行き止まりの道に音楽は鳴らない
■ □ ■ □ ■
荷物を整理しに戻ってきなさい。と、母から電話が入ったのは、ちょうど大学の後期テスト期間の最終日だった。二日後の今日、私は新幹線に乗って実家に戻ってきていた。半年前の夏休み以来だ。
「あなた、今回は結構派手な髪にしてるのね。ピンク色?」
実家に着いて私がリビングに荷物を下ろすなり、母は私の横髪をかき上げながら言った。意外だ、とばかりに眼差しが訴えかけている。
「ママこそ派手めじゃない? ベージュ、じゃないな。金髪?」
「グレイヘアに移行する間はブリーチしつついろんな色にできるってのでいろいろ試してるのよ。どう? 似合うでしょ」
「まだ見慣れないけど、似合ってるよ」
「ありがと、あなたも似合ってるわよ」
母は満足げに言った。実際、軽やかな印象の髪色は母に似合っていて、黒染めしていたときより今の金髪のほうがなんとなく母らしい。しゃがみ込んで床に置いたキャリーバッグを開きながら、そんなことをぼんやりと思う。
同門の先生たちと数年前から共同運営しているピアノ教室での指導に専念すると決めた昨年秋からの、母の行動は速かった。私が大学進学で家を出たため、実家の広さをもて余しているからと単身世帯向けマンションに住み替えすることを母は決めた。昨年の大きな台風で、山の斜面に建つこの家の電気やガスといったライフラインが数日止まり、すぐ脇の斜面が大雨で削られて土砂崩れ寸前になったことも、母の決断を促したようだった。還暦を過ぎて一人で暮らす母の安全を思えば、私も賛成だった。
家財道具を売ったり人に譲ったりして、着実に家の中はさっぱりとしていく。教室のピアノも、一台は新居に、もう一台は生徒さんに譲ることが決まっていた。私のものも例外なく、服や家具はすでにあらかた母の手で処理されている。自分で確認してからにしたいと頼んでいた本や雑貨類を、私は今回処分しに帰ってきたのだった。
お土産の薄焼きパイ一箱をダイニングテーブルに置く。残りの二箱はそれぞれ、雪歩先生と村川さんの分だ。二人とは帰省中に会う約束をしていた。メールや電話で元気にしているのは知っているけど、会うのは久しぶりだ。
キャリーバッグを閉じる。立ち上がって伸びをすると、私は二階の自室へと向かうべく階段を上がる。
かつての自室のドアを開けると、果たして、部屋の中は至極さっぱりとしていた。
そこにあったベッドや学習机はすでになく、本棚の中身は段ボールに移されてクローゼットに収められていた。レースのカーテン越しに窓から差した光が薄ピンク色の壁を柔らかく照らしている。八畳ほどの広さの、かつての私の小さな城。
すっきりと、潔く、なにもない部屋だ。――壁際に置かれた、アップライトピアノを除いては。
かすかに残る思念の残滓をたどるように、ゆっくりとピアノに近づく。そして、深呼吸をして、ピアノに向き合った。
ピアノは手入れされているのか、埃が積もっているわけでもなく、それどころか綺麗にワックス掛けまでされていた。鍵盤の蓋を開けると、見慣れた象牙鍵盤が目に入る。
「それ、引き取らない?」
振り返ると、ドアにもたれ掛かるようにして母が立っていた。
「あなたのアパートにもアップライトくらいは置けるんじゃない?」
「どうだろう。私が引き取らなかったら、売る?」
この部屋の中では私にとって一番思い出深い品だ。処分されてしまうことに惜しい気持ちはある。しかし今住んでいるアパートはワンルーム。スペース的にも防音的にもピアノは置けない。すでにキーボードもあるし。
ところが「いや。清葉が持っていかないなら新居に持っていく」と母は言った。
「清葉が持っててくれるなら嬉しいなと、思っただけ」
母は目を伏せた。
……息が、詰まりそうになる。
「そっか」私は笑った。まさかあ。なんて言葉は飲み込んで。
「アップライトピアノだけじゃないわ。一階の教室にあるグランドピアノも、楽譜も。この家も、私の作ってきた人脈も。清葉が教室を継いでくれるなら、全部全部、渡したのに」
「まあでも私、継げないからさ」
私は実家から離れ、遠い場所で大学生活を送っている。今のところ音楽は手放せなかったが、それは大学のサークルのバンド活動としてであって、クラシックピアノからは縁遠くなってしまった。学部の専攻も、音楽とはまったく関係ない。
私が進路を決めたとき、母は、清葉のやりたいようにやりなさいと、ただそう言っただけだった。反対されるでもなく、理由を問いただされるわけでもなく、静かに母は受け止めた。そう、思っていた。
「ママのこと、恨んでくれていいのよ」
母は言う。寂しげに、愁いを帯びた顔で。
……ああ。こんなのって、今さらだ。
離れた数年で、母もいろいろ考えたのかな。落胆はない。怒りも、衝撃もない。でも、昔の私にこそ欲しかった言葉だ。そう言ってもらえてたら、私はあんな苦しい思いをせずにいられたかもしれないのに。
――だけど。
「……恨まないよ」
喉が渇く。私は声を絞り出す。
「恨んでなんかない。そりゃあ、悩んだ時期はあったけど。恨みとかじゃないんだよ。恨んでなんかなくて……。ただ」
私と母は違う世界に生まれて、違う世界を歩いていく。それだけの話だ。
母の望み、かつての私の夢。無くなってしまった今、寂しい気持ちはある。けれども。
「私は、ママのしたいようにしてほしい。私はピアノに一生懸命なママが好き。だから、ママのやりたいことを邪魔したくはない」
私はピアノの鍵盤の蓋を、再び閉じた。
「私は私で、自分の道を生きていくから」
母は無言で私を見つめていた。けど、やがて「ごめんね。ありがとう、清葉」と静かに頷いた。
「それより。しばらく泊まるけど」重くなった雰囲気を変えようと、明るい声を努めて出して話題も変える。「どこで寝ればいい? ベッドもこの部屋にないし」
「客間で寝るか、ここで寝るかのどちらかしらね。あ、でも、ここで寝るなら客間から布団持ってこなきゃ」
「うーん。なら、ここで寝ようかな」
「了解。じゃあ、持ってくるわ。ちょっと待ってて」
母は階段を下りていく。
私は、窓辺に立った。
窓の鍵を開けて、磨りガラスを横に滑らせる。夕暮れに差し掛かってにわかに赤みを帯びてきた冬の空が、目の前に現れる。
見上げてみれば、変わらず広い空が見える。その下には、環状線が横一直線に通っていて、さらにそこからたくさんの道路が広がっている。遠くの街まで行ける道。
私はなにをして生きていくのか。まだ、分からないままだ。
でも、私は信じてみる。
やりたいことは世界のどこかにあること。世界は広くて、道は果てしなく続く。
続くのだ――――――――
荷物を整理しに戻ってきなさい。と、母から電話が入ったのは、ちょうど大学の後期テスト期間の最終日だった。二日後の今日、私は新幹線に乗って実家に戻ってきていた。半年前の夏休み以来だ。
「あなた、今回は結構派手な髪にしてるのね。ピンク色?」
実家に着いて私がリビングに荷物を下ろすなり、母は私の横髪をかき上げながら言った。意外だ、とばかりに眼差しが訴えかけている。
「ママこそ派手めじゃない? ベージュ、じゃないな。金髪?」
「グレイヘアに移行する間はブリーチしつついろんな色にできるってのでいろいろ試してるのよ。どう? 似合うでしょ」
「まだ見慣れないけど、似合ってるよ」
「ありがと、あなたも似合ってるわよ」
母は満足げに言った。実際、軽やかな印象の髪色は母に似合っていて、黒染めしていたときより今の金髪のほうがなんとなく母らしい。しゃがみ込んで床に置いたキャリーバッグを開きながら、そんなことをぼんやりと思う。
同門の先生たちと数年前から共同運営しているピアノ教室での指導に専念すると決めた昨年秋からの、母の行動は速かった。私が大学進学で家を出たため、実家の広さをもて余しているからと単身世帯向けマンションに住み替えすることを母は決めた。昨年の大きな台風で、山の斜面に建つこの家の電気やガスといったライフラインが数日止まり、すぐ脇の斜面が大雨で削られて土砂崩れ寸前になったことも、母の決断を促したようだった。還暦を過ぎて一人で暮らす母の安全を思えば、私も賛成だった。
家財道具を売ったり人に譲ったりして、着実に家の中はさっぱりとしていく。教室のピアノも、一台は新居に、もう一台は生徒さんに譲ることが決まっていた。私のものも例外なく、服や家具はすでにあらかた母の手で処理されている。自分で確認してからにしたいと頼んでいた本や雑貨類を、私は今回処分しに帰ってきたのだった。
お土産の薄焼きパイ一箱をダイニングテーブルに置く。残りの二箱はそれぞれ、雪歩先生と村川さんの分だ。二人とは帰省中に会う約束をしていた。メールや電話で元気にしているのは知っているけど、会うのは久しぶりだ。
キャリーバッグを閉じる。立ち上がって伸びをすると、私は二階の自室へと向かうべく階段を上がる。
かつての自室のドアを開けると、果たして、部屋の中は至極さっぱりとしていた。
そこにあったベッドや学習机はすでになく、本棚の中身は段ボールに移されてクローゼットに収められていた。レースのカーテン越しに窓から差した光が薄ピンク色の壁を柔らかく照らしている。八畳ほどの広さの、かつての私の小さな城。
すっきりと、潔く、なにもない部屋だ。――壁際に置かれた、アップライトピアノを除いては。
かすかに残る思念の残滓をたどるように、ゆっくりとピアノに近づく。そして、深呼吸をして、ピアノに向き合った。
ピアノは手入れされているのか、埃が積もっているわけでもなく、それどころか綺麗にワックス掛けまでされていた。鍵盤の蓋を開けると、見慣れた象牙鍵盤が目に入る。
「それ、引き取らない?」
振り返ると、ドアにもたれ掛かるようにして母が立っていた。
「あなたのアパートにもアップライトくらいは置けるんじゃない?」
「どうだろう。私が引き取らなかったら、売る?」
この部屋の中では私にとって一番思い出深い品だ。処分されてしまうことに惜しい気持ちはある。しかし今住んでいるアパートはワンルーム。スペース的にも防音的にもピアノは置けない。すでにキーボードもあるし。
ところが「いや。清葉が持っていかないなら新居に持っていく」と母は言った。
「清葉が持っててくれるなら嬉しいなと、思っただけ」
母は目を伏せた。
……息が、詰まりそうになる。
「そっか」私は笑った。まさかあ。なんて言葉は飲み込んで。
「アップライトピアノだけじゃないわ。一階の教室にあるグランドピアノも、楽譜も。この家も、私の作ってきた人脈も。清葉が教室を継いでくれるなら、全部全部、渡したのに」
「まあでも私、継げないからさ」
私は実家から離れ、遠い場所で大学生活を送っている。今のところ音楽は手放せなかったが、それは大学のサークルのバンド活動としてであって、クラシックピアノからは縁遠くなってしまった。学部の専攻も、音楽とはまったく関係ない。
私が進路を決めたとき、母は、清葉のやりたいようにやりなさいと、ただそう言っただけだった。反対されるでもなく、理由を問いただされるわけでもなく、静かに母は受け止めた。そう、思っていた。
「ママのこと、恨んでくれていいのよ」
母は言う。寂しげに、愁いを帯びた顔で。
……ああ。こんなのって、今さらだ。
離れた数年で、母もいろいろ考えたのかな。落胆はない。怒りも、衝撃もない。でも、昔の私にこそ欲しかった言葉だ。そう言ってもらえてたら、私はあんな苦しい思いをせずにいられたかもしれないのに。
――だけど。
「……恨まないよ」
喉が渇く。私は声を絞り出す。
「恨んでなんかない。そりゃあ、悩んだ時期はあったけど。恨みとかじゃないんだよ。恨んでなんかなくて……。ただ」
私と母は違う世界に生まれて、違う世界を歩いていく。それだけの話だ。
母の望み、かつての私の夢。無くなってしまった今、寂しい気持ちはある。けれども。
「私は、ママのしたいようにしてほしい。私はピアノに一生懸命なママが好き。だから、ママのやりたいことを邪魔したくはない」
私はピアノの鍵盤の蓋を、再び閉じた。
「私は私で、自分の道を生きていくから」
母は無言で私を見つめていた。けど、やがて「ごめんね。ありがとう、清葉」と静かに頷いた。
「それより。しばらく泊まるけど」重くなった雰囲気を変えようと、明るい声を努めて出して話題も変える。「どこで寝ればいい? ベッドもこの部屋にないし」
「客間で寝るか、ここで寝るかのどちらかしらね。あ、でも、ここで寝るなら客間から布団持ってこなきゃ」
「うーん。なら、ここで寝ようかな」
「了解。じゃあ、持ってくるわ。ちょっと待ってて」
母は階段を下りていく。
私は、窓辺に立った。
窓の鍵を開けて、磨りガラスを横に滑らせる。夕暮れに差し掛かってにわかに赤みを帯びてきた冬の空が、目の前に現れる。
見上げてみれば、変わらず広い空が見える。その下には、環状線が横一直線に通っていて、さらにそこからたくさんの道路が広がっている。遠くの街まで行ける道。
私はなにをして生きていくのか。まだ、分からないままだ。
でも、私は信じてみる。
やりたいことは世界のどこかにあること。世界は広くて、道は果てしなく続く。
続くのだ――――――――
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