黒白のあわいを歩んで行く

 見慣れない鍵に気がついたのは、母の寝室に備え付けられた机の、その最下段の引き出しを開けたときのことだった。

「どこの鍵だろう?」

 手に取って、目を凝らす。持ち手の部分は王冠をかたどっていて、表面の鉄は曇るように錆びている。南京錠に似た古い鍵だった。

 母の部屋を漁ること一時間。雑然とした山林を切り開くがごとく部屋の整理を進めていく中では、この鍵が差さりそうな入れ物について心当たりは無い。

 私はひとまず鍵を机の上に置き、本来目当てにしていた物の捜索を再開する。この鍵で開く場所に無ければいいなと思いながら。


「どう? お薬手帳、見つかった?」
 母は私が病室に入ってくるやいなや開口一番に訊いてきた。

「うん。処方箋と一緒に冷蔵庫の中に入ってたよ」
 私は折りたたみの椅子を広げて腰掛けた。この探し物のために昨日は長時間かがんだ姿勢でいたせいか、腰に少々違和感がある。

「あらそう。ありがとう清葉きよは
 ベッドの中から母は私に差し出された手帳を受け取ると、もぐもぐと水ようかんの続きを食べ出す。昨日見舞いに来てくれた生徒さんの差し入れらしい。ベッド脇の小さな机には花瓶があって、チューリップが生けられている。
 私の母─竹富たけとみ佐葉子さよこが入院したのは二週間前のことだった。勤務先のピアノ教室、レッスンの最中に倒れたところを運ばれ、私は呼び寄せられ、そのままあれよあれよという間に手続きが進んでいった。病状は大したものではないが、何せ、一人暮らしの高齢者である。

「調子はどう?」私は訊ねる。
「絶好調よ」母はかぶりを振って頷いた。

 なるほど確かに、病室にいるにしては顔色も良く、眼差しも言葉もしっかりしている。実情はさておき気楽なものだ。慌てた私が病室を訪れたときもこんな調子だったから安心して気が抜けたっけ。救急搬送という大事になったのにも関わらず母はあっけらかんとしていて、新幹線で遠方から駆けつけた私にも「あら来たの」なんて言う始末だった。

「それよりもあんたのほうが心配よ、私は」
「何が?」

 とぼけてみせると、はぁー、と母は大きな溜め息を吐いた。

「あんた、次の勤め先どうするのよ。ずっとほっつき歩くこともできないでしょうに」
「それはそうだけど」

 私は眉をひそめて見せた。母はこれ見よがしに肩をすくめる。

「一人娘を心配するのは老いた親として心配なのよ。……あら、いいこと思いついたわ。うちの教室に置いてもらえるか相談しておくわね」
「いいよ、いらない。大丈夫」

 現在、私は無職である。だからこそ平日の昼間なんて時間帯に見舞いに来られるわけで。

「あらそう」
「気にかけてもらえるのは嬉しいけど、次の勤め先は自分でちゃんと見つけるから。ママは気にしないで」
「でもねえ」
「そうだ。ママに確認したかったんだけど」

 これ以上この件で追求されるのも面倒なので、無理矢理に話を変える。

「この鍵、何?」
 私は例の鍵をカバンから取り出して、目の前に晒す。

「あら、それは……」
 母はそう答えかけて、それから不意に、私に鍵を握らせるように手をかぶせてきた。

「ベッド下の収納の中にある箱を開ける鍵よ。あんたにあげるわ。ママが死んだら開けてみてちょうだい」
「やだよ、そんな。縁起でも無いって」

 まだ当分死にそうになんてないし。母は強い。殺されても死なない人間に見える。

「そうね、清葉が心配だからまだ死ねないわね」
 母は手を離すとけらけらと笑った。


 母の住むマンションは以前実家があった場所から二駅隣の距離にある。駅から一〇分、スーパーやクリニックもほど近く単身で住むには便利で快適な立地だ。実際、単身高齢者向きを謳って分譲されただけある。
 つまり、ゆえに単身者向けであり、他人を招くことはさほど想定されていない。

 病院から戻った私は独り、母の家にいる。前回三日以上滞在したのは正月だから、実に四ヵ月ぶりのことだ。

 さて。帰省するたびに差し当たって、問題に直面している。

 地元を離れて大学進学、卒業後もそのまま残って就職した私は、その間に変わった実家の使い勝手に慣れていない。物の配置はほとんど把握出来ていないし、そもそも自分の実家であるという感覚もどうにも希薄だ。

 だから、「どこに敷こうか、布団」と思わず口を突いて出た、今まさに頭を悩ます問題はなかなかに重要だった。探し物をしていたせいで散らかってしまった母の寝室で寝るのはためらわれるし、そもそも順当に考えればリビング隣の客間しかない。それはそうなのだけど。

 私は閉ざされていた客間の引き戸を開け、照明をつける。カーペットが敷かれた部屋には、私の肩までの高さと腕を広げた幅くらいしかない白い本棚が二つ。その本棚の上にはCDミニコンポ。そして、壁にはマホガニー調のアップライトピアノが静かに鎮座している。このスタインウェイのアップライトピアノは、前の家から持ってきた唯一のピアノで、かつては私の自室に置かれていたものだった。

 とてもきれいに整頓された空間。私はなんとなく落ち着かない気分にさせられつつ、ピアノの蓋にそっと触れてみる。

 私はもう、ピアノを弾いていない。大学の仲間とお遊びで組んでいたバンドは卒業後に解散し、弾かなくなって二年が過ぎた。

 弾かないことに慣れてきた矢先の帰省だ。あまり面白くはない。このピアノと同じ空間にいると心がざわざわするし。だけど、目下私に必要なのは睡眠だ。母の入院生活はまだ続く。私がここ地元に滞在する日々もまだ終わらない。

 観念して、クローゼットから布団を取り出して、敷く。敷き終わったそれに私は寝転んだ。

 就職をし、私の人生からはピアノが薄れていく。仕事もそれなりにやりがいはあったし、住んでいる土地もそこそこ気に入っていて、何の不足も無かった。

『あなたは私のようになるのよ。やっぱり、それが収まるところに収まるということよ』

 うちのピアノ教室に置いてもらえるかやっぱり相談しておくわね。今日の見舞いの帰り際、母はそう呟いた。

 母が私にかけた言葉を反芻する。そのたびに凪いでいた私の心がかき乱される。あれもこれも何もかも、この状況ですらも、私に対する母の恨みなのか。恨みだとしたら、いっそはっきり言ってほしい。恨みでないのなら、太刀打ちができない。

 私の母、竹富佐葉子はクラシックピアノ界隈では有名な教師だ。母が手掛けた生徒は優秀な人ばかりで国内外問わず演奏家として活躍しているし、母もまたピアノコンクールの理事として第一線を走り続けている。

 私は母の一人娘だ。けれども私は母のような実力は持っていない。大学からは音楽と何ら関係のない学部を選択し、就職先も建築事務所の事務職だった。

 ピアノの世界に生きる母と、母の理から外れた娘。
 けれども母の入院によってその境が崩れそうな、そんな予感がする。離れた場所で生きていたのに、必死で引いた境界はいとも容易く破られて、世界が溶け合いそうになっている。

 六年かけてゆっくりと、私は母を信じたのに。
 この数日であっさりと、母は私を裏切った。
1/9ページ
スキ