ラプソディーには早すぎた
時刻はまもなく正午。私は昇降口に立っている女生徒にチケットを渡して校舎に入る。
アトリウムのガラス天井を見上げればお手本みたいな秋晴れ。まさに最高の文化祭日和だ。人の行き交う吹き抜け空間で、私は賑わいを避けるようにそっと隅のベンチに腰掛けた。
色とりどりのポロシャツ。お菓子片手に談笑する生徒や来客たち。腕章をしてせわしなく行ったり来たりしているのは実行委員だろうか。浴衣は茶道部だったはず。放送委員会のラジオだろう、スピーカーから聞こえてきたミュージカル調のメロディー。私のときもこんなに賑やかだったっけ。半強制的に記憶を引き出してみるも、おぼろげなものしか思い出せない。うん、そうだね。私、大したことはしてなかった。遊ぶような友だちもなかった。自業自得とはいえ悲しい。
もしも、高校時代に戻れたら何をしようか。部活に入ったり、アルバイトしてみたり、カラオケ行ったり買い物行ったり。とにかく友だちを作りたいな。今になって枷になっているコミュニケーション力などを改善したい。
後悔なんて星の数ほどある。……それでも結局、私はあの道を選んで行き止まりまで進むのだろうけど。人を傷つけ、自分を過信しながら、挫折するまで鍵盤に向かい続ける。
ミュージカルやります! と宣伝する生徒たちが列をなし、歌いながら私の前を過ぎていく。衣装可愛いけど何の演目かわからないな。と思っていたら、最後尾の子からチラシをもらってしまった。ウェスト・サイド・ストーリーか。十パーセント以下の確率で気が向いたら行くね。心が狭くて申し訳ない。
チラシを紙飛行機にしたところで壁時計が高らかに鳴る。昇降口に目を向けると見慣れた人物がひとり、私に手を振り駆け寄ってくるのに気がついた。私も手を挙げる。
「ごめん! 部活に顔出ししてたら、遅くなった!」
わざわざ走ってきてくれたのだろうか。彼の息は荒い。
「いや? 私も今来たところだし、そもそも待ち合わせ時間ジャスト」
「ならいいんだけど……ところでさ、瑠璃。お腹空いてない?」
「そこそこ。この時間混んでるかなとも思ったんだけど、そうだね。何か食べてから回ろうか」
「うん」
彼は――東屋くんは、頬を掻きつつはにかんだ。
「瑠璃はどう? 最近」
「ぼちぼちかな。先輩社員から言われたことしかやってないけど」
「一年目はそんなものだよ。俺もそうだった」
校内を一周し、今再びのアトリウム。文化祭、大変に賑やかでよかったのではないだろうか。そこそこ楽しめたし。なお、昼ご飯はたまたま休憩用に解放されていた教室で取ってきた。現在は終了の時に近づく景色を、東屋くんと二人してベンチから眺めている。帰ってもいいのだけれど、久々の母校の空気をもう少し味わいたかったから。
「にしても装飾豪華だし食品の出店多くなってたし、私たちの代よりお金かかってる気がしない?」
「ああ、実際予算多いってさ。生徒会の子が言ってた」
「へぇ。その生徒会にしろ何にしろ、移動の先々で女子高生にもててたではないですか」
「語弊があるよ? 一昨年だけど、実習に行ったからね。覚えられてるとやっぱり嬉しいものだね」
「鼻の下伸ばしてたもんね」
「誤解だ」
「何の教科だったっけ」
「世界史」
「ふぅん」
きっといい先生だったんだろう。東屋くんに話しかけた女子高生たちの反応を見た感じ、想像に難くない。
「先生、ねえ。向いてそうなのに」
「そうかな。実習中に音を上げて、結局資格取るだけ取ってならなかったし。どっちかというと君のほうが向いてそう。意外と」
「嘘をつけ」
「ちょ、くすぐったい」
半袖から覗く東屋くんの二の腕を掴んで、揉む。がっちりしている。ラグビー部として活躍していた高校時代に比べればボリュームダウンしたものの十分だ。維持できているのは今もトレーニングを続けているからだろう。やめたらすぐ鍛える前に戻るものだし。私みたいにね。「くすぐったいってば!」散々困り顔を堪能し気が済んだところで、手を放してやる。
「教師か……。今だから言うけどさ、瑠璃は先生になるんじゃないかって本気で思ってたときもあったよ」
「私が? 音楽教師?」
「それ以外にある?」
あくまでも仮定としてね、と東屋くんは声を潜める。口に出したはいいがやっぱり聞きづらいんだろう。だけども気になると。まあ普段の私なら答えないだろうな。普段ならね。
「大学の専攻から考えれば政経倫理も多分取れなくはなかったけど」私は大きく息を吐く。「ないね。私はピアニストにしかなりたくなかった。それか、自分が習ってきた先生に並び立つくらいの実力を持った先生」
朝方の夢でも再確認したことである。元永瑠璃《わたし》がなりたかったのはあくまでも『ピアニストもしくはそれに準ずる存在』だ。雑事に追われ自分の鍛錬がおろそかになりそう、かつ、必要以上に人と接したくなかったから、音楽教師を目指そうという思いは挫折前も後も湧かなかった。この選択に関しては現在も後悔はない。私が後悔しているのは、もっともっと前の時点だ。
ひう、と喉が乾いた呼吸音を立てる。
「なんだかタイムリーな話。今朝、高校のときの夢を見たの。東屋くんも出てきたよ」
「そうなんだ」
「不思議だけどね、昔あった出来事に今の私がいるだけっていう。もしも成功していたら、って流れにはならなかったんだよね。自分がクズで痛かったのをリプレイしただけだった」
私は隣の彼に向き直り、頭を下げる。
「高校時代は東屋くんに多大なるご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」
「えっ? あーいえいえ。俺こそ、うざがられるところ今日まで縁が続いているのは嬉しいことです。噛みつかれたときはまじで痛かったし相当びびったけど」
「本当に申し訳ございませんでした。……で、音楽はどうなのって話に補足だけど。同世代で比べれば上手い部類にいた自信はあるよ。けど」
丸めた指先を見つめる。指先の肉よりはみ出る爪。指に気を留めることがなくなったのはいつからだろう。成長を自ら止めてしまったのはなぜだっただろう。周囲を敵に仕立て上げ、耳を塞ぎ、孤立を選んでしまったのはどうしてだろう。理由はとうに、分かっている。
「私は、自分を過信して自滅したんだと思う」
さっきチラシで作った紙飛行機を鞄から出し、飛ばす。真っすぐ飛ぶだろうという予想に反してくるくると舞い上がったかと思うと、急降下、ゴミ箱に入った。
私のピアノに対する過信は中学から高校に上がるころから酷くなった。高校生になってまでコンクール受ける人は音大を目指す人ばかりだから、コンクール自体がハイレベルになり、中途半端でもそれなりに受かった中学生気分のまま臨んではいけない。そもそも、本当に上手い子は小学生でも高校生の部で飛び級入賞したり、さっさとヨーロッパやアメリカに留学したりする。『高校生で入賞できなきゃ音大や演奏家は無理だ』って先生にも口酸っぱく言われたじゃないか。こんな簡単なこと、当時の私も知っていたはずなのにな。聞く耳を持てなかった。いや、知っていたけど、自分はまだ伸びるから大丈夫だと思った。根拠もないのに、思ってしまった。
「やり直せるなら小学生まで戻ってピアノ、弾きたいなあ。東屋くんや矢須さんたちとわいわいソルフェージュやったり連弾やったりしてるころが一番楽しんでたかも。本当、いつからだろうね。純粋に向き合えなくなったの」
眉を寄せる東屋くん。止めどなく私の口からあふれ出る言葉。これも、これまでにないほどあんなに鮮明な夢をみてしまったからだろう。
「ピアノは、嫌い?」
「ピアノ自体は嫌いじゃないよ。だけど、音が聞こえてくるとつらい。私のほうが上手く弾けた、とか、羨ましいなとか憎いなとか。負のエネルギーに満ちたことばっかり考えちゃってさ」
「だからか。音楽室の前でミュージカルに客引きされたとき無視決め込んだのは」
「そういうこと。そのくせ鍵盤に触れると震えが来るというね。自分は上手く弾けない。今更何したって認めてももらえない」
いったん言葉を切る。いい加減しゃべりすぎたかな、困らせてないかなって。頭一つ分高い隣の彼を仰ぐ。力強く頷かれた。ならばもう少し、しゃべらせてもらおう。
「大学入った直後くらいかな。鍵盤に触れるたびに、自責するの。こうなったのは誰のせいだ。報いてくれなかったピアノに向かう意味はあるのか? 考えだしたら肩に力が入って、胃がキリキリして。弾けない。……四年が経つのか。バイトだ大学だって逃げて、弾かなくなってから」
ピアノを直視できなくて、逃げて逃げて。逃げるうちに、いつの間にか普通の手になってしまった。ピアノを弾く人の指先は爪に覆い被さるように肉が巻いている。爪よりも指先の肉のほうが出ているのだ。高校までは私もそうだったのだけど、もちろん今は。
情けないなあって、溜め息を何度吐いたか知らない。しかし、自分の中でもまだ整理が付かないのだ。『頑張ったのに裏切られた』ついつい、こんな風に捉えてしまって。逆恨みにもほどがあるね。分かってはいるけどどうにもできずにいる。
「あーあ。才能があったらなあ」
「瑠璃、すごく上手かったよ」
「うーん。私が言ってるのは上位層に食い込めるような、食うのに不自由しないレベルの才能。それと頭の良さ。勉強面だけじゃなく、人の意見を受け止められる素直さとかね。結果としてピアノやめて、勉強おろそかにしてたせいで浪人する羽目になって、進学で親元離れて、経済学部出て事務やってるような、まあまあどこにでもいそうな勤め人になったことは嫌だと思わない。むしろ幸せな人間だろうけど」
今なら、今だから、青春の思い出深いこの場所だから、東屋くんだから、ようやく口に出せる。腹に力を入れて声を出そうと思えた。
「やっぱり、ピアノで食べたかった。夢にも出てきたけど、昔さ、負け犬どうこうって失礼な言葉吐いたよね。……本当の負け犬は私だよ。しかも自分に負けたという無様な、ね?」
私は笑う。対する東屋くんはふっと笑顔を消した。頭が重く痛み出す。そして、言いようのない熱が頭までふつふつと。
「ちょっと。笑ってくれたっていいじゃない。ここまで告白するの初めてなんだから」
「泣いてる相手に、笑えないよ」
「えっ? ……えっ?」
正面にある顔がにじんで見える。瞬きするたびに頬を生温い水分が伝う。
「えっ、なにこれ、えっ? 涙止まんない、知り合いに見られかねないし、人の往来があるところで泣くとか、えっ、ごめん」
「大丈夫だよ。止める必要なんかない」
差し出されたハンカチを受け取って目頭を拭う。しばらく止まりそうにない。
呼吸に合わせるように、東屋くんは私の背中をさすりだす。大丈夫、大丈夫。子どもを宥めるような低い声は心地よく、徐々に私の呼吸は整っていく。
スピーカーからの声が途切れ、ヴィヴァルディが流れ出した。在学時と変わらない閉祭の合図。プロの演奏家たちによる優美なメロディーの盛り上がりに合わせるように、昇降口へと向かう人々の流れが増していく。
「ピアノにしてもスポーツにしても、君と違って頂点を見たことないやつが言うと嫌な気分にさせてしまうかもしれないけどさ」
こうして周囲を観察できるほどの落ち着きを取り戻したころ、東屋くんはこう切り出した。
「瑠璃はめちゃくちゃ上手かったよ。途中でやめた俺と違ってずっと努力してて、ずっと尊敬してた」
「本当に上手かったら、有名かどうかは置いとくにしてもプロになってるってば。プロでも食えるとは限らないってのも聞き飽きたからね」
「それはそうなんだけど、ええと、なんていうかな」
腕組みして黙りこまれてしまった。私は大人しく口をつぐんで続きを待つ。どんなことを言われても、今日なら受け止められそうだから。
「聴けなくなったのが俺としては純粋に悲しいんだ。めちゃくちゃ悲しい。自分を卑下したり、あんなに上手くなったのに弾かなかったりが、かなりもったいなく思えて」
そっと包み込まれるように、膝に置いた私の右手に大きな手が被さった。初心かというくらいにかあっと、頬が熱くなる。
「俺はもう一回聴きたいな。ピアノ」
「……下手だよ?」
「そりゃあそうだろうね。四年も弾いてないから。すぐに弾けないのは承知だよ。プライド的には堪えるだろうけど、簡単なソナタをまたやってみるとか、いっそ新譜を引っ張ってくるとかしてみたらどう?」
「下手って、私が言ったのはそういう意味ではなくて」
「大丈夫、分かってるよ。でも、もう誰かと競い合う必要はなんてない。ちゃんと瑠璃も分かってるでしょ? ピアノは弾いて楽しい、聴いてもらって楽しいって原点に戻っていい。……戻って欲しいって、俺は瑠璃がピアノやめた高三のときから、ずっと思ってた」
十何年間かけて築き上げた発想を全部転換しなきゃいけないからエネルギーも時間もめちゃくちゃ必要だろうけどね、と東屋くんは微笑んだ。
頭の中を重たいものがぐるぐる回り出す。私がまた、ピアノを弾く? おなかが痛みだす。ピアノを弾く。認められなかった私が、また。認めてもらうため? 誰に? 先生? 教室の子たち? ……ああ、分かり切ったことじゃないの。
「ピアノを弾く自分そのものを、純粋に認めてあげるのか」
夢で再会した私は『人より上手くなければ弾く価値はない』と叫んだ。対する私がなぜ泣いたのか。それは『誰とも比べず、弾いてる私だけを見て認めて欲しかった』からなんだろう。幾度となく至っては無視し続けた結論がようやく実感を持ち、ぐるぐるが収まりすとんと、やっと心の深いところに落ちた。小さいけれど確かに明るい協和音が鳴った、そんな気がする。
では、認めるにはどうしたらいいか。それはもちろん、方法は一つだけ。……ピアノを弾くこと。それしかない。
「しかし、出来るかなあ。四年間逃げ続けたことに向き合って、凝り固まった考えを全部取っ払って。相当きついよ」
「きついね。でも出来るよ。君なら大丈夫。高校時代ずっと人の多い、うるさい、暑くて寒い、こんなに集中しづらい要素の詰まったここで頑張ってたんだから」
「関係ある? それ」
「要するに、君は強いってことが言いたいんですよ。強かったから受験も乗り切れたんじゃない?」
「受験は親にも言われたなあ。魂抜けたままフリーターになると思ったとか言われたことある。どうにかなってよかったよ。……でも私、強いのかなあ。まあいいや」
卒業後初めて舞い戻ってきたここ、アトリウム。疲れたときには吹き抜けのガラス天井を見上げるのが癖になっていたっけね。首を上に向ける。まだ日は高く、柔らかな光に私は目をしばたたかせた。ああ、いい天気だ。
「もしかしたら、素直で表情豊かになった今のほうが表現力上がってたりしてね」
「ほう?」
空いている左手で東屋くんの手をつねる。筋肉質だから効いている感じは皆無だけど。
「あーもー好き勝手簡単に言っちゃって」
「痛い痛い」
笑い合いながらお互い手を放す。
「陰険で暴言吐いたこともあるやつに対してもめげずに接し続けるとか、挙句好きだとか。ホントお人好しだよね東屋くん」
「そのお人好しに何度か助けられてる照れ屋は誰だろうね?」
「私ですね」
「にしても、また弾いてってさ、俺から何度も伝え続けて、やっと耳貸してくれたと思うのは気のせいかな」
「気のせいではないね。やっと大人になれた気がするよ。ねえ東屋くん」
「そろそろ下の名前で呼んでくれてもいいんじゃない。呼び方、かなり気まぐれだよね。付き合って長いんだから」
「恥ずかしいときとか改まりたいときとか、ついついね。……ねえ、敬太」
考えを変えるのって難しい。弾きながらつらくなるのは間違いないだろう。でも。決めた。
咳払いを一つ。私は差し出された敬太の手を握って、笑いかける。
「弾くの、まずはベートーベンでどうかな」
白状しよう。私はブランクというものをなめていた。
「あいたっ」
思わず確認した指先は全て赤く腫れていた。肩も心なしか痛い。演奏フォームに問題ありそうだ。背筋が伸びてないせいで余計なところに力が入っているのかもしれない。
休みということで、今日は朝から鍵盤に向かっている。しかしそろそろ体が限界を迎えつつあった。私は電子ピアノの電源を落とし立ち上がる。楽譜を本棚にしまい、まくっていたセーターの袖を下ろし、伸びをする。ぱきぽきと音が聞こえた。
私がピアノを再開してから来週で三ヶ月が経つ。ブラームスが無理なのは当然としても、ベートーベンのソナタに苦戦するのは予想外で、ブルグミュラー・ツェルニーなんていう小中学生御用達の練習曲集から弾き直す羽目になった。ブランクって恐ろしい。
けれどめげずに、平日仕事から帰宅した直後の三十分、休日の二時間程度の練習を続けるうちに、ようやく徐々に指が動くようになってきた。もちろん、昔の技量にはほど遠い。でも、昔より柔らかい音を出せるようになったみたいで、このまま練習続ければ表現の幅が広がるチャンスがありそうだ。ハノンピアノ教本の偉大さを今更ながら理解したおかげで、練習もはかどるし。
「まあ、すぐには弾けないけど。むしろ弾けたら昔の自分が怒りそう」
にしても、今日はすこぶる調子がいいな。勘違いしたくなるくらい。
一度は引っ込めた手をまた本棚に伸ばして、二冊を抜き取って譜面台に置いた。一冊は三ヶ月前に届いたコンクールの要項。もう一冊は、装丁がぼろぼろになっている灰色の楽譜。ブラームスのラプソディー。
悩んだけれど、結局要項はシュレッダーにかけることに決めた。機械に入れれば、あっという間に紙吹雪の出来上がり。
コンクール出場は、リハビリとしては荒療治過ぎる。『人と比べない』ことをルールにしたというのにこれでは本末転倒ではないか。コンクールを見据えるにしても、もう何年か時間をおきたい。
次に楽譜を手に取り、慎重にページをめくる。おびただしいほどの音符が殴りかかってくるようだと感じるのは、簡単な楽譜に見慣れたからだろう。鉛筆書きでかかれた楽語とコード名。訂正した跡もうっすらと残っていた。
偏った考えを持った挙げ句、取り組み方を間違えて失敗してしまった。悔いは今もあるし、きっと、この悔いはずっと消えないだろう。弾きながら、かつての考え方にとらわれて手が止まることもある。……けれど。
「精一杯、頑張ってたよね」
自分を認める。これがまた鍵盤に向かう第一歩だって、学んだから。
ぽとり。譜面に落ちた滴。急いでそばにあったティッシュでふき取る。ついでに自分の目頭も拭う。
譜面を確認すると、鉛筆で書いた部分が少しにじんでしまった。見づらくなってしまったかもしれない。ごめんなさい、と未来の自分に謝っておく。
今の私はまだ、ラプソディーを弾けるような腕前を取り戻せていない。でもそのうち。近いうちに、またあの曲を弾いてみせる。ドレスじゃなくワンピースでいい、大きなホールでなくていい。気負わずに、自分が楽しめるように、そして聴いた人を楽しませられるように。待ってくれている優しい人が、確実に一人いるしね。
窓の向こうを見る。曇り空に射しこむ一筋の光。雪の結晶を反射しているのだろうか、きらきらと空は輝いていた。
もう一度伸びをして、私はピアノの椅子に座り直す。
「さてと。練習再開しようか」
(完)
アトリウムのガラス天井を見上げればお手本みたいな秋晴れ。まさに最高の文化祭日和だ。人の行き交う吹き抜け空間で、私は賑わいを避けるようにそっと隅のベンチに腰掛けた。
色とりどりのポロシャツ。お菓子片手に談笑する生徒や来客たち。腕章をしてせわしなく行ったり来たりしているのは実行委員だろうか。浴衣は茶道部だったはず。放送委員会のラジオだろう、スピーカーから聞こえてきたミュージカル調のメロディー。私のときもこんなに賑やかだったっけ。半強制的に記憶を引き出してみるも、おぼろげなものしか思い出せない。うん、そうだね。私、大したことはしてなかった。遊ぶような友だちもなかった。自業自得とはいえ悲しい。
もしも、高校時代に戻れたら何をしようか。部活に入ったり、アルバイトしてみたり、カラオケ行ったり買い物行ったり。とにかく友だちを作りたいな。今になって枷になっているコミュニケーション力などを改善したい。
後悔なんて星の数ほどある。……それでも結局、私はあの道を選んで行き止まりまで進むのだろうけど。人を傷つけ、自分を過信しながら、挫折するまで鍵盤に向かい続ける。
ミュージカルやります! と宣伝する生徒たちが列をなし、歌いながら私の前を過ぎていく。衣装可愛いけど何の演目かわからないな。と思っていたら、最後尾の子からチラシをもらってしまった。ウェスト・サイド・ストーリーか。十パーセント以下の確率で気が向いたら行くね。心が狭くて申し訳ない。
チラシを紙飛行機にしたところで壁時計が高らかに鳴る。昇降口に目を向けると見慣れた人物がひとり、私に手を振り駆け寄ってくるのに気がついた。私も手を挙げる。
「ごめん! 部活に顔出ししてたら、遅くなった!」
わざわざ走ってきてくれたのだろうか。彼の息は荒い。
「いや? 私も今来たところだし、そもそも待ち合わせ時間ジャスト」
「ならいいんだけど……ところでさ、瑠璃。お腹空いてない?」
「そこそこ。この時間混んでるかなとも思ったんだけど、そうだね。何か食べてから回ろうか」
「うん」
彼は――東屋くんは、頬を掻きつつはにかんだ。
「瑠璃はどう? 最近」
「ぼちぼちかな。先輩社員から言われたことしかやってないけど」
「一年目はそんなものだよ。俺もそうだった」
校内を一周し、今再びのアトリウム。文化祭、大変に賑やかでよかったのではないだろうか。そこそこ楽しめたし。なお、昼ご飯はたまたま休憩用に解放されていた教室で取ってきた。現在は終了の時に近づく景色を、東屋くんと二人してベンチから眺めている。帰ってもいいのだけれど、久々の母校の空気をもう少し味わいたかったから。
「にしても装飾豪華だし食品の出店多くなってたし、私たちの代よりお金かかってる気がしない?」
「ああ、実際予算多いってさ。生徒会の子が言ってた」
「へぇ。その生徒会にしろ何にしろ、移動の先々で女子高生にもててたではないですか」
「語弊があるよ? 一昨年だけど、実習に行ったからね。覚えられてるとやっぱり嬉しいものだね」
「鼻の下伸ばしてたもんね」
「誤解だ」
「何の教科だったっけ」
「世界史」
「ふぅん」
きっといい先生だったんだろう。東屋くんに話しかけた女子高生たちの反応を見た感じ、想像に難くない。
「先生、ねえ。向いてそうなのに」
「そうかな。実習中に音を上げて、結局資格取るだけ取ってならなかったし。どっちかというと君のほうが向いてそう。意外と」
「嘘をつけ」
「ちょ、くすぐったい」
半袖から覗く東屋くんの二の腕を掴んで、揉む。がっちりしている。ラグビー部として活躍していた高校時代に比べればボリュームダウンしたものの十分だ。維持できているのは今もトレーニングを続けているからだろう。やめたらすぐ鍛える前に戻るものだし。私みたいにね。「くすぐったいってば!」散々困り顔を堪能し気が済んだところで、手を放してやる。
「教師か……。今だから言うけどさ、瑠璃は先生になるんじゃないかって本気で思ってたときもあったよ」
「私が? 音楽教師?」
「それ以外にある?」
あくまでも仮定としてね、と東屋くんは声を潜める。口に出したはいいがやっぱり聞きづらいんだろう。だけども気になると。まあ普段の私なら答えないだろうな。普段ならね。
「大学の専攻から考えれば政経倫理も多分取れなくはなかったけど」私は大きく息を吐く。「ないね。私はピアニストにしかなりたくなかった。それか、自分が習ってきた先生に並び立つくらいの実力を持った先生」
朝方の夢でも再確認したことである。元永瑠璃《わたし》がなりたかったのはあくまでも『ピアニストもしくはそれに準ずる存在』だ。雑事に追われ自分の鍛錬がおろそかになりそう、かつ、必要以上に人と接したくなかったから、音楽教師を目指そうという思いは挫折前も後も湧かなかった。この選択に関しては現在も後悔はない。私が後悔しているのは、もっともっと前の時点だ。
ひう、と喉が乾いた呼吸音を立てる。
「なんだかタイムリーな話。今朝、高校のときの夢を見たの。東屋くんも出てきたよ」
「そうなんだ」
「不思議だけどね、昔あった出来事に今の私がいるだけっていう。もしも成功していたら、って流れにはならなかったんだよね。自分がクズで痛かったのをリプレイしただけだった」
私は隣の彼に向き直り、頭を下げる。
「高校時代は東屋くんに多大なるご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」
「えっ? あーいえいえ。俺こそ、うざがられるところ今日まで縁が続いているのは嬉しいことです。噛みつかれたときはまじで痛かったし相当びびったけど」
「本当に申し訳ございませんでした。……で、音楽はどうなのって話に補足だけど。同世代で比べれば上手い部類にいた自信はあるよ。けど」
丸めた指先を見つめる。指先の肉よりはみ出る爪。指に気を留めることがなくなったのはいつからだろう。成長を自ら止めてしまったのはなぜだっただろう。周囲を敵に仕立て上げ、耳を塞ぎ、孤立を選んでしまったのはどうしてだろう。理由はとうに、分かっている。
「私は、自分を過信して自滅したんだと思う」
さっきチラシで作った紙飛行機を鞄から出し、飛ばす。真っすぐ飛ぶだろうという予想に反してくるくると舞い上がったかと思うと、急降下、ゴミ箱に入った。
私のピアノに対する過信は中学から高校に上がるころから酷くなった。高校生になってまでコンクール受ける人は音大を目指す人ばかりだから、コンクール自体がハイレベルになり、中途半端でもそれなりに受かった中学生気分のまま臨んではいけない。そもそも、本当に上手い子は小学生でも高校生の部で飛び級入賞したり、さっさとヨーロッパやアメリカに留学したりする。『高校生で入賞できなきゃ音大や演奏家は無理だ』って先生にも口酸っぱく言われたじゃないか。こんな簡単なこと、当時の私も知っていたはずなのにな。聞く耳を持てなかった。いや、知っていたけど、自分はまだ伸びるから大丈夫だと思った。根拠もないのに、思ってしまった。
「やり直せるなら小学生まで戻ってピアノ、弾きたいなあ。東屋くんや矢須さんたちとわいわいソルフェージュやったり連弾やったりしてるころが一番楽しんでたかも。本当、いつからだろうね。純粋に向き合えなくなったの」
眉を寄せる東屋くん。止めどなく私の口からあふれ出る言葉。これも、これまでにないほどあんなに鮮明な夢をみてしまったからだろう。
「ピアノは、嫌い?」
「ピアノ自体は嫌いじゃないよ。だけど、音が聞こえてくるとつらい。私のほうが上手く弾けた、とか、羨ましいなとか憎いなとか。負のエネルギーに満ちたことばっかり考えちゃってさ」
「だからか。音楽室の前でミュージカルに客引きされたとき無視決め込んだのは」
「そういうこと。そのくせ鍵盤に触れると震えが来るというね。自分は上手く弾けない。今更何したって認めてももらえない」
いったん言葉を切る。いい加減しゃべりすぎたかな、困らせてないかなって。頭一つ分高い隣の彼を仰ぐ。力強く頷かれた。ならばもう少し、しゃべらせてもらおう。
「大学入った直後くらいかな。鍵盤に触れるたびに、自責するの。こうなったのは誰のせいだ。報いてくれなかったピアノに向かう意味はあるのか? 考えだしたら肩に力が入って、胃がキリキリして。弾けない。……四年が経つのか。バイトだ大学だって逃げて、弾かなくなってから」
ピアノを直視できなくて、逃げて逃げて。逃げるうちに、いつの間にか普通の手になってしまった。ピアノを弾く人の指先は爪に覆い被さるように肉が巻いている。爪よりも指先の肉のほうが出ているのだ。高校までは私もそうだったのだけど、もちろん今は。
情けないなあって、溜め息を何度吐いたか知らない。しかし、自分の中でもまだ整理が付かないのだ。『頑張ったのに裏切られた』ついつい、こんな風に捉えてしまって。逆恨みにもほどがあるね。分かってはいるけどどうにもできずにいる。
「あーあ。才能があったらなあ」
「瑠璃、すごく上手かったよ」
「うーん。私が言ってるのは上位層に食い込めるような、食うのに不自由しないレベルの才能。それと頭の良さ。勉強面だけじゃなく、人の意見を受け止められる素直さとかね。結果としてピアノやめて、勉強おろそかにしてたせいで浪人する羽目になって、進学で親元離れて、経済学部出て事務やってるような、まあまあどこにでもいそうな勤め人になったことは嫌だと思わない。むしろ幸せな人間だろうけど」
今なら、今だから、青春の思い出深いこの場所だから、東屋くんだから、ようやく口に出せる。腹に力を入れて声を出そうと思えた。
「やっぱり、ピアノで食べたかった。夢にも出てきたけど、昔さ、負け犬どうこうって失礼な言葉吐いたよね。……本当の負け犬は私だよ。しかも自分に負けたという無様な、ね?」
私は笑う。対する東屋くんはふっと笑顔を消した。頭が重く痛み出す。そして、言いようのない熱が頭までふつふつと。
「ちょっと。笑ってくれたっていいじゃない。ここまで告白するの初めてなんだから」
「泣いてる相手に、笑えないよ」
「えっ? ……えっ?」
正面にある顔がにじんで見える。瞬きするたびに頬を生温い水分が伝う。
「えっ、なにこれ、えっ? 涙止まんない、知り合いに見られかねないし、人の往来があるところで泣くとか、えっ、ごめん」
「大丈夫だよ。止める必要なんかない」
差し出されたハンカチを受け取って目頭を拭う。しばらく止まりそうにない。
呼吸に合わせるように、東屋くんは私の背中をさすりだす。大丈夫、大丈夫。子どもを宥めるような低い声は心地よく、徐々に私の呼吸は整っていく。
スピーカーからの声が途切れ、ヴィヴァルディが流れ出した。在学時と変わらない閉祭の合図。プロの演奏家たちによる優美なメロディーの盛り上がりに合わせるように、昇降口へと向かう人々の流れが増していく。
「ピアノにしてもスポーツにしても、君と違って頂点を見たことないやつが言うと嫌な気分にさせてしまうかもしれないけどさ」
こうして周囲を観察できるほどの落ち着きを取り戻したころ、東屋くんはこう切り出した。
「瑠璃はめちゃくちゃ上手かったよ。途中でやめた俺と違ってずっと努力してて、ずっと尊敬してた」
「本当に上手かったら、有名かどうかは置いとくにしてもプロになってるってば。プロでも食えるとは限らないってのも聞き飽きたからね」
「それはそうなんだけど、ええと、なんていうかな」
腕組みして黙りこまれてしまった。私は大人しく口をつぐんで続きを待つ。どんなことを言われても、今日なら受け止められそうだから。
「聴けなくなったのが俺としては純粋に悲しいんだ。めちゃくちゃ悲しい。自分を卑下したり、あんなに上手くなったのに弾かなかったりが、かなりもったいなく思えて」
そっと包み込まれるように、膝に置いた私の右手に大きな手が被さった。初心かというくらいにかあっと、頬が熱くなる。
「俺はもう一回聴きたいな。ピアノ」
「……下手だよ?」
「そりゃあそうだろうね。四年も弾いてないから。すぐに弾けないのは承知だよ。プライド的には堪えるだろうけど、簡単なソナタをまたやってみるとか、いっそ新譜を引っ張ってくるとかしてみたらどう?」
「下手って、私が言ったのはそういう意味ではなくて」
「大丈夫、分かってるよ。でも、もう誰かと競い合う必要はなんてない。ちゃんと瑠璃も分かってるでしょ? ピアノは弾いて楽しい、聴いてもらって楽しいって原点に戻っていい。……戻って欲しいって、俺は瑠璃がピアノやめた高三のときから、ずっと思ってた」
十何年間かけて築き上げた発想を全部転換しなきゃいけないからエネルギーも時間もめちゃくちゃ必要だろうけどね、と東屋くんは微笑んだ。
頭の中を重たいものがぐるぐる回り出す。私がまた、ピアノを弾く? おなかが痛みだす。ピアノを弾く。認められなかった私が、また。認めてもらうため? 誰に? 先生? 教室の子たち? ……ああ、分かり切ったことじゃないの。
「ピアノを弾く自分そのものを、純粋に認めてあげるのか」
夢で再会した私は『人より上手くなければ弾く価値はない』と叫んだ。対する私がなぜ泣いたのか。それは『誰とも比べず、弾いてる私だけを見て認めて欲しかった』からなんだろう。幾度となく至っては無視し続けた結論がようやく実感を持ち、ぐるぐるが収まりすとんと、やっと心の深いところに落ちた。小さいけれど確かに明るい協和音が鳴った、そんな気がする。
では、認めるにはどうしたらいいか。それはもちろん、方法は一つだけ。……ピアノを弾くこと。それしかない。
「しかし、出来るかなあ。四年間逃げ続けたことに向き合って、凝り固まった考えを全部取っ払って。相当きついよ」
「きついね。でも出来るよ。君なら大丈夫。高校時代ずっと人の多い、うるさい、暑くて寒い、こんなに集中しづらい要素の詰まったここで頑張ってたんだから」
「関係ある? それ」
「要するに、君は強いってことが言いたいんですよ。強かったから受験も乗り切れたんじゃない?」
「受験は親にも言われたなあ。魂抜けたままフリーターになると思ったとか言われたことある。どうにかなってよかったよ。……でも私、強いのかなあ。まあいいや」
卒業後初めて舞い戻ってきたここ、アトリウム。疲れたときには吹き抜けのガラス天井を見上げるのが癖になっていたっけね。首を上に向ける。まだ日は高く、柔らかな光に私は目をしばたたかせた。ああ、いい天気だ。
「もしかしたら、素直で表情豊かになった今のほうが表現力上がってたりしてね」
「ほう?」
空いている左手で東屋くんの手をつねる。筋肉質だから効いている感じは皆無だけど。
「あーもー好き勝手簡単に言っちゃって」
「痛い痛い」
笑い合いながらお互い手を放す。
「陰険で暴言吐いたこともあるやつに対してもめげずに接し続けるとか、挙句好きだとか。ホントお人好しだよね東屋くん」
「そのお人好しに何度か助けられてる照れ屋は誰だろうね?」
「私ですね」
「にしても、また弾いてってさ、俺から何度も伝え続けて、やっと耳貸してくれたと思うのは気のせいかな」
「気のせいではないね。やっと大人になれた気がするよ。ねえ東屋くん」
「そろそろ下の名前で呼んでくれてもいいんじゃない。呼び方、かなり気まぐれだよね。付き合って長いんだから」
「恥ずかしいときとか改まりたいときとか、ついついね。……ねえ、敬太」
考えを変えるのって難しい。弾きながらつらくなるのは間違いないだろう。でも。決めた。
咳払いを一つ。私は差し出された敬太の手を握って、笑いかける。
「弾くの、まずはベートーベンでどうかな」
白状しよう。私はブランクというものをなめていた。
「あいたっ」
思わず確認した指先は全て赤く腫れていた。肩も心なしか痛い。演奏フォームに問題ありそうだ。背筋が伸びてないせいで余計なところに力が入っているのかもしれない。
休みということで、今日は朝から鍵盤に向かっている。しかしそろそろ体が限界を迎えつつあった。私は電子ピアノの電源を落とし立ち上がる。楽譜を本棚にしまい、まくっていたセーターの袖を下ろし、伸びをする。ぱきぽきと音が聞こえた。
私がピアノを再開してから来週で三ヶ月が経つ。ブラームスが無理なのは当然としても、ベートーベンのソナタに苦戦するのは予想外で、ブルグミュラー・ツェルニーなんていう小中学生御用達の練習曲集から弾き直す羽目になった。ブランクって恐ろしい。
けれどめげずに、平日仕事から帰宅した直後の三十分、休日の二時間程度の練習を続けるうちに、ようやく徐々に指が動くようになってきた。もちろん、昔の技量にはほど遠い。でも、昔より柔らかい音を出せるようになったみたいで、このまま練習続ければ表現の幅が広がるチャンスがありそうだ。ハノンピアノ教本の偉大さを今更ながら理解したおかげで、練習もはかどるし。
「まあ、すぐには弾けないけど。むしろ弾けたら昔の自分が怒りそう」
にしても、今日はすこぶる調子がいいな。勘違いしたくなるくらい。
一度は引っ込めた手をまた本棚に伸ばして、二冊を抜き取って譜面台に置いた。一冊は三ヶ月前に届いたコンクールの要項。もう一冊は、装丁がぼろぼろになっている灰色の楽譜。ブラームスのラプソディー。
悩んだけれど、結局要項はシュレッダーにかけることに決めた。機械に入れれば、あっという間に紙吹雪の出来上がり。
コンクール出場は、リハビリとしては荒療治過ぎる。『人と比べない』ことをルールにしたというのにこれでは本末転倒ではないか。コンクールを見据えるにしても、もう何年か時間をおきたい。
次に楽譜を手に取り、慎重にページをめくる。おびただしいほどの音符が殴りかかってくるようだと感じるのは、簡単な楽譜に見慣れたからだろう。鉛筆書きでかかれた楽語とコード名。訂正した跡もうっすらと残っていた。
偏った考えを持った挙げ句、取り組み方を間違えて失敗してしまった。悔いは今もあるし、きっと、この悔いはずっと消えないだろう。弾きながら、かつての考え方にとらわれて手が止まることもある。……けれど。
「精一杯、頑張ってたよね」
自分を認める。これがまた鍵盤に向かう第一歩だって、学んだから。
ぽとり。譜面に落ちた滴。急いでそばにあったティッシュでふき取る。ついでに自分の目頭も拭う。
譜面を確認すると、鉛筆で書いた部分が少しにじんでしまった。見づらくなってしまったかもしれない。ごめんなさい、と未来の自分に謝っておく。
今の私はまだ、ラプソディーを弾けるような腕前を取り戻せていない。でもそのうち。近いうちに、またあの曲を弾いてみせる。ドレスじゃなくワンピースでいい、大きなホールでなくていい。気負わずに、自分が楽しめるように、そして聴いた人を楽しませられるように。待ってくれている優しい人が、確実に一人いるしね。
窓の向こうを見る。曇り空に射しこむ一筋の光。雪の結晶を反射しているのだろうか、きらきらと空は輝いていた。
もう一度伸びをして、私はピアノの椅子に座り直す。
「さてと。練習再開しようか」
(完)
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