん、と鹿野先生は繰り返し大きく頷いた。グレードというのは大手の音楽団体が設けている資格のようなものだ。ある一定の級数であれば指導者になれると一般的に言われている。私が取ったのは高校の頃で、もう十年ほど前のことだった。

「……そんなに人、足りてないんですね」

 かつての伊崎一門では考えられない人選だ。今までなら私の存在など歯牙にもかけないだろうに。

「そーなんですよ! まじで困ってるんです。だからせめて夏の間でいいんで人助けと思って、やってくれませんか?」

 懇願するかのような鹿野先生。目の下にあるうっすらと黒い隈に、私の目は留まる。

 必死な顔して深々と頭を下げられてしまい、もはや、私に逃げ道は無かった。
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