行き止まりの道に音楽は鳴らない
「恥も外聞もなく、居残り続けたせいで。みんなが迷惑していて……」
「違うわ。清葉ちゃん、それは違う」
ふう、と短く息をつく雪歩先生。
「三十年以上わたしは伊崎一門でいろんな人を見てきたわ。教室で鍛え上げられた人たちは華々しい活躍をしている。でも、成功する人よりやめる人が遥かに多い。ここは過酷なところで、立ち直れなくなるくらい身も心もぼろぼろになる人も多い。とってもね。……まるで、出会った頃の清葉ちゃんみたいに」
言葉を選ぶように。雪歩先生はゆっくりと語りかけてくる。
「清葉ちゃんはお母さんが佐葉子先生っていう一門でもトップクラスの実力で、かつ屈指のシビアさを持つ先生に最初から関わらざるを得なかったし。佐葉子先生クラスになるとある程度他の教室で育ってきた選りすぐりの優秀な子たちが、次のステップアップのために通うとしてそれって、清葉ちゃんの中でふかーい刷り込みになっているんじゃないかなって、わたしは思うの」
「刷り込み、ですか」
「うん。刷り込み」
水色のハンカチを握った雪歩先生の左手が伸びて、熱を持った私の目許を拭った。優しく柔らかなその感触。
お皿を下げに来た店員さんが、私の顔を見て少しビックリしたようだった。けれど、なにも言わずに去っていった。テーブルの上がこざっぱりとする。
「……私は、母の跡を継ぐために生まれてきたようなものです。そうだと、思ってます」
乾いてひりつく喉に、コーヒーをゆっくりと流し込む。コーヒーはすっかり温くなっていた。
「ですので……これが刷り込みなら、私は、今まで何のためにしんどい思いをしてきたのでしょうか」
ピアノを弾くことに疑いを持つことは、高校受験の頃までなかった。道を外れようとする今にあっても、ピアノは自分から切り離すことのできないものだ。
――本当に? 本当にそうなのか?
「コンクールが終わったら言わなきゃ~と思って、清葉ちゃんに一つ内緒にしてたことがあってね」
雪歩先生は私のものと同じく温くなっているであろうコーヒーにミルクを入れて一口飲んでから、こう話を切り出してきた。
「実は、今年の秋から一ヶ月のレッスン日を減らして教室を縮小することにしたの」
「……っ。それは、私が不甲斐な……、いえ、どうしてでしょうか」
「清葉ちゃんはさ、音楽療法って知ってる?」
「音楽を使うリハビリテーション、というくらいしか」
「そう、それのことね~。音楽療法士って資格もあってね、その資格を取ったのよ。そこから縁もあって、病院で働くことが決まってね」
「なるほど。病院関係にも一門のつながりがあるんですね」
「ううん、そうじゃないわ。資格を取るために通ってたスクールからのご縁で、全然関係ないところからよ」
「え……」
我ながら呆けた声が出る。「ならなおさら、どうしてですか」
怖くないのだろうか、雪歩先生は。クラシックピアノの世界で芽が出る生徒が手元にいないこと。一門の本流から外れていくこと。自分から、一門での存在を希薄にしようとすることは。
「偉そうに言ったけど、刷り込みをされているのはわたしも一緒なのよね~。精神を削り痩せ細らせて、死にそうな顔しながら弾いている子たちがいて。それを見て、別の道を探してみたくなって」
「別の、道」
「清葉ちゃんは」一拍置かれる。「お母さんの人生を背負う必要はないのよ」
――それは、思いがけない言葉だった。
「清葉ちゃんのピアノは清葉ちゃんのためにあるんだから」
雪歩先生はにっこりと微笑む。
「他のことをやるためにやめたっていい。バンドをやったっていいし、音楽療法士なんてものもある。あくまでもクラシックピアノを続けたいなら私のところにいてもいいし、音大に行きたいって思うのなら、ここ関東だけじゃなくて、関西にも九州にもどこだってある。音楽をやりたいのならギターもドラムもいろいろ、楽器はたくさんある。今言ったこともほんのちょっとの例でしかないわ。やれることはいっぱいいっぱいある」
「母は跡取りがいなくなって困っているのに。私が楽しんでいいのでしょうか」
「清葉ちゃんは清葉ちゃん。お母さんはお母さんよ。清葉ちゃんがいないならいないで考えてると思うわ。大人なんですもの」
肩をすくめる雪歩先生。あっけらかんとしたその言い様。
黙りこんだ数十秒を、BGMとして流れるカンツォーネが埋めていく。不安の闇に包まれた心の中に小さな光が差すみたいに、ギターとバリトンボイスが頭に響く。
「清葉ちゃんの前に未来はいっぱいあるんだよ。ピアノを使うにしても、使わないにしろ」
「未来……」
「うん。未来。清葉ちゃんがやってみたいこと、いっぱいチャレンジしてみてほしいな。それが、わたしの願い」
わたしも頑張るから、お互いになんとか頑張ってみましょう~。と、雪歩先生ははにかんだ。
テーブルの上に置いた拳をぐっと握る。やりたいこと。私の、やりたいこと。あるだろうか。見つけられるだろうか。
ピアノを弾かない自分になにが残っているのか。一からなにを作り上げていけるだろうか。音楽はしんどくなるだけだろうか。楽しくなれるだろうか。まったく分からない。
――分からないけど……今のままではいたくない。この気持ちを逃がしたくない。
「私にも、見つけられるでしょうか。自分のやってみたいことを」
「絶対できるわよ。だって、わたしの自慢の生徒さんだもの」
雪歩先生は両手で私の右手を包み込んだ。その温かさに、私の目からはまた涙が溢れだした。
「違うわ。清葉ちゃん、それは違う」
ふう、と短く息をつく雪歩先生。
「三十年以上わたしは伊崎一門でいろんな人を見てきたわ。教室で鍛え上げられた人たちは華々しい活躍をしている。でも、成功する人よりやめる人が遥かに多い。ここは過酷なところで、立ち直れなくなるくらい身も心もぼろぼろになる人も多い。とってもね。……まるで、出会った頃の清葉ちゃんみたいに」
言葉を選ぶように。雪歩先生はゆっくりと語りかけてくる。
「清葉ちゃんはお母さんが佐葉子先生っていう一門でもトップクラスの実力で、かつ屈指のシビアさを持つ先生に最初から関わらざるを得なかったし。佐葉子先生クラスになるとある程度他の教室で育ってきた選りすぐりの優秀な子たちが、次のステップアップのために通うとしてそれって、清葉ちゃんの中でふかーい刷り込みになっているんじゃないかなって、わたしは思うの」
「刷り込み、ですか」
「うん。刷り込み」
水色のハンカチを握った雪歩先生の左手が伸びて、熱を持った私の目許を拭った。優しく柔らかなその感触。
お皿を下げに来た店員さんが、私の顔を見て少しビックリしたようだった。けれど、なにも言わずに去っていった。テーブルの上がこざっぱりとする。
「……私は、母の跡を継ぐために生まれてきたようなものです。そうだと、思ってます」
乾いてひりつく喉に、コーヒーをゆっくりと流し込む。コーヒーはすっかり温くなっていた。
「ですので……これが刷り込みなら、私は、今まで何のためにしんどい思いをしてきたのでしょうか」
ピアノを弾くことに疑いを持つことは、高校受験の頃までなかった。道を外れようとする今にあっても、ピアノは自分から切り離すことのできないものだ。
――本当に? 本当にそうなのか?
「コンクールが終わったら言わなきゃ~と思って、清葉ちゃんに一つ内緒にしてたことがあってね」
雪歩先生は私のものと同じく温くなっているであろうコーヒーにミルクを入れて一口飲んでから、こう話を切り出してきた。
「実は、今年の秋から一ヶ月のレッスン日を減らして教室を縮小することにしたの」
「……っ。それは、私が不甲斐な……、いえ、どうしてでしょうか」
「清葉ちゃんはさ、音楽療法って知ってる?」
「音楽を使うリハビリテーション、というくらいしか」
「そう、それのことね~。音楽療法士って資格もあってね、その資格を取ったのよ。そこから縁もあって、病院で働くことが決まってね」
「なるほど。病院関係にも一門のつながりがあるんですね」
「ううん、そうじゃないわ。資格を取るために通ってたスクールからのご縁で、全然関係ないところからよ」
「え……」
我ながら呆けた声が出る。「ならなおさら、どうしてですか」
怖くないのだろうか、雪歩先生は。クラシックピアノの世界で芽が出る生徒が手元にいないこと。一門の本流から外れていくこと。自分から、一門での存在を希薄にしようとすることは。
「偉そうに言ったけど、刷り込みをされているのはわたしも一緒なのよね~。精神を削り痩せ細らせて、死にそうな顔しながら弾いている子たちがいて。それを見て、別の道を探してみたくなって」
「別の、道」
「清葉ちゃんは」一拍置かれる。「お母さんの人生を背負う必要はないのよ」
――それは、思いがけない言葉だった。
「清葉ちゃんのピアノは清葉ちゃんのためにあるんだから」
雪歩先生はにっこりと微笑む。
「他のことをやるためにやめたっていい。バンドをやったっていいし、音楽療法士なんてものもある。あくまでもクラシックピアノを続けたいなら私のところにいてもいいし、音大に行きたいって思うのなら、ここ関東だけじゃなくて、関西にも九州にもどこだってある。音楽をやりたいのならギターもドラムもいろいろ、楽器はたくさんある。今言ったこともほんのちょっとの例でしかないわ。やれることはいっぱいいっぱいある」
「母は跡取りがいなくなって困っているのに。私が楽しんでいいのでしょうか」
「清葉ちゃんは清葉ちゃん。お母さんはお母さんよ。清葉ちゃんがいないならいないで考えてると思うわ。大人なんですもの」
肩をすくめる雪歩先生。あっけらかんとしたその言い様。
黙りこんだ数十秒を、BGMとして流れるカンツォーネが埋めていく。不安の闇に包まれた心の中に小さな光が差すみたいに、ギターとバリトンボイスが頭に響く。
「清葉ちゃんの前に未来はいっぱいあるんだよ。ピアノを使うにしても、使わないにしろ」
「未来……」
「うん。未来。清葉ちゃんがやってみたいこと、いっぱいチャレンジしてみてほしいな。それが、わたしの願い」
わたしも頑張るから、お互いになんとか頑張ってみましょう~。と、雪歩先生ははにかんだ。
テーブルの上に置いた拳をぐっと握る。やりたいこと。私の、やりたいこと。あるだろうか。見つけられるだろうか。
ピアノを弾かない自分になにが残っているのか。一からなにを作り上げていけるだろうか。音楽はしんどくなるだけだろうか。楽しくなれるだろうか。まったく分からない。
――分からないけど……今のままではいたくない。この気持ちを逃がしたくない。
「私にも、見つけられるでしょうか。自分のやってみたいことを」
「絶対できるわよ。だって、わたしの自慢の生徒さんだもの」
雪歩先生は両手で私の右手を包み込んだ。その温かさに、私の目からはまた涙が溢れだした。