#かのじょのはなし

 一日経って、タクトと会ったことの熱が少し冷めて、はたとわたしは気づいてしまう。
 やばい、わたし何やってんだ? って。
 昨日はあんなにうれしかったのに、今になって考えれば、なんかこう、現実で会うのって違くないの? って。イラストの話がメインのはずが、あの場では結局その話題にはあんまり触れられなかったし、それどころか深山さんのあの視線。じっとりねっとり、こっちを品定めしてきたって顔だったなあって思い至った。
 推しとは、画面越しの関係だからこそよい。VTuberファンがよく言っていることが今さら腑に落ちた。会ってもないうちは、たとえ何をしても自由に応援できるのに、こうして一度顔を見ちゃうと、なんだか中の人が頭に残ってしまう。それはまあ別にいいとして。タクト、もとい大翔さんだって、もしかしたら冗談で声をかけたのに、真に受けてホイホイ出てきたわたしのことが、もしかして迷惑だったんじゃ……って。こりゃやらかしたな! と、後悔がじわじわと胸に広がる。
 よし、分かった。これからは周りを見習って、やっぱりファンとしての立場を守ろう。わたしは未成年の高校生だってのもあるし。DMとかメッセージも控えよう。自分から適度に距離を保って、余計な迷いも持たずに、画面の向こうから推し続ける。それが、わたしにとってもタクトにとっても一番だよね。
 そう決意して、あらゆるアカウントに鍵をかけてしばらく静かにしていようと決めた矢先だった。まさか、知らないアカウントから連絡が来るなんて。
 差出人は深山さん。しかもDiscaveから。いや、驚いたというより衝撃的だった。そのとき教室にいたし、椅子から落ちそうになったほどだ。
 深山さんからってのもびっくりポイントだけど、まず、Discaveなんて盲点もいいところ。定期テストがあったせいでゲームをしばらくしてなかったし、作業通話も別のアプリを使っていたから、通知なんてほとんどない。なのに、こんなタイミングで? しかもタクト……いや、大翔さんとのやりとりはTwibbitのDMがほとんどだった。なぜDiscaveからなんだ? と疑問が浮かんだけど、きっとタクトの参加型配信に一回だけ出たとき、彼がわたしのアカウントを保存していて、それを深山さんが見つけたのかもしれない。あるいは大翔さんから聞いたのか。
 メッセージには、大翔さんとのことについて詳しく知りたいとだけ書かれていた。用件はいたってシンプルだったが、その分そこはかとない重みが感じられた。
「あーうー……」
 教室だということも忘れて思わず声が漏れる。行きたくない。怒られそうだし、深山さんと直接会うなんて。そう思いながらも、教室でも家でも、親のアトリエでも、どこにいてもうめいてしまう。嫌だ、行きたくない。でも気になる。いやでもやっぱり行きたくない。行きたくない……。
「……ま、行くんだけどね!」
 好奇心には勝てなかった。それに、どんなことが待ち受けていても、命の危険がない限り、深山さんに会って話すべきことがある。怒られるかもしれないけど、それも覚悟の上だ。
 深山さんが指定した話し合いの場所は、喫茶店だった。しかも駅前のチェーン店じゃなくて、高級ホテルのロビーにあるお高い喫茶店だった。
 駅からは少し離れているそこまで、雨上がりの青い匂いが漂う道を歩いてホテルに向かう。このホテルには何度か親と来たことがあるけど、そのたびに別世界に迷い込んだような感覚がする。
 入り口をくぐれば、ダークブラウンを基調とした心地よい暗さの中、真ん中には一階ロビーから二階のレストランフロアを貫くらせん階段がそびえ立っている。それはまるで、黄金に輝く帯が天井へと舞い上がっていくようだった。
 深山さんの姿はちょうど階段近くの席にあった。わたしはマスクをずらして顔が分かるようにしつつ、少し緊張しながら近づくと、パソコンから顔を上げた深山さんと目が合った。
「すみません、お待たせしました」
「いいえ。こちらこそ、学校のある日だったのに。こちらのわがままでごめんなさいね」
 深山さんは優雅に微笑み、余裕たっぷりの表情でわたしを迎えてくれた。その微笑みには、どこか安心感のある温かさがあった。わたしはそっと席に着くと、すぐにラウンジスタッフが来た。深山さんは流れるように「ケーキセットをふたつ」と注文する。わたしはコーヒーだけにするつもりだったけど、深山さんのスマートな一手に封じられた。
「えっ、あの、えっと?」
「私のおごりだから。遠慮しないで。それとも甘いものは苦手だったかな」
「いえ、大好きです。じゃあ、お言葉に甘えて……」
 少しひやひやしつつも、わたしは深山さんから促されるままにコーヒーとモンブランを頼んだ。深山さんは紅茶とショートケーキを選んでいた。注文が済むと、わたしたちはしばし無言で間合いを探るように黙った。周囲のカップの触れ合う微かな音が、やけに大きく感じられた。
「そういえば、お互いにきちんと名乗っていなかったかしら。改めて、こんにちは。深山詠美(よみ)です。今日は来てくれてありがとう」
「あ、はい。ええと、中津(なかつ)です。中津杏沙(あずさ)です。下の名前は杏子の杏とさんずいに少ないで、杏沙です」
 深山さんが名前とメールアドレスが書かれた名刺をくれた。わたしはそんなもの持ってなかったので、テーブルに指で書きながら伝える。
「杏沙ちゃんね。かわいい名前ね」
「どうも……」
 深山さんは穏やかに微笑んでいるけれど、その視線はわたしを通り過ぎ、どこか遠くを見つめているようだった。まだ何か言い出せない空気が漂っている。わたしもここに来るまでに何度も悩んだけれど、来ると決心したからって、特に何かを準備してきたわけじゃない。そんな自分に今さら腹が立つ。でも、今となってはどうしようもない。だから、わたしは意を決して言葉を切り出した。
「あの、深山さん」
「お待たせしました。ケーキセットでございます」
 わあ。タイミング悪いな! テーブルにおいしそうなケーキが置かれる。のどが渇いているわけでもないのに、わたしはコーヒーカップをくちびるに近づけた。カップの縁越しに見える深山さんの視線が気になって、往生際悪く言葉を選ぼうとしている自分がいた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
 そう言ったのは、深山さんだった。初めて会った時とは違う、とても感情に満ちた声だった。これにはたぶん、同情が含まれている。同情と……申し訳なさ。
「この間のこと。大翔に実際に会おうと持ちかけられて、困ったでしょう? 驚かせてしまって本当にごめんなさい」
 深山さんは、少し目を伏せながら静かにそう言った。まるで、わたしの心の中を察してくれているようなその表情と口調。なんなんだ、この状況は。怒られると思って身構えてきたのに、わたしの思い違いだったのかもしれない。
 深山さんの言葉には、冷たさや厳しさではなく、思いやりのある重みが詰まっているように感じられる。これまで強ばっていた肩の力が、自然とゆっくり抜けていく。わたしは思わず「はあ……」と小さく息を吐いた。深山さんに本心を打ち明けてもいいかもしれない、そんな気持ちになった。
「わたしにも、よくないところがあるので。だから……大翔さんには会いません。あと、影山タクトの配信を見たりイラストをアップしたりするのもやめます」
「申し訳ないの? どうして?」
 わたしは少しだけ視線を落とし、息を整える。
「だって、お二人、付き合ってますよね?」
 深山さんは、わずかに驚いた顔を見せた後、「ええ」と頷いた。
「だから、深山さんに申し訳ないと思っていて。それは絶対、今日、言わなきゃって思ってきました」
 自分で決めたこととはいえ、口に出して言うと、改めて胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。自分が本当にタクトのファンであることを示したかったから、この場で伝えようと思っていたのに、言い終わると心がざわついてくる。視線をテーブルに落とし、両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
 だって、推しだったんだよ。約一年、楽しい時間とワクワクする瞬間をくれた存在。離れると決めたものの、気持ちは簡単に割り切れない。ああ、だめだ……今にも泣き出しそうになる。泣いたら恥ずかしいよ、と思いながらも、心が揺れ続ける。
「そうなのね……」
 深山さんの声は静かだった。「実はね、そのことで、あなたに提案があるの」
 促されて顔を上げると、深山さんは少し背筋を伸ばし、姿勢を正した。まるでこれから話すことがとても重要だと言わんばかりに。少しだけ目を伏せて何かを考えるような素振りを見せたあと、再びわたしに視線を向け、穏やかな口調で続けた。
「大翔の――影山タクトのイラストを、公認イラストレーターとして積極的に描いてくれないかしら?」
「はあ……え、いま、なんと」
「私は大翔のサポート役をしているの。マネージャーみたいなものかしら。それで、状況分析をすることも多いのだけど。あなたのイラストでタクトを知ったという人もたくさんいる。なによりも、あなたはタクトを好いてくれている。そんなあなたに、是非イベントものを中心に、イラストをあなたにお願いしたいの」
 聞き返すと、深山さんは丁寧に説明してくれた。その言葉に、衝撃が増した。だけど、公認なんて、大それたことをわたしに頼むなんて。これからは壁一枚挟んで推し活するって決めたばかりなのに、なんでこんなことになっているのか。
「わたしにできますかね……」ぐちゃぐちゃと混ざった不安から、自分でも驚くくらい不安げな口ぶりになってしまう。
「できるわ」深山さんはすかさず言葉を返してきた。「杏沙ちゃんのイラストは、タクトにとって大きな力になる。だから、私と一緒に彼を支えましょう。あなたにしか頼めないことなの」
 深山さんの言葉には、どこか不思議な説得力があった。しれっと杏沙ちゃんと呼ばれた驚きも、不思議と心地いい。自分が二人の力になれるなら、もう一度やってみようかという気持ちが、心の奥底からふつふつと湧き上がってくる。
 それでも、わたしにはまだ迷いがあった。日頃、親や友達から図太いと呆れ半分感心半分されているわたしでも、あのいざこざがあった後に即答できるほどの肝っ玉はない。
「でも……」と視線を落とし、言葉を探していると、深山さんがそっと微笑んだ。
「このお願いは大翔からのものでもあるの。彼は、あなたのイラストにいつも助けられているって。だから、心配しないで」
 その言葉は、まるで、わたしにとって暗闇に差し込む一筋の光のようだった。心がふわふわと浮かんでくるのを感じた。単純なのは分かってるけど、今までわたしが一生懸命に描いてきたイラストが、認められているという喜び。タクトや深山さんに、わたしのイラストが必要とされているんだって思うと、不安が薄れていって、その代わりに跳ね回りたくなるくらいの嬉しさが湧き上がってきた。
「実はね、次のコラボ企画で使えるイメージイラストが必要なの。よかったら早速、そのためのラフを、いくつか描いてみてもらえないかしら? もちろん依頼料はお支払するわ」
 依頼料か。プロに近い仕事で――責任が重い分、背筋が伸びるような気がする。でも、この提案を断る理由は探しても見つからなかった。むしろ『わたしが? 本当に?』という気持ちが徐々に大きくなる。イラストを描いて誰かの力になれるなんて夢みたいだ。
「わかりました」わたしはコーヒーをゆっくり飲み、深呼吸をして、決意を込めて言った。「プロを目指す身としても、この機会に精一杯、イラストを描きます!」
 何度もうんうんと頷いているわたしを見て、深山さんがふっと微笑んだ。その微笑みが、彼女をただの美人ではなく、もはやヴィーナスのように見せた。
「ありがとう、杏沙ちゃん。これから一緒にタクトと大翔を支えていきましょ」
「はい! 最初はいつ頃お渡しすればいいですか?」
 そうと決まれば、やりたいアイデアがあふれんばかりに浮かんでくる。どんな構図にしようか、どんな色を使おうか。背景も入れてみようかな。想像が膨らんで、早くも手が動き出そうとしている。
「杏沙ちゃん、アイデアが湧いてきたのね。それはとても素敵なことだけど、今はケーキをおいしく味わいましょう?」
「へっ、あっそうですね! つい……」
 その声にハッとして、わたしは目の前のケーキに視線を戻す。さっそくこの場でカバンからタブレットを出してイラストに取りかかりたくて仕方なかったけれど、深山さんの言葉に、飛び跳ねていた心がもとの位置に着地した。
「ゆっくり味わうことも、クリエイティブにはきっと大切な時間よ。ね?」
「はい!」
 わたしは深山さんの言葉を胸に刻みながら、目の前のモンブランにフォークを入れた。甘さが口の中で広がる。この味は一生忘れないだろう。
 そして、大翔さんへの連絡についても、深山さん公認でOKしてもらった。ありがとうございます。この気持ちに応えるためにも、これからは一段と気を引き締めて、タクトや大翔さんのために、そして深山さんのために全力で頑張ろう。わたしは心に誓った。
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