ラプソディーには早すぎた
明かりをつければ眩しさに思わず目を細める。閉店間際に駆け込んだスーパーの袋をテーブルに下ろしてあくびを一つ、メイクが取れるのも構わずに私は目をこすった。
社会人になってもうすぐ半年が経とうとしている。仕事は慣れないことの連続で疲れるけれど、幸い職場が穏やかなので随分と助けられている……のだろう。新入社員は、楽じゃないね。特に、今までの人生で伸ばしてこなかったコミュニケーション力が枷になっているのがひしひしと感じられて仕方がない。だけど、頼りになる人が周囲に多いし、テレビやネットから流れてくるブラック企業云々には当てはまっていないみたいだからいいかな。しかし、いらない。残業は。
鉛のように重い頭と手でスーパーの袋の中身を漁る。冷凍品だけさっさと冷蔵庫につっこんで、スーツを脱ぐのもそこそこにチューハイのプルタブを引く。花金の二次会を断り帰宅したにも関わらずこのザマである。こんなときに自分の心を癒せるような趣味があったらいいのかな。うーん、趣味か。ううむ。就活してるときもつくづくと感じたけど、趣味といえる趣味が私にはない。
指先を見つめる。肉よりもはみ出た爪。テーブルに手を乗っけてウェーブを作るみたいに五指を動かす。かちかちと、伸びた爪から音が鳴る。強弱があり、かつ均一でない音だ。こんなことで溜め息ついていてはきりがない。しかし、分かっていてもやめられない。
積まれた新聞紙。その山より一通の封筒を抜き出す。差出人は隣県のホール。封を切って逆さにしたら、なかなかに分厚い冊子がばさりと落ち、躍る『コンペティション』の文字。
大人向けのピアノコンクールを半年後に当ホールで主催します。二十分以内で二曲以下、すべて自由曲とします。入賞者対象のコンサートもあります。是非ご検討ください。
内容をかみ砕いた感じ、こうだろうか。脳内でテロップのように流れる文章。私はそれを二巡させたのち封筒に戻す。チューハイを喉に流し込んで、息を吐いて、目を閉じる。
こんなとき、あの『瑠璃』だったら出るんだろうな。私を鼻で笑って、これだから負け犬は、とか言いそうな気がする。その指はなんだ甘えるな。とかね。でもさ、ねえ。……しょうがないじゃない。今更。
私は瑠璃の望んだようにはなれなかった。たったそれだけのことだけど、十分に心を刺し抉る。
もう一度だけ深呼吸をする。さあ、風呂入ってさっさと寝よう。明日は早い。何のために飲み会を抜けてきたのかってね。
赤いドレスに身を包み、背筋を伸ばして鍵盤に向かう姿。舞台にて、トロフィー片手に喜ぶ姿。帰り道、電車内で泣きながら楽譜を見つめていた姿。思い出されては頭を振って、私は封筒を電子ピアノの蓋に投げ置く。じじ、と蛍光灯が鳴るのに合わせてほこりが舞った。
元永瑠璃《もとながるり》は変わった高校生だった。変わった、といっても容姿のことではない。雰囲気だ。まあ、浮いていたとはっきり言おうか。クラスで誰かと仲良くしているような記憶はさっぱりなく、教室では大抵イヤホンで耳をふさいで小難しい顔つきをしていた。そして、お昼休みになればすぐに教室を出て、教室棟と科目棟をつなぐガラス屋根の中庭のベンチに一人でいた。
この日もそう。六階まで届く高い吹き抜け。採光性が存分に発揮された空間に並ぶたくさんのベンチ。隅の一台に陣取って瑠璃はパンを食べている。人の往来もなかなか多く他のベンチを見ても二人掛け三人掛けしてにぎやか。だけど、瑠璃の周りだけ雰囲気が違う。明らかに浮いている。とっても話しかけづらい。
「こんなに賑やかなところに毎日毎日、ひとりでいてさ。何をしてるの?」
だからこそ私は話しかけた。瑠璃の左隣に座って詰め寄る。瑠璃は問いかけには答えず、隠すことない不快感をもって私を睨んできた。
「焼きそばパン、美味しいよね」
「……うん」
パン最後の一口を飲み込んだ瑠璃の顔には『うざい』とはっきり書いてある。私は気にせずスカートの上に置かれた冊子をのぞき込んだ。
五線譜を埋め尽くすおたまじゃくし。その上を縦横無尽に駆け巡る赤とか青とかの線。コードやらなにやらアルファベットも多数。そして、ロ短調。
「ブラームスのラプソディー第一番か」
「知ってるの」
「うん」
ブラームス作曲、二つのラプソディー第一番。たいていラプソディーというと形式もモチーフ展開も自由なのだけど、この曲はロンド・ソナタ形式を踏襲している。烈火のごとき情熱さ。かと思えばふと描き出される、静かな月夜のごとき甘美さ。クラシックピアノを志すものなら一度は弾くであろう名曲だ。
瑠璃が開いているのは最初の二ページ。この曲は最初のところが一番難しかったな。響きを意識しすぎて肩に力が入り、脱力にかなり苦労した記憶がある。懐かしい。
はっと我に返れば、いつの間にか隣の瑠璃はイヤホンをしていた。カシャカシャと音を立てるMDプレーヤー。瑠璃は楽譜の一点を見つめ、ひたすら左手を動かす。
芸事に励むのはいいことだと思う。が、人様に対する態度がそれですか。私が最初からいなかったかのように無視をするんだね。関わりたくないと。
私は瑠璃の長い横髪をかき分け、ぐいと左耳のイヤホンを外す。
「はっ? えっ、あんた何するの」
「そこ。二ページ目最後の二小節、左手オクターブの連音。潰れて聞こえるって昨日のレッスンで言われたのかな? それね、手の硬さでも不慣れでもなんでもなく、原因は運指。弱い指をわざわざ酷使する必要ないから。全部五にするって楽譜に書いてあるけど四・四・五でいいよ。オクターブ程度なら手が小さくても届くでしょ? 以上。はい頑張れ」
イヤホンをはめなおしてやると、私は瑠璃に背を向けその場を去った。
去り際、柱の陰から様子を窺う。憮然とした顔で楽譜に書き込みをする瑠璃がいた。意図がきちんと伝わったかな。
芸事の上達には練習と素直さが必要だよ、瑠璃。そう、素直さが。独りよがりになったところで上手くなれるわけがないんだ。
五歳からクラシックピアノを始め、七歳で出場した全国ピアノコンクールで小学校低学年ソロの部初優勝。その後もソロ部門でいくつか賞を取り、将来は演奏家を目指す高校生。同じピアノ教室の仲間と競い合いながら、音楽大学に進学することを目標にしている。
「パーソナルデータはこんな感じでいい?」
「知らない」
懲りもせず、今日の昼休みもアトリウムにいる。無理やり隣に座った私に対し冷ややかな視線を向けた瑠璃は、またイヤホンを着け楽譜を読みはじめる。私は瑠璃の耳から黒髪と同化せんばかりの黒いイヤホンを片耳取って、自分の右耳に移す。「ちょっと?」なんか文句が聞こえてきた気がするな。しかし、無視だ。
聴こえてきたのはブラームスのラプソディー、またもや第一番。この曲は長いことやってたんだねえ。道理でしっくりくるはずだ。更に右耳へと意識を傾ける。
瑠璃の奏でる音は粒ぞろいで音楽の流れを作ることには評価が高い。澄んだ、芯のある音。安定感。指もよく回っている。しかし……どこか画一的というか。例えば、今流れているロ短調の再現部と、先ほど流れたロ長調の展開部。
「調がまるで違う、使われているメロディーモチーフも違う。なのに、フォルテの響きかたに違いがない。音色もしかり。数ヶ月間弾いてるから楽譜は頭に入っているだろうに、変化を伝えられない。力量が足りないから」
「は? 偉そうに」
「え? 事実でしょ?」
「ちょっと知ってるからって」
「相当勉強したことって、何年経っても忘れないものだよ」
瑠璃は片手で口を覆い、押し黙る。私はイヤホンを戻してやった。
そう。瑠璃の課題は表現力だった。もしくは想像力の不足。だから、表現力が相当問われるショパンやシューマンには苦戦していた。わざわざロマン派を避けたコンクール選曲をしたこともあったはず。まあ何せ昔のことだから、私の記憶だってだんだん薄れているのだけど。……それでも泣きそうになる。羨ましさと、後悔と。
話を戻そう。演奏がそこそこ上手いのを瑠璃の評価における加点ポイントとしよう。しかし結果として、瑠璃本人の印象は全くよろしくない。とにかく冷たいし言葉がキツイ。他人と会話を続けるという意欲に乏しいためだろう。二年生にもなってクラスに友だちがいなくても、瑠璃は人と接点を持ちたがらない。せっかくの高校生活なのに。もっとさ、クラスメイトと遊ぶとか部活に勤しむとかすればいいのに。でも、彼女がそれを理解するには時間がかかる。私は知っている。
天井を見上げる。ガラス越しの空は雲一つない見事な五月晴れだ。
「せっかく天気がいいことだし、外の空気でも吸ってきたらどう?」
「話しかけるたびに、いちいちイヤホン取らないでくれる」
「音楽室を借りて練習したらいいのに」
「合唱部が使うからって許可下りなかった」
「そうだったね。しかし本当、音楽にだけ賭ける青春って感じ」
「まあね」
「この前の定期テストで数学と化学と他いくつか赤点叩き出しても気にしない、と」
「なんで知ってるの。どうせ、音大入試には理系科目使わないからいいの。英語と国語だけ出来てれば」
「音楽の道以外考えてないけど、そこに行けなくなったらどうするか考えてる?」
ぴたり。譜読みをしながら太ももを叩いていた瑠璃の指が止まる。
「中三以来目立った戦績はないわけだけど、『高二までに全国大会で賞取ってきなさい。入賞できないとこの先食べていける見込みはない。取れなければ音大は諦めましょう』っていう先生の指令を今学年中に達成しなくてはならない。実際、苦しいでしょ」
「だから。なんで知ってるの」
怪訝な顔をする瑠璃。笑ってごまかす私。かちりとMDが切られ、ぱさりと楽譜が閉じられる。ゆっくりと視線が交わって、瑠璃の大きな瞳と見つめあった。
「中学まで優勝経験はある。だから、不可能ではない」
「高校生になると音大志望者ばかりになるから、コンペ通過は今まで以上に大変だって散々言われたよね?」
「分かってる。中学生と高校生には壁があって、それを越えられるかが正念場だって。実際、去年の夏は越えられなかった。でも、諦めるわけにはいかない」
「誰のために?」
「自分のために決まってる」
「そうだね」
瑠璃は灰色の表紙を見つめ、題字をゆっくりと人差し指でなぞる。固い指先の肉は爪を守るため。まだまだ綺麗な楽譜も、次第に表紙に小さな傷がつき譜面への書き込みが増え、どんどん馴染んでいくのだ。
きっと瑠璃が一番大事にしたいのは上手にピアノを弾く自分自身。聴衆といえば審査員のことしか意識になかった。結局私も、分かりきったことを確認したにすぎない。
再び沈黙の時間が訪れる。向かいの壁に掛けられた時計を見ると、休み時間はまだ二十分もあった。このまま今日もまどろんで終わりか。周りはきゃいきゃいと賑やかなのに瑠璃ときたら……あれ? あそこにいるのは東屋《あずまや》くんではなかろうか。
たくしあげたワイシャツの袖から覗く腕は筋肉質かつ日焼けしていて、しかし賢そうな顔つきをしている。東屋くんは瑠璃を見つけると駆け寄ってきた。足音に気が付いたのか瑠璃も顔を上げる。
「元永。化学の鎌田先生がさっきクラスに来て、元永のこと探してたよ」
いかにも人懐っこそうな顔した男子生徒、もとい東屋くん。瑠璃は返事をした。「そ。どうも」見本のような仏頂面である。
確か東屋くんは瑠璃のクラスの学級委員だった。連絡事項を伝えてくれる友人もいない瑠璃だから彼が来たのだろう。帰っていいよと言わんばかりに目をそらす瑠璃。しかし、彼は立ち去ろうとしない。何か言いたげに瑠璃の横顔と楽譜を交互に見つめていた。
「今年はどんな曲を弾いてるの?」
だいたい瑠璃と同じ目線の高さ、東屋くんは中腰になって楽譜を指す。
「ブラームス、ラプソディー第一番ロ短調」
「有名な曲だね。そっか、コンクールの時期か。基本的なスケジュールは変わってないんだ」
「そうね。東屋くんが習ってたころと一緒かも」
「へえ。今でも矢須さんとかとリハ会するの?」
「しない。あの子やめたから。私と東屋くんがいた代のメンバーはもう私しかいないよ」瑠璃は肩をすくめる。「皆弱いから。残ったのは私だけ」
東屋くんの大きな肩がぴくりと震えた。私は動かずそのまま、二人の会話に耳を傾ける。
「芸事ってさ、才能ないとどんどん落とされる。高校生にもなれば顕著で、今までなんとなく弾いててもそれなりになってた人たちは、落ちる。で、辞める。そういう負け犬を追い出すことで芸術は高みへ到達する。あの教室には負け犬が多かった。負け犬じゃないのは私だけだったの」
瑠璃が譜面を擦り合わす音が私たちの間に落ちていく。
「で? 用は済んだでしょ? とっとと戻れば」
東屋くんは呆けた顔で固まっていたが、そのうちに錆びた機械が動くみたいにゆっくりと立ち上がった。
「……一つだけ、教えて。俺とグループレッスンやってた時代は楽しくなかった? いらついてた? ずっと」
「レベルが違うのは昔から分かってたでしょ?」
「そう、だね」
はは、とひきつらせた顔は青白い。東屋くんはそのままとぼとぼと去っていった。
こうして再び二人きりになった。瑠璃は顔を上げ周囲を確認し、何食わぬ顔して譜面に再び没頭し始める。
「ねえ。東屋くんって、瑠璃の知り合いでしょ? 小六までピアノ教室一緒で仲良かったじゃない」
「随分と前に辞めていったけどね。サッカーに専念するとか言って。今はラグビーだっけ? 何にも続けられないのかしらね」
まるで虫けらでも見るような目だ。隠そうともしない嘲笑に私の心が冷える。
「瑠璃」
掌から繰り出した一撃は瑠璃の右頬に当たって、吹き抜けに乾いた音が響き渡る。ぐらり、と私も殴られたように視界が揺れる。
「な、っにすんの!?」
頬を押さえ唇を曲げる瑠璃に、私は言った。
「これ以上むなしい気持ちにさせないでくれるかな。あと、痛い。……教えてあげる。わがままが通じるのは子どもと天才だけだよ。早く大人になってよ」
さて、言葉の意味を理解するのに、この子どもは何年かかっただろう。
「勉強の邪魔なんだけど」
「ごめん。承知してる。でも頼む、昼練出てくれないかな」
「どうして私が」
ふてくされている女子は瑠璃。首を掻き苦笑いする男子は東屋くん。ああ、雪がちらついてるなあ、どうりで冷えるはずだ……と天井を見上げている女は私。だって、出る幕ではないし。
「昼休みや放課後までさ、みんなで練習やってるんだよ。元永が来るのをみんな待ってる。忙しいのは分かってるけど、元永にとってもクラスに馴染むってのは悪いことじゃないよ」
「みんなって誰。男子は適当に突っ立ってるだけでしょ? 女子、特にソプラノあたりが張り切ってさ。アルト声小さい、男子口開け。そうやって朝も揉めてたよね。ああいうのやめてくれる? 雰囲気悪くなる」
私は瑠璃を見る。マフラーに顔の半分を隠しているが、不機嫌さは全く隠れていない。抉るような視線を東屋くんに向けている。頑張れ東屋くん。
合唱祭がすぐそこに迫っている。瑠璃たちのクラスでも練習が熱心に行われていて、優勝しようと意気込んでいた。ところが、瑠璃は朝・昼・放課後の練習をすべて欠席している。今だってお昼休み真っ最中なわけだけど、瑠璃はチャイムが鳴ると同時にアトリウムにやってきていた。『練習? 伴奏やってるわけじゃないし音程はちゃんと取れてるから、私一人欠けたくらい問題ないでしょ?』というのが瑠璃の言い分。クラスメイトが納得していないのは言わずもがな。そしてついに学級委員の東屋くんが説得しにきたのだ。絶対音感を持っており記憶力も悪くない瑠璃だから、歌うのには不自由しない。けど、ピアノと違って合唱祭はソロでない。協力しなければならない。
「あと一週間なんだ。頼むよ」
「私のピアノコンクール本選も来週日曜だけどね。全国大会出場が懸かってる」
「うん。元永がピアノ上手いのは俺、よく知ってるよ。応援してる。合唱練だって、音楽の授業中見てたから分かるよ。ばっちり歌えてるって。でも、せめて昼練だけでいいからさ。頼むよ。昔一緒にピアノ弾いたよしみと思って、クラスのためと思ってさ」
東屋くんは勢いよく首を垂れた。鍛えられた大きな図体が小さく見える。「こんな人に頭下げる必要ないよ」と私は声をかけてみたけど、律儀な彼は顔を上げようとしない。
「私が悪者みたいじゃない」
詰問するような瑠璃の口振り。しかし、瑠璃の瞳は揺れていた。
双方ぴくりとも動かず、沈黙の時間ばかりが過ぎていく。
「顔上げてよ。……分かったから」
やっと沈黙を破ったのは瑠璃だった。瑠璃は立ち上がって伸びをする。
「ただし昼休みだけね」
「ありがとう」
人のいい東屋くんは顔をあげて笑った。ほっとしているみたいだ。瑠璃が一方的に悪いのにね。
「ちょうど今も教室で練習してるんだよ。行こう?」
「分かった。早速――」
「元永さん!」
飛んできた鋭い怒声。振り返れば、目を吊り上げた女子が一人、立っていた。
「何? 私たち戻るところで」
「遅い! 東屋くんも遅い! 昼終わるよ!」
怪訝な顔をした瑠璃へ噛みつかんばかりの勢いで、女子が甲高く叫ぶ。
「いつもいつも! 練習も出ないですぐ教室出ていって! 合唱祭優勝目指してみんなすっごく頑張ってるんだよ! 練習出てよ! 元永さんみたいな不真面目な人のせいでみんなテンション下がってんの! 練習出てよ!」
言いたいことが相当溜まっていたのだろう。肩で息をする女子。ソプラノパートのリーダーだったな、と私は思い至る。
突然のことに、東屋くんは硬直していた。瑠璃はというと、彼女の言葉にじっと耳を傾けていたが、相対する彼女が深呼吸するのを見計らい、ゆっくりと口を開く。
「出るよ、昼練は」
「昼練だけ? は? ちょっと東屋くん。話が違う」
「元永、忙しいから……それに歌えているし」
「一人で歌えてたって集団になると違うでしょ!」
再び語気を強める女子に東屋くんは口を閉ざす。
「ピアノだっけ? 上手いらしいけどだからって練習に出ない理由にはならないから。みんなも部活ある中で一生懸命、時間つくって練習してるんだから! なめんな!」
「……うん。で、言いたいことは以上?」
「は?」
「部活って言ったって、この高校には全国大会出るような強い部活ないよね。少なくとも私の記憶にはないんだけど。合唱祭だってさ、結局は校内だけの話でしょ? 小さい。本当に小さい話だよね」
冷たい響きを持った瑠璃の言葉が、静まりかえった空間に投げられる。
「ちょっと、元永」
「優勝したところで人生決まるわけでもない。クラスの団結力を高めたところで、卒業しちゃえば縁が切れる。正直、合唱祭に励む心が私には理解できない」
さっと白くなるパートリーダーの顔。
「元永! それは言い過ぎ」
「大丈夫だよ東屋くん。説明しないほうが駄目でしょ、分かってくれない相手には」
事前に言っておくべきだったけど。そう前置きしつつ、瑠璃は続きを語り出す。その肩は震えていた。
「私には来週、ピアノコンクールの本選会が控えている。これがきっと、高校二年生最後の大会になる。人より上手くなければ弾く価値はない。私は音大に行ってプロになることを目指しているんだから。合唱祭? クラスの連携? つまんないこと言わないでよ。普段は私のことをいないものとして扱っておいて、こういうときにだけ仲間云々ほざくのはおかしくない?」
「ほざく、って……!」
「じゃあそれとも、何? 私がクラスの練習に朝、昼、放課後出ます。クラスが優勝……優勝じゃなくてもいいや、とりあえず合唱祭終えます。私がコンクールでブラームス弾きます。落選しました。でも、クラスで合唱祭頑張ったし、クラスの団結深まりました。かけがえのない友人が出来ました。わーいおめでとう、めでたしめでたし、って?」
瑠璃はぎゅっと、こぶしを握る。
「なわけないでしょ! ふざけんな!」
叫び声はガラス天井を突き破るように、アトリウム中に響きわたった。目の前の女子に負けず劣らず、いや、女子よりも大きな声で、瑠璃は怒りを爆発させる。
「なめんな! 私はあんたたちと違ってコンクールにこれからの人生賭けてんだ! 私が失敗したらどうしてくれる! 責任とるのか! どうなの、ねえ!」
「元永! 落ち着いて」
「うるさい! 放せ!」
東屋くんに掴まれた右手首を振り払おうとする瑠璃。
「いったん落ち着いて。それから話そう」
「馬鹿にされといて落ち着けるか!」
掴まれたまま右手を大きく振り上げたかと思うと、瑠璃は、たくましい腕に思い切り噛みつく。短い悲鳴を上げた東屋くんの顔が苦痛に歪み、手が放される。一部始終に女子は目を見開いて硬直しているばかり。上気した瑠璃の唇からは血が垂れていた。
もはやこの場に瑠璃を止められるものはいない。瑠璃自身ですら、自らの行動を律することは出来なかった。
「瑠璃――」私だけが口を開く。「自分の人生は、自分で責任を負うものだよ。他人に負わせることは出来ない」
「そんなわけない。他人に振り回されるのに他人のせいなわけがない」
瑠璃はブレザーの袖で口元の血を拭い、私を睨んだ。
「最後のコンクール、弾いたのはブラームスのラプソディーだったね。一年くらいずっと弾いてきた曲で、だからかなり自信持ってた。けど、全国大会には行けなかった。クラスの練習出ても出てなくてもきっと、結果は変わらなかったよ」
「違う!」
目を腫らした瑠璃は、赤いドレス姿で叫んだ。
「長いこと『表現力』が課題だって言われ続けたけど、きっとその原因は自分自身の未熟さだね。未熟なくせに意固地。他人のことを考えない。感謝しない。優しくしない。ピアノ続けられたのだって、親や先生、同じ教室の仲間、いろんな人たちのおかげなのに。自分一人の力だって勘違いした」
「違う」
ぐしゃぐしゃの卒業証書を抱えたまま、制服姿で瑠璃は言った。
「他人よりも上手くなければ入賞できない。それは事実だけど、偏りすぎた。縛られすぎたよね。……いつからだろう。ピアノって楽しい、聴いてもらって嬉しい。初めて鍵盤に触れたときの感動を思い返さなくなったのは。審査員じゃない、一般の聴衆に届けるということを無視して、他人を負かすことばかりに固執して。『ピアノを弾きたい』っていう目的と『プロになる』って目標を取り違えるようになったよね」
「違う……」
ワンピースに茶髪姿の瑠璃は、消え入りそうな声で呟いた。
「失敗したのは、自分のせいだよ。才能は多少あったかもしれない。だから、勘違いしなければ、もう少し違う道が開けたかもしれない。そう私は思うんだ。……でも、もう遅い。私は私の手で、自分の道を断ってしまった」
黒髪に戻り、スーツに身を包んだ瑠璃はうつむいたまま、答えようとしない。
「答えられないよね。だって、何一つ違わないんだもの。さすがにもう、分かるでしょ? 今なら」
私の頬を涙が伝うころには目の前に、瑠璃《わたし》はもう、いなかった。
社会人になってもうすぐ半年が経とうとしている。仕事は慣れないことの連続で疲れるけれど、幸い職場が穏やかなので随分と助けられている……のだろう。新入社員は、楽じゃないね。特に、今までの人生で伸ばしてこなかったコミュニケーション力が枷になっているのがひしひしと感じられて仕方がない。だけど、頼りになる人が周囲に多いし、テレビやネットから流れてくるブラック企業云々には当てはまっていないみたいだからいいかな。しかし、いらない。残業は。
鉛のように重い頭と手でスーパーの袋の中身を漁る。冷凍品だけさっさと冷蔵庫につっこんで、スーツを脱ぐのもそこそこにチューハイのプルタブを引く。花金の二次会を断り帰宅したにも関わらずこのザマである。こんなときに自分の心を癒せるような趣味があったらいいのかな。うーん、趣味か。ううむ。就活してるときもつくづくと感じたけど、趣味といえる趣味が私にはない。
指先を見つめる。肉よりもはみ出た爪。テーブルに手を乗っけてウェーブを作るみたいに五指を動かす。かちかちと、伸びた爪から音が鳴る。強弱があり、かつ均一でない音だ。こんなことで溜め息ついていてはきりがない。しかし、分かっていてもやめられない。
積まれた新聞紙。その山より一通の封筒を抜き出す。差出人は隣県のホール。封を切って逆さにしたら、なかなかに分厚い冊子がばさりと落ち、躍る『コンペティション』の文字。
大人向けのピアノコンクールを半年後に当ホールで主催します。二十分以内で二曲以下、すべて自由曲とします。入賞者対象のコンサートもあります。是非ご検討ください。
内容をかみ砕いた感じ、こうだろうか。脳内でテロップのように流れる文章。私はそれを二巡させたのち封筒に戻す。チューハイを喉に流し込んで、息を吐いて、目を閉じる。
こんなとき、あの『瑠璃』だったら出るんだろうな。私を鼻で笑って、これだから負け犬は、とか言いそうな気がする。その指はなんだ甘えるな。とかね。でもさ、ねえ。……しょうがないじゃない。今更。
私は瑠璃の望んだようにはなれなかった。たったそれだけのことだけど、十分に心を刺し抉る。
もう一度だけ深呼吸をする。さあ、風呂入ってさっさと寝よう。明日は早い。何のために飲み会を抜けてきたのかってね。
赤いドレスに身を包み、背筋を伸ばして鍵盤に向かう姿。舞台にて、トロフィー片手に喜ぶ姿。帰り道、電車内で泣きながら楽譜を見つめていた姿。思い出されては頭を振って、私は封筒を電子ピアノの蓋に投げ置く。じじ、と蛍光灯が鳴るのに合わせてほこりが舞った。
元永瑠璃《もとながるり》は変わった高校生だった。変わった、といっても容姿のことではない。雰囲気だ。まあ、浮いていたとはっきり言おうか。クラスで誰かと仲良くしているような記憶はさっぱりなく、教室では大抵イヤホンで耳をふさいで小難しい顔つきをしていた。そして、お昼休みになればすぐに教室を出て、教室棟と科目棟をつなぐガラス屋根の中庭のベンチに一人でいた。
この日もそう。六階まで届く高い吹き抜け。採光性が存分に発揮された空間に並ぶたくさんのベンチ。隅の一台に陣取って瑠璃はパンを食べている。人の往来もなかなか多く他のベンチを見ても二人掛け三人掛けしてにぎやか。だけど、瑠璃の周りだけ雰囲気が違う。明らかに浮いている。とっても話しかけづらい。
「こんなに賑やかなところに毎日毎日、ひとりでいてさ。何をしてるの?」
だからこそ私は話しかけた。瑠璃の左隣に座って詰め寄る。瑠璃は問いかけには答えず、隠すことない不快感をもって私を睨んできた。
「焼きそばパン、美味しいよね」
「……うん」
パン最後の一口を飲み込んだ瑠璃の顔には『うざい』とはっきり書いてある。私は気にせずスカートの上に置かれた冊子をのぞき込んだ。
五線譜を埋め尽くすおたまじゃくし。その上を縦横無尽に駆け巡る赤とか青とかの線。コードやらなにやらアルファベットも多数。そして、ロ短調。
「ブラームスのラプソディー第一番か」
「知ってるの」
「うん」
ブラームス作曲、二つのラプソディー第一番。たいていラプソディーというと形式もモチーフ展開も自由なのだけど、この曲はロンド・ソナタ形式を踏襲している。烈火のごとき情熱さ。かと思えばふと描き出される、静かな月夜のごとき甘美さ。クラシックピアノを志すものなら一度は弾くであろう名曲だ。
瑠璃が開いているのは最初の二ページ。この曲は最初のところが一番難しかったな。響きを意識しすぎて肩に力が入り、脱力にかなり苦労した記憶がある。懐かしい。
はっと我に返れば、いつの間にか隣の瑠璃はイヤホンをしていた。カシャカシャと音を立てるMDプレーヤー。瑠璃は楽譜の一点を見つめ、ひたすら左手を動かす。
芸事に励むのはいいことだと思う。が、人様に対する態度がそれですか。私が最初からいなかったかのように無視をするんだね。関わりたくないと。
私は瑠璃の長い横髪をかき分け、ぐいと左耳のイヤホンを外す。
「はっ? えっ、あんた何するの」
「そこ。二ページ目最後の二小節、左手オクターブの連音。潰れて聞こえるって昨日のレッスンで言われたのかな? それね、手の硬さでも不慣れでもなんでもなく、原因は運指。弱い指をわざわざ酷使する必要ないから。全部五にするって楽譜に書いてあるけど四・四・五でいいよ。オクターブ程度なら手が小さくても届くでしょ? 以上。はい頑張れ」
イヤホンをはめなおしてやると、私は瑠璃に背を向けその場を去った。
去り際、柱の陰から様子を窺う。憮然とした顔で楽譜に書き込みをする瑠璃がいた。意図がきちんと伝わったかな。
芸事の上達には練習と素直さが必要だよ、瑠璃。そう、素直さが。独りよがりになったところで上手くなれるわけがないんだ。
五歳からクラシックピアノを始め、七歳で出場した全国ピアノコンクールで小学校低学年ソロの部初優勝。その後もソロ部門でいくつか賞を取り、将来は演奏家を目指す高校生。同じピアノ教室の仲間と競い合いながら、音楽大学に進学することを目標にしている。
「パーソナルデータはこんな感じでいい?」
「知らない」
懲りもせず、今日の昼休みもアトリウムにいる。無理やり隣に座った私に対し冷ややかな視線を向けた瑠璃は、またイヤホンを着け楽譜を読みはじめる。私は瑠璃の耳から黒髪と同化せんばかりの黒いイヤホンを片耳取って、自分の右耳に移す。「ちょっと?」なんか文句が聞こえてきた気がするな。しかし、無視だ。
聴こえてきたのはブラームスのラプソディー、またもや第一番。この曲は長いことやってたんだねえ。道理でしっくりくるはずだ。更に右耳へと意識を傾ける。
瑠璃の奏でる音は粒ぞろいで音楽の流れを作ることには評価が高い。澄んだ、芯のある音。安定感。指もよく回っている。しかし……どこか画一的というか。例えば、今流れているロ短調の再現部と、先ほど流れたロ長調の展開部。
「調がまるで違う、使われているメロディーモチーフも違う。なのに、フォルテの響きかたに違いがない。音色もしかり。数ヶ月間弾いてるから楽譜は頭に入っているだろうに、変化を伝えられない。力量が足りないから」
「は? 偉そうに」
「え? 事実でしょ?」
「ちょっと知ってるからって」
「相当勉強したことって、何年経っても忘れないものだよ」
瑠璃は片手で口を覆い、押し黙る。私はイヤホンを戻してやった。
そう。瑠璃の課題は表現力だった。もしくは想像力の不足。だから、表現力が相当問われるショパンやシューマンには苦戦していた。わざわざロマン派を避けたコンクール選曲をしたこともあったはず。まあ何せ昔のことだから、私の記憶だってだんだん薄れているのだけど。……それでも泣きそうになる。羨ましさと、後悔と。
話を戻そう。演奏がそこそこ上手いのを瑠璃の評価における加点ポイントとしよう。しかし結果として、瑠璃本人の印象は全くよろしくない。とにかく冷たいし言葉がキツイ。他人と会話を続けるという意欲に乏しいためだろう。二年生にもなってクラスに友だちがいなくても、瑠璃は人と接点を持ちたがらない。せっかくの高校生活なのに。もっとさ、クラスメイトと遊ぶとか部活に勤しむとかすればいいのに。でも、彼女がそれを理解するには時間がかかる。私は知っている。
天井を見上げる。ガラス越しの空は雲一つない見事な五月晴れだ。
「せっかく天気がいいことだし、外の空気でも吸ってきたらどう?」
「話しかけるたびに、いちいちイヤホン取らないでくれる」
「音楽室を借りて練習したらいいのに」
「合唱部が使うからって許可下りなかった」
「そうだったね。しかし本当、音楽にだけ賭ける青春って感じ」
「まあね」
「この前の定期テストで数学と化学と他いくつか赤点叩き出しても気にしない、と」
「なんで知ってるの。どうせ、音大入試には理系科目使わないからいいの。英語と国語だけ出来てれば」
「音楽の道以外考えてないけど、そこに行けなくなったらどうするか考えてる?」
ぴたり。譜読みをしながら太ももを叩いていた瑠璃の指が止まる。
「中三以来目立った戦績はないわけだけど、『高二までに全国大会で賞取ってきなさい。入賞できないとこの先食べていける見込みはない。取れなければ音大は諦めましょう』っていう先生の指令を今学年中に達成しなくてはならない。実際、苦しいでしょ」
「だから。なんで知ってるの」
怪訝な顔をする瑠璃。笑ってごまかす私。かちりとMDが切られ、ぱさりと楽譜が閉じられる。ゆっくりと視線が交わって、瑠璃の大きな瞳と見つめあった。
「中学まで優勝経験はある。だから、不可能ではない」
「高校生になると音大志望者ばかりになるから、コンペ通過は今まで以上に大変だって散々言われたよね?」
「分かってる。中学生と高校生には壁があって、それを越えられるかが正念場だって。実際、去年の夏は越えられなかった。でも、諦めるわけにはいかない」
「誰のために?」
「自分のために決まってる」
「そうだね」
瑠璃は灰色の表紙を見つめ、題字をゆっくりと人差し指でなぞる。固い指先の肉は爪を守るため。まだまだ綺麗な楽譜も、次第に表紙に小さな傷がつき譜面への書き込みが増え、どんどん馴染んでいくのだ。
きっと瑠璃が一番大事にしたいのは上手にピアノを弾く自分自身。聴衆といえば審査員のことしか意識になかった。結局私も、分かりきったことを確認したにすぎない。
再び沈黙の時間が訪れる。向かいの壁に掛けられた時計を見ると、休み時間はまだ二十分もあった。このまま今日もまどろんで終わりか。周りはきゃいきゃいと賑やかなのに瑠璃ときたら……あれ? あそこにいるのは東屋《あずまや》くんではなかろうか。
たくしあげたワイシャツの袖から覗く腕は筋肉質かつ日焼けしていて、しかし賢そうな顔つきをしている。東屋くんは瑠璃を見つけると駆け寄ってきた。足音に気が付いたのか瑠璃も顔を上げる。
「元永。化学の鎌田先生がさっきクラスに来て、元永のこと探してたよ」
いかにも人懐っこそうな顔した男子生徒、もとい東屋くん。瑠璃は返事をした。「そ。どうも」見本のような仏頂面である。
確か東屋くんは瑠璃のクラスの学級委員だった。連絡事項を伝えてくれる友人もいない瑠璃だから彼が来たのだろう。帰っていいよと言わんばかりに目をそらす瑠璃。しかし、彼は立ち去ろうとしない。何か言いたげに瑠璃の横顔と楽譜を交互に見つめていた。
「今年はどんな曲を弾いてるの?」
だいたい瑠璃と同じ目線の高さ、東屋くんは中腰になって楽譜を指す。
「ブラームス、ラプソディー第一番ロ短調」
「有名な曲だね。そっか、コンクールの時期か。基本的なスケジュールは変わってないんだ」
「そうね。東屋くんが習ってたころと一緒かも」
「へえ。今でも矢須さんとかとリハ会するの?」
「しない。あの子やめたから。私と東屋くんがいた代のメンバーはもう私しかいないよ」瑠璃は肩をすくめる。「皆弱いから。残ったのは私だけ」
東屋くんの大きな肩がぴくりと震えた。私は動かずそのまま、二人の会話に耳を傾ける。
「芸事ってさ、才能ないとどんどん落とされる。高校生にもなれば顕著で、今までなんとなく弾いててもそれなりになってた人たちは、落ちる。で、辞める。そういう負け犬を追い出すことで芸術は高みへ到達する。あの教室には負け犬が多かった。負け犬じゃないのは私だけだったの」
瑠璃が譜面を擦り合わす音が私たちの間に落ちていく。
「で? 用は済んだでしょ? とっとと戻れば」
東屋くんは呆けた顔で固まっていたが、そのうちに錆びた機械が動くみたいにゆっくりと立ち上がった。
「……一つだけ、教えて。俺とグループレッスンやってた時代は楽しくなかった? いらついてた? ずっと」
「レベルが違うのは昔から分かってたでしょ?」
「そう、だね」
はは、とひきつらせた顔は青白い。東屋くんはそのままとぼとぼと去っていった。
こうして再び二人きりになった。瑠璃は顔を上げ周囲を確認し、何食わぬ顔して譜面に再び没頭し始める。
「ねえ。東屋くんって、瑠璃の知り合いでしょ? 小六までピアノ教室一緒で仲良かったじゃない」
「随分と前に辞めていったけどね。サッカーに専念するとか言って。今はラグビーだっけ? 何にも続けられないのかしらね」
まるで虫けらでも見るような目だ。隠そうともしない嘲笑に私の心が冷える。
「瑠璃」
掌から繰り出した一撃は瑠璃の右頬に当たって、吹き抜けに乾いた音が響き渡る。ぐらり、と私も殴られたように視界が揺れる。
「な、っにすんの!?」
頬を押さえ唇を曲げる瑠璃に、私は言った。
「これ以上むなしい気持ちにさせないでくれるかな。あと、痛い。……教えてあげる。わがままが通じるのは子どもと天才だけだよ。早く大人になってよ」
さて、言葉の意味を理解するのに、この子どもは何年かかっただろう。
「勉強の邪魔なんだけど」
「ごめん。承知してる。でも頼む、昼練出てくれないかな」
「どうして私が」
ふてくされている女子は瑠璃。首を掻き苦笑いする男子は東屋くん。ああ、雪がちらついてるなあ、どうりで冷えるはずだ……と天井を見上げている女は私。だって、出る幕ではないし。
「昼休みや放課後までさ、みんなで練習やってるんだよ。元永が来るのをみんな待ってる。忙しいのは分かってるけど、元永にとってもクラスに馴染むってのは悪いことじゃないよ」
「みんなって誰。男子は適当に突っ立ってるだけでしょ? 女子、特にソプラノあたりが張り切ってさ。アルト声小さい、男子口開け。そうやって朝も揉めてたよね。ああいうのやめてくれる? 雰囲気悪くなる」
私は瑠璃を見る。マフラーに顔の半分を隠しているが、不機嫌さは全く隠れていない。抉るような視線を東屋くんに向けている。頑張れ東屋くん。
合唱祭がすぐそこに迫っている。瑠璃たちのクラスでも練習が熱心に行われていて、優勝しようと意気込んでいた。ところが、瑠璃は朝・昼・放課後の練習をすべて欠席している。今だってお昼休み真っ最中なわけだけど、瑠璃はチャイムが鳴ると同時にアトリウムにやってきていた。『練習? 伴奏やってるわけじゃないし音程はちゃんと取れてるから、私一人欠けたくらい問題ないでしょ?』というのが瑠璃の言い分。クラスメイトが納得していないのは言わずもがな。そしてついに学級委員の東屋くんが説得しにきたのだ。絶対音感を持っており記憶力も悪くない瑠璃だから、歌うのには不自由しない。けど、ピアノと違って合唱祭はソロでない。協力しなければならない。
「あと一週間なんだ。頼むよ」
「私のピアノコンクール本選も来週日曜だけどね。全国大会出場が懸かってる」
「うん。元永がピアノ上手いのは俺、よく知ってるよ。応援してる。合唱練だって、音楽の授業中見てたから分かるよ。ばっちり歌えてるって。でも、せめて昼練だけでいいからさ。頼むよ。昔一緒にピアノ弾いたよしみと思って、クラスのためと思ってさ」
東屋くんは勢いよく首を垂れた。鍛えられた大きな図体が小さく見える。「こんな人に頭下げる必要ないよ」と私は声をかけてみたけど、律儀な彼は顔を上げようとしない。
「私が悪者みたいじゃない」
詰問するような瑠璃の口振り。しかし、瑠璃の瞳は揺れていた。
双方ぴくりとも動かず、沈黙の時間ばかりが過ぎていく。
「顔上げてよ。……分かったから」
やっと沈黙を破ったのは瑠璃だった。瑠璃は立ち上がって伸びをする。
「ただし昼休みだけね」
「ありがとう」
人のいい東屋くんは顔をあげて笑った。ほっとしているみたいだ。瑠璃が一方的に悪いのにね。
「ちょうど今も教室で練習してるんだよ。行こう?」
「分かった。早速――」
「元永さん!」
飛んできた鋭い怒声。振り返れば、目を吊り上げた女子が一人、立っていた。
「何? 私たち戻るところで」
「遅い! 東屋くんも遅い! 昼終わるよ!」
怪訝な顔をした瑠璃へ噛みつかんばかりの勢いで、女子が甲高く叫ぶ。
「いつもいつも! 練習も出ないですぐ教室出ていって! 合唱祭優勝目指してみんなすっごく頑張ってるんだよ! 練習出てよ! 元永さんみたいな不真面目な人のせいでみんなテンション下がってんの! 練習出てよ!」
言いたいことが相当溜まっていたのだろう。肩で息をする女子。ソプラノパートのリーダーだったな、と私は思い至る。
突然のことに、東屋くんは硬直していた。瑠璃はというと、彼女の言葉にじっと耳を傾けていたが、相対する彼女が深呼吸するのを見計らい、ゆっくりと口を開く。
「出るよ、昼練は」
「昼練だけ? は? ちょっと東屋くん。話が違う」
「元永、忙しいから……それに歌えているし」
「一人で歌えてたって集団になると違うでしょ!」
再び語気を強める女子に東屋くんは口を閉ざす。
「ピアノだっけ? 上手いらしいけどだからって練習に出ない理由にはならないから。みんなも部活ある中で一生懸命、時間つくって練習してるんだから! なめんな!」
「……うん。で、言いたいことは以上?」
「は?」
「部活って言ったって、この高校には全国大会出るような強い部活ないよね。少なくとも私の記憶にはないんだけど。合唱祭だってさ、結局は校内だけの話でしょ? 小さい。本当に小さい話だよね」
冷たい響きを持った瑠璃の言葉が、静まりかえった空間に投げられる。
「ちょっと、元永」
「優勝したところで人生決まるわけでもない。クラスの団結力を高めたところで、卒業しちゃえば縁が切れる。正直、合唱祭に励む心が私には理解できない」
さっと白くなるパートリーダーの顔。
「元永! それは言い過ぎ」
「大丈夫だよ東屋くん。説明しないほうが駄目でしょ、分かってくれない相手には」
事前に言っておくべきだったけど。そう前置きしつつ、瑠璃は続きを語り出す。その肩は震えていた。
「私には来週、ピアノコンクールの本選会が控えている。これがきっと、高校二年生最後の大会になる。人より上手くなければ弾く価値はない。私は音大に行ってプロになることを目指しているんだから。合唱祭? クラスの連携? つまんないこと言わないでよ。普段は私のことをいないものとして扱っておいて、こういうときにだけ仲間云々ほざくのはおかしくない?」
「ほざく、って……!」
「じゃあそれとも、何? 私がクラスの練習に朝、昼、放課後出ます。クラスが優勝……優勝じゃなくてもいいや、とりあえず合唱祭終えます。私がコンクールでブラームス弾きます。落選しました。でも、クラスで合唱祭頑張ったし、クラスの団結深まりました。かけがえのない友人が出来ました。わーいおめでとう、めでたしめでたし、って?」
瑠璃はぎゅっと、こぶしを握る。
「なわけないでしょ! ふざけんな!」
叫び声はガラス天井を突き破るように、アトリウム中に響きわたった。目の前の女子に負けず劣らず、いや、女子よりも大きな声で、瑠璃は怒りを爆発させる。
「なめんな! 私はあんたたちと違ってコンクールにこれからの人生賭けてんだ! 私が失敗したらどうしてくれる! 責任とるのか! どうなの、ねえ!」
「元永! 落ち着いて」
「うるさい! 放せ!」
東屋くんに掴まれた右手首を振り払おうとする瑠璃。
「いったん落ち着いて。それから話そう」
「馬鹿にされといて落ち着けるか!」
掴まれたまま右手を大きく振り上げたかと思うと、瑠璃は、たくましい腕に思い切り噛みつく。短い悲鳴を上げた東屋くんの顔が苦痛に歪み、手が放される。一部始終に女子は目を見開いて硬直しているばかり。上気した瑠璃の唇からは血が垂れていた。
もはやこの場に瑠璃を止められるものはいない。瑠璃自身ですら、自らの行動を律することは出来なかった。
「瑠璃――」私だけが口を開く。「自分の人生は、自分で責任を負うものだよ。他人に負わせることは出来ない」
「そんなわけない。他人に振り回されるのに他人のせいなわけがない」
瑠璃はブレザーの袖で口元の血を拭い、私を睨んだ。
「最後のコンクール、弾いたのはブラームスのラプソディーだったね。一年くらいずっと弾いてきた曲で、だからかなり自信持ってた。けど、全国大会には行けなかった。クラスの練習出ても出てなくてもきっと、結果は変わらなかったよ」
「違う!」
目を腫らした瑠璃は、赤いドレス姿で叫んだ。
「長いこと『表現力』が課題だって言われ続けたけど、きっとその原因は自分自身の未熟さだね。未熟なくせに意固地。他人のことを考えない。感謝しない。優しくしない。ピアノ続けられたのだって、親や先生、同じ教室の仲間、いろんな人たちのおかげなのに。自分一人の力だって勘違いした」
「違う」
ぐしゃぐしゃの卒業証書を抱えたまま、制服姿で瑠璃は言った。
「他人よりも上手くなければ入賞できない。それは事実だけど、偏りすぎた。縛られすぎたよね。……いつからだろう。ピアノって楽しい、聴いてもらって嬉しい。初めて鍵盤に触れたときの感動を思い返さなくなったのは。審査員じゃない、一般の聴衆に届けるということを無視して、他人を負かすことばかりに固執して。『ピアノを弾きたい』っていう目的と『プロになる』って目標を取り違えるようになったよね」
「違う……」
ワンピースに茶髪姿の瑠璃は、消え入りそうな声で呟いた。
「失敗したのは、自分のせいだよ。才能は多少あったかもしれない。だから、勘違いしなければ、もう少し違う道が開けたかもしれない。そう私は思うんだ。……でも、もう遅い。私は私の手で、自分の道を断ってしまった」
黒髪に戻り、スーツに身を包んだ瑠璃はうつむいたまま、答えようとしない。
「答えられないよね。だって、何一つ違わないんだもの。さすがにもう、分かるでしょ? 今なら」
私の頬を涙が伝うころには目の前に、瑠璃《わたし》はもう、いなかった。
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