カフェオレと、もののけ。
かすれるような小さな笑いは、なんだか湯気を立てるケトルのようだった。
しゅんしゅん、と沸騰に合わせて噴き出るあの音。
まさしく吹き出した笑い。
「おや」
奥で白いものが動く。
いや、白い髪のひとだった。
老人なのかと思えば、思っていたより表情は若い。
メガネは丸っこく軽そうで、刈り上げた後ろ髪に、分けた前髪が揺れていた。
「人…だよね?」
あまりに当たり前の質問をしてくるので、いったいなにを聞かれているのか反応が遅れてしまった。
返事のタイミングを見失い、固まったままでいると、白髪の男性がにん、と、かるく笑う。
てっきりいらっしゃいませとか、こんにちはの返事が来るものだと思っていたので、なんだか戸惑ってしまう反応だ。
普段からコンビニとかスーパーとか百円均一とか、そういったところにしか縁のない身としてはどうしたらいいかわからない。
新鮮に感じながらも、初めての場所にうろたえていると、男性は奥の方から小さな折り畳み椅子を出してきた。
「まあ、ゆっくりしていって」
かしゃん。
古いながらも錆びてはいないステンレスのクッション付き折り畳み椅子が開かれ、私の前に置かれた。
クッションが赤いオレンジで、レトロかわいい。
言葉も選べずにいた私は、おとなしくすすめられた椅子に座り「…とうございます」と歯切れの悪いお礼を口にする。
緊張で最初の声が出ない。
男性は何やら奥に引っ込み、食器類だろうとわかる音をたてている。
調理でもするのかとぎょっ、としたが、見てみるとケトルを用意している。
あ、お茶くれるタイプのところだ…
申し訳なさと、なにやらぼったくられないだろうかと危機感が沸く。
ちょっとまって。高いお茶とかだされたらどうしよう…手持ちそんなにないよ…
しかし様子を見るに、好意で出してくれているように思う。
ひそかに「いざとなったら本を一冊買おう。安くてわかりやすいやつ…!」と心に決めて、やっと落ち着いて椅子に座りなおした。
見回すと天井まである棚や、そうでもない人間丈の本棚もある。
小さい本棚を重ねているものもあり、アメ色の木と無垢材のような薄い色の木が使われており、モザイク調だ。
天井にはミサンガに似た飾りから、ドリームキャッチャーのようなもの、トウガラシのキーホルダーなど、なにやら怪しいような、でもいやな印象は受けないものがいくつかぶら下がっていた。
壁には難しい模様の入ったリボンが延々と張られている。
手持無沙汰だし、スマホを少しだけ触ろうとすると、電波の様子がおかしい。
つながったり切れたりを繰り返しているため、電池があっという間に減っていく。
焦って電源を切ってしまった。
いちばん近い本棚の、かすれたピンクの本をとってみる。
ピンクの本かと思ったら、グラデーションで表紙はあずき色だ。
どうやら背表紙は日焼けで色落ちしてピンク色になったみたいだ。
古いものだと壊れやすそうだと思ったので、ゆっくりと開いてみる。
あんのじょう、ぴり、ぱりと音をたてる。でもちゃんと開くようだ。
中身は古い文字だ。
中学校の国語とかで、古文とか言われていそうな中身だ。よくわからない。
すぐに閉じて本棚に戻す。
しゅんしゅん。
ケトルのお湯がふきだす音だ。
こぽこぽと音がなり、ゆらりと濃い香りがしてくる。
本と、この深い香り。
さっきから探していた香りの正体を突き止める。
ああ、他人が挽いたコーヒー豆の香りをかぐのは、どれくらいぶりだろう。
父親は泥水を溶いたような、メーカーの良くわからない缶コーヒーを飲んでいた。
コンビニに行くと時間の経ったコーヒーの香りがしていた。新鮮な香りではなかったのだ。
気晴らしに行くのは公園で、毎日のルーティンにはコーヒーのあるお店がない。
自分へのご褒美なんて、コンビニスイーツを、月に一回。
500円ラーメンを、これも月に一回…なんて程度だ。
飲み物は腹に溜まらないから、普段の買い物からは自然と選択肢から外れる。
コーヒーなんて、ご縁がなかったわけだ。
しかもこんなに新鮮な、フルーツみたいな香りのするものを。
というか、コーヒーからフルーツの香りがするのはなんでだろう…。
カチャンカチャン。
コップに入った液体を、スプーンでかき混ぜている音がする。
たすたす。
くたびれたスリッポンで、男性がコーヒーを持ってきた。
片方は白くちいさな凹凸のあるマグカップ、もう片方は赤くてこぶりなカップだった。
男性は「はい」と何の気なしに赤いカップを差し出してくる。
私は反射的に受け取る。
私に合わせたのか、明るい色のかわいいマグカップ。
彼のコップと比べると小さいが、持ってみると意外にちょうどいい。
私が着ている赤と白の毛玉だらけなスタジャンともなんとなく似ているような、この本屋となじむような。
「えっと…いただいていいんですよね」
フッ、とまた男性はふきだした。
「変なこときくね」なんて言いながら、彼はすでにひとくちコーヒーを含んでいた。
「どうぞ。エチオピアの豆なんだって」
「えちおぴあ」
ピンとこないまま、許可は出たので少しふーふーと冷まし、ひとくちいただく。
ぐぐっと――普段は口にしない分――コーヒーの苦みがのどにくる。
でもそれはまろやかで、どこか梅のような、桃のような香りがする。
エチオピアの豆ってやつが出す独特の香りだろうか。
不思議なふしぎなコーヒーだ。
小学生のころ、今はどこに行ったかわからない母親とフリーマーケットに出かけたとき、出会った気のいいおっちゃんが、「こういうのは小さいころから慣れてたほうがいいんだよ!」とカフェオレをくれたことを思い出した。
子どもながらにうまかったもんだから、母親の制止も押しのけておかわり!と言った覚えがある…ん?
あ。
そうだ、あれが最初で最後のコーヒーで、あの時カフェオレだったし、今貰ったこれも
「カフェオレだ」
ミルクを温めたやわらかい香り。
フリーマーケットでは古本も置いてあった。
そうだこの香り、どこで出会ったのだろうと思ったら、母親と最後に出かけたときのものだ。
そんなに昔だったのか。
いまではカフェオレさえも、楽しめない身の上だったとは…
自分で自分を慰めつつ、今目の前にあるお楽しみをまた口に含む。
果物の香りと、まろやかなミルクと、こっくりくるコーヒーのお味。
思わず顔が溶ける。
おいしいもので、熱いにもかかわらずひとくち、またひとくちと小刻みに、何度も、口にはこぶ。
「ごちそうさまでした」
ほふう、と口から勝手にため息が出た。
満足感に満たされたため息に、目の前の男性がまた、にん、と笑う。
「おそまつさまでした」
最近リメイクされたアニメを思わせるセリフを聞きながら、私はハッとする。
「あ、あの、私、その、料金とかシステムとか、わかんなくって…」
ほっとしたのもつかの間。
この一杯にも好意?とはいえ料金がかかるのではないかと危惧した。
すると、男性は理解できない、という顔を見せた。
あせって次の言葉を繋げないでいると、男性は「ああ」と納得した様子で続けた。
「今のはサービス、サービス。君みたいな子、なかなか来ないし。」
どうやら好意でやっていてくれていたということで合っていたらしい。
ほーっとまた一息つく。
男性はまたゆっくりとコーヒーの続きを楽しむ。
なんだか、どうしたらいいかわからない空間になってしまった。
初めての場所での緊張でまた固まっていると、男性が話しかけてきた。
「ぼく、ただお。薬缶忠生 。ここの店主やってます」
「あえっ、と、鬼塚佳生 です…」
「佳生さん。どうやってここまで来たのかな」
「バイトの、帰りで。このコーヒーの香りがしたので、ついたどってしまって、ここに」
「え、コーヒーの香り。おかしいね、今日はこれが初めてのコーヒーのはずだけど?」
「え?」
じゃあ、コーヒーの香りを突き止めたと思っていたが、違う香りなのだろうか。
そもそも香りの強いものを自分が身に着けてはいないため、香りの正体には自信があったのだが。
「店に匂いが付いちゃってるのかなあ。そうだ、道順はどんなだった?」と聞かれて、裏路地を通って、神社っぽいところを通って、三毛猫を追うように香りをたどってきたことを告げた。
「そっか、神社と三毛猫ね。その三毛猫、常連さんなんだ」
あのルートかあ、なんてつぶやきながら店主は納得した表情でうなずく。
猫が常連だなんて、ずいぶんのんびりした本屋さんだなあ。
今のんびりしている自分が言えたことではないが。
引き続きのんびりしていると、なにやらちいさく、ぽふぽふぽふと音がする。
その音はだんだんと大きく、というよりは近づいてきているような気がする。
みょうな感覚を覚えるその音に、薬缶さんはいつも通り、と言う顔をしている。
なんだかよくわからないが、不安が押し寄せてくる。
ここはいったいどこだろう。
ちゃんと自分の近所だろうか。
帰り道は覚えているだろうか。
スマホのマップは頼りになるだろうか。電池、そろそろやばいし…。
嫌な予感がする。
「あの、薬缶さん」
「あ、忠生でいいよ、忠生で」
いいよ、とやわらかい表現をしておきながら、声の強さは有無を言わさないことが伝わってくる。二度も言うし。
またそれに不安を覚えながら、質問を続ける。
「ただおさん…ここって、住所で言うとどこでしょうか。帰り道が、ちょっと自信がなくて」
「住所。住所ねえ…なんといったものかな?」
てっきりすぐにどこであるかを教えてくれるものだと思っていたが、なにやら言い淀む様子に、確信を得る。
ここ、すっごく怪しいところだ!よくわかってないけど!
「ごちそうさまでした」
さっきまでのおどおどした人間はどこへやら、無事に帰るための防衛本能なのかやたら礼儀正しく笑顔とあいさつが出てきた。
日本人の一定数が鍛えられている処世術ではないだろうか。
コップを静かにすばやくカウンターに置き、きびすを返す。
「あ、今は座っといたほうが…」という店主の声も聞かずに入り口に行くと、扉が閉まっている。
おかしい。
そもそも扉さえもない解放された本屋だったはずだ。
しかも取っ手も扉の境目もわからない。
嫌な予感が最高潮になる。
突然、扉がもよもよっと動き出し、波打つ。
思わず叫んだが、その叫び声がまるで弦楽器の弦をひっかいたような甲高く気味の悪い悲鳴が出た。
「あれ、別の人間がいるの…?」
もよもよと動く扉は、ついにはしゃべりだした。
いや、いい加減扉だなんて表現はよそう。だって扉はしゃべらないし、勝手に動かない。
いやいや、今はしゃべる自動ドアと比べてる場合じゃないんだ。
扉がもふもふなのもおかしいし、アナウンスっぽくないのも、おかしい!
上から降ってくる声を確認するために見上げると、やはり扉ではないが、動きを見るにもふもふした柔らかい壁、くらいしかわからない。
現実を呑み込めないでいると、後ろから肩をポン、とかるくたたかれる。
「座っときなよ。ぬっへほうさん。どうも」
私の前へ忠生さんは進み出て、やわらかい壁とお話しする。
ふみふみ、とやわらかい壁は嬉しそうに波打つ。
「へへ。たまもさんの本、入ってますか」
「ああ、三冊だけ仕入れたよ。外に出そうか?」
「うん。お願いね」
忠生さんが今度は、やわらかい壁の隙間から店の表に出る。
ンゴゴ、と思いものを引きずる音がするので、なにやら運んでいるらしい。
「どうぞ」
「ありがとう」
ふー、とぬっへほうと呼ばれたものが息をつき、ぼふぼふと歩いていき、体を折り曲げる。
どうやら表には、巨体であるぬっへほうが座れるほどの大きな椅子を用意していたらしい。
失礼であるかも考えずに、まじまじと観察する。
夜で暗くはあるが、この本屋の光に照らされてぬっへほうの全貌がわかる。
丸くて大きくて、三人用の長椅子にひとりで座っている。
手と足は短くて、ほとんどが胴部分。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
「わあ。ありがとうね。ぼくこれ大好き」
短くも太い腕が、いつの間にかコーヒーを再度入れた忠生さんが運んできた大きめのマグカップをつかむ。
口元と思わしきところがすぼめられ、マグカップの中身をふーふーと冷ましている。
どうやらあそこが口らしいと、観察に集中していたからか冷静になってきた頭であたりを付ける。
さっきのフルーティーな香りとは違い、なにやら焦がした香りがする。キャラメルっぽいような。
ふう、とこれまた満足そうにぬっへほうは息をつく。
その時、目っぽいしわの部分がたれて溶ける。
どうやら、目はあそこらしい。
じろじろとみる私を気にせずコーヒーを楽しんでいたが、さすがに気になったのだろう。
ぬっへほうが声をかけてきた。
「きみも本を探しに来たの?」
着ぐるみなんじゃないかと途中から思っていたが、全身の動きと、そもそもコーヒーの飲み方がおかしい。
なんというか、そういう生物はいないとわかっていながら、どうやら認めざるを得ない状況のようだと、まだ受け入れられないが薄々感じている自分。自分で言ってて意味が分からない。
「や、コーヒーのいい匂いがしたんで…」くいっとマグカップを傾けるジェスチャーをしながらそう答えると、
「ああ、わかるよ。ぼく、ここのきゃらめるまきあーとが好きなんだ」と返事が返ってくる。
きゃらめるまきあーとってなんだろう。多分、コーヒーの一種だとは思うんだけど…。
「佳生さんもどうぞ。キャラメルマキアート」
いつのまにか隣に立っていた忠生さんは、小脇に本を三冊かかえたまま、これまた器用にいつのまにか淹れたてのコーヒーを差し出してくる。あの赤いマグカップだ。
先ほどから香っているキャラメル入りのもののようだ。
「わあ」
思わず声が出るビジュアルだった。
そのまま受け取って見てみると、白い泡にチェック柄のソースがかかっている。かわいい。
店先に突っ立ったまま白い泡を味わう。
どうやらミルクのようだ。
そのまますすると、甘く焦げたキャラメルの味がする。
ふむ、キャラメルのソースが入ったものを、キャラメルマキアートというのか?
あとは下の層にあるお気に入りのカフェオレをいただく。
店主の忠生さんは、さきほどと同じカフェオレそのままを白いマグカップで楽しんでいる。私も続いて楽しんでいる…
楽しんでいる?
何を能天気な。
意味の分からない化け物が出現したというのに、なにのんきに会話してコーヒーまでいただいているのだろうか。
というか初めての場所で二杯も普段飲まない飲料をいただくなんて、結構どうかしてる…。
やはり「不審に思われずに帰ろう」と打算していると、また思い直す。
母親と最後のお出かけ以来、こんなに心が楽しかったことなんて、あったかなと。
わくわくしながら自分の足で歩いて探索して、たどり着いた先でスマホも触らず部屋で一人絶望もせず、落ち着いた心もちでいられて。
やわらかい人柄に触れて。いや、人かどうかわからないのもいるんだけど…。
失うものは今更何もないと思ってこのお店に入ったんだ。
だったら、死んだような毎日に戻るより、何が起こるかわからない、けどホッとしてわくわくもするここにいるほうがいいんじゃないだろうか。
「それを飲んだらもう帰らないとね。心配されるよ。もうこんな、夜更けだし」
夢から覚めたような感覚が襲ってくる。
そうだ。ここは私の場所じゃない。
私の場所は、寂しくて絶望的でつまらないあの毎日だ。
心配する人もいないし。
「そうですね」
今度はそろそろとマグカップを忠生さんに「ごちそうさまでした」と言って返す。
赤い折り畳み椅子に置きっぱなしだったカバンを手に取る。
コンビニの廃棄予定だったビニールに包みの食べ物たちがカバンの中でかさかさと音をたてる。
まるでズタ袋でも持っているような気持ちになる。
中身はパンとかおにぎりで、そこまで重くないはずなのに、なぜかこのカバンを持つのがイヤになる。
私の現実がカバンを伝ってのしかかってくる。
とぼとぼと、自分でもちょっと驚くような足取りだった。
さっきまではあんなに足が軽かったのに、もう眠いのかな。コーヒーって眠れなくなるらしいけど。
「なつかれた…かな?」
ぬっへほうさんの前を通ると、彼にそう言われた。
気になってぬっへほうさんの顔を見てみると、その目線(?)は忠生さんを見ている。
意外そうな顔で忠生さんは私とぬっへほうさんを交互に見た。
「びっくりさせちゃったんじゃないかと思ってたけど、気に入ってくれた?」
「! は、はい。すっごく楽しかったし、おいしかったです」
「怖いよりもおいしかったなのかあ」と気の抜けたように忠生さんは笑った。
たしかにびっくりしたけど、忠生さんもぬっへほうさんも、悪意は感じない。
普段から悪意に触れてる分、ここは居心地がいい。
だから、忠生さんに言われて分かったけれど、私はここが気に入ったらしい。
どおりで足取りが重いわけだ…。
「またおいでよ。探すの、大変かもしれないけど」
「はい、また来ます!」
本も読まずに帰るのは変な感覚だったが、私はまた来ていいと言われて楽しみが増えた気持ちになり、さっきとは違う軽い足取りで帰路につく。
探すのが大変だなんてことはない。
大変だったとしても絶対に探し出す。
だってとても気に入ったから。
…なんか変なのいたけど。
変なのの謎を解明しないままなのはすっきりしなかったが、私は決意を胸に路地を歩く。
「あれ、三毛さん」
また三毛猫が、路地裏の途中からひょこりと出てきて変わらず前を歩いていく。
しばらく歩くと、ふと声がかかった。
「ね、かくれんぼの本屋は見つかった?」
どこからか声がする。しかも先ほどまで私がいたところのことではないか。
人を探してきょろきょろするも、人は見当たらない。
ただ変わらず立ったままの電灯と、よくわからないガラクタたちが点在するだけ。
「最近、あそこにたどり着けないのよね。あなた途中からいなかったし、あの本屋には着いたの?」
今度は注意していたので声がどこからかわかる。
下だ。
下を見ると、立ち止まってこちらを見ていた三毛猫と目が合う。
「…もしかしてだけど」
さっきからしゃべってるの、あなた?という意味で、じっと目を合わせる。
すると、さも当然、と猫がニンマリする。
「しゃべっているのはあたしさあ。あたしよりも変なのがいるところなんだから、驚くようなことでもないだろう?」
「…………それでも猫としゃべるのは初めてです…」
なんとか絞り出して声を出す。
たしかに変なのはいたんだよな。インパクトあるのにふわふわだった奴が。
でもこちらも大事件で、猫としゃべるなんて、なんなら死んでもないと思うようなことなんだよな。
「あの本屋、移動するから探すの苦労すんのよね」
「え、移動?」
「そ、かくれんぼするのよ。毎回大変。趣味だからいいんだけどね。今回あなたは見つけられたみたいね」
かくれんぼ?移動する本屋?
ピンとこないというか、要領をいまいち得られない内容だったので、とりあえず横に置いておく。
そういえば忠生さんが三毛猫は常連さんとか言っていたような。
「また今度にしよ~っと。さすがに疲れちった。またね~ん」
「さよなら…」
ゆら~ゆらとしなりながら、猫が先へ先へと歩いていく。
私はいまだに「猫、しゃべった…猫、しゃべったよね…」とぶつぶつ言いながら路地を進んでいく。
いろいろなことがありすぎて疲れてしまった。
帰りたくもない家だがさっさと床には着きたい。
狭い路地を出て一息つくと、そこは私の借りているアパートだった。
おや?たしか、バイト先の方が近い場所だったよね…。
それとも、いつの間にかアパート近くの場所まで来ていて、そこから路地に入ったんだろうか。
いやいや、毎日通う道を、見間違えるはずがない。
おかしい。絶対におかしい。
「・・・・・・・・・・・・・」
もう何も考えられない。
そもそもおかしいのは道だけじゃない。
住所をしゃべらない店主、やわらかくてとにかくでかい生き物、しゃべる猫…。
勢いでまた来ます!なんて言っちゃったのに、今更また行くのが不安になってきた。
急に現実のありがたさにホッとしている。
…でも、また行きたいのは、夢から覚めても本当らしい。
自分の気持ちはまだ本屋を思い浮かべていた。正しくはカフェオレの方だが。
アパートの扉を開ける。
匂いが何もしないように感じる。
色もモノクロのように見えて、明日を頑張ろうという気持ちさえもない。
カバンからパンとおにぎりを出すと、ふわっとコーヒーの香りがした。
怪訝に思ってカバンをひっくり返すと、挽きたて一杯分のコーヒーが入ったクラフト袋が出てきた。
そう一瞬でわかったのも、「一杯どうぞ」の一言と一緒に、薬缶忠生、とサインが入っていたからだ。
ここで「お店のサインじゃないんかい」とひとり突っ込んだが、気持ちは浮ついていた。
またあのコーヒーが飲める、なんて。
しゅんしゅん、と沸騰に合わせて噴き出るあの音。
まさしく吹き出した笑い。
「おや」
奥で白いものが動く。
いや、白い髪のひとだった。
老人なのかと思えば、思っていたより表情は若い。
メガネは丸っこく軽そうで、刈り上げた後ろ髪に、分けた前髪が揺れていた。
「人…だよね?」
あまりに当たり前の質問をしてくるので、いったいなにを聞かれているのか反応が遅れてしまった。
返事のタイミングを見失い、固まったままでいると、白髪の男性がにん、と、かるく笑う。
てっきりいらっしゃいませとか、こんにちはの返事が来るものだと思っていたので、なんだか戸惑ってしまう反応だ。
普段からコンビニとかスーパーとか百円均一とか、そういったところにしか縁のない身としてはどうしたらいいかわからない。
新鮮に感じながらも、初めての場所にうろたえていると、男性は奥の方から小さな折り畳み椅子を出してきた。
「まあ、ゆっくりしていって」
かしゃん。
古いながらも錆びてはいないステンレスのクッション付き折り畳み椅子が開かれ、私の前に置かれた。
クッションが赤いオレンジで、レトロかわいい。
言葉も選べずにいた私は、おとなしくすすめられた椅子に座り「…とうございます」と歯切れの悪いお礼を口にする。
緊張で最初の声が出ない。
男性は何やら奥に引っ込み、食器類だろうとわかる音をたてている。
調理でもするのかとぎょっ、としたが、見てみるとケトルを用意している。
あ、お茶くれるタイプのところだ…
申し訳なさと、なにやらぼったくられないだろうかと危機感が沸く。
ちょっとまって。高いお茶とかだされたらどうしよう…手持ちそんなにないよ…
しかし様子を見るに、好意で出してくれているように思う。
ひそかに「いざとなったら本を一冊買おう。安くてわかりやすいやつ…!」と心に決めて、やっと落ち着いて椅子に座りなおした。
見回すと天井まである棚や、そうでもない人間丈の本棚もある。
小さい本棚を重ねているものもあり、アメ色の木と無垢材のような薄い色の木が使われており、モザイク調だ。
天井にはミサンガに似た飾りから、ドリームキャッチャーのようなもの、トウガラシのキーホルダーなど、なにやら怪しいような、でもいやな印象は受けないものがいくつかぶら下がっていた。
壁には難しい模様の入ったリボンが延々と張られている。
手持無沙汰だし、スマホを少しだけ触ろうとすると、電波の様子がおかしい。
つながったり切れたりを繰り返しているため、電池があっという間に減っていく。
焦って電源を切ってしまった。
いちばん近い本棚の、かすれたピンクの本をとってみる。
ピンクの本かと思ったら、グラデーションで表紙はあずき色だ。
どうやら背表紙は日焼けで色落ちしてピンク色になったみたいだ。
古いものだと壊れやすそうだと思ったので、ゆっくりと開いてみる。
あんのじょう、ぴり、ぱりと音をたてる。でもちゃんと開くようだ。
中身は古い文字だ。
中学校の国語とかで、古文とか言われていそうな中身だ。よくわからない。
すぐに閉じて本棚に戻す。
しゅんしゅん。
ケトルのお湯がふきだす音だ。
こぽこぽと音がなり、ゆらりと濃い香りがしてくる。
本と、この深い香り。
さっきから探していた香りの正体を突き止める。
ああ、他人が挽いたコーヒー豆の香りをかぐのは、どれくらいぶりだろう。
父親は泥水を溶いたような、メーカーの良くわからない缶コーヒーを飲んでいた。
コンビニに行くと時間の経ったコーヒーの香りがしていた。新鮮な香りではなかったのだ。
気晴らしに行くのは公園で、毎日のルーティンにはコーヒーのあるお店がない。
自分へのご褒美なんて、コンビニスイーツを、月に一回。
500円ラーメンを、これも月に一回…なんて程度だ。
飲み物は腹に溜まらないから、普段の買い物からは自然と選択肢から外れる。
コーヒーなんて、ご縁がなかったわけだ。
しかもこんなに新鮮な、フルーツみたいな香りのするものを。
というか、コーヒーからフルーツの香りがするのはなんでだろう…。
カチャンカチャン。
コップに入った液体を、スプーンでかき混ぜている音がする。
たすたす。
くたびれたスリッポンで、男性がコーヒーを持ってきた。
片方は白くちいさな凹凸のあるマグカップ、もう片方は赤くてこぶりなカップだった。
男性は「はい」と何の気なしに赤いカップを差し出してくる。
私は反射的に受け取る。
私に合わせたのか、明るい色のかわいいマグカップ。
彼のコップと比べると小さいが、持ってみると意外にちょうどいい。
私が着ている赤と白の毛玉だらけなスタジャンともなんとなく似ているような、この本屋となじむような。
「えっと…いただいていいんですよね」
フッ、とまた男性はふきだした。
「変なこときくね」なんて言いながら、彼はすでにひとくちコーヒーを含んでいた。
「どうぞ。エチオピアの豆なんだって」
「えちおぴあ」
ピンとこないまま、許可は出たので少しふーふーと冷まし、ひとくちいただく。
ぐぐっと――普段は口にしない分――コーヒーの苦みがのどにくる。
でもそれはまろやかで、どこか梅のような、桃のような香りがする。
エチオピアの豆ってやつが出す独特の香りだろうか。
不思議なふしぎなコーヒーだ。
小学生のころ、今はどこに行ったかわからない母親とフリーマーケットに出かけたとき、出会った気のいいおっちゃんが、「こういうのは小さいころから慣れてたほうがいいんだよ!」とカフェオレをくれたことを思い出した。
子どもながらにうまかったもんだから、母親の制止も押しのけておかわり!と言った覚えがある…ん?
あ。
そうだ、あれが最初で最後のコーヒーで、あの時カフェオレだったし、今貰ったこれも
「カフェオレだ」
ミルクを温めたやわらかい香り。
フリーマーケットでは古本も置いてあった。
そうだこの香り、どこで出会ったのだろうと思ったら、母親と最後に出かけたときのものだ。
そんなに昔だったのか。
いまではカフェオレさえも、楽しめない身の上だったとは…
自分で自分を慰めつつ、今目の前にあるお楽しみをまた口に含む。
果物の香りと、まろやかなミルクと、こっくりくるコーヒーのお味。
思わず顔が溶ける。
おいしいもので、熱いにもかかわらずひとくち、またひとくちと小刻みに、何度も、口にはこぶ。
「ごちそうさまでした」
ほふう、と口から勝手にため息が出た。
満足感に満たされたため息に、目の前の男性がまた、にん、と笑う。
「おそまつさまでした」
最近リメイクされたアニメを思わせるセリフを聞きながら、私はハッとする。
「あ、あの、私、その、料金とかシステムとか、わかんなくって…」
ほっとしたのもつかの間。
この一杯にも好意?とはいえ料金がかかるのではないかと危惧した。
すると、男性は理解できない、という顔を見せた。
あせって次の言葉を繋げないでいると、男性は「ああ」と納得した様子で続けた。
「今のはサービス、サービス。君みたいな子、なかなか来ないし。」
どうやら好意でやっていてくれていたということで合っていたらしい。
ほーっとまた一息つく。
男性はまたゆっくりとコーヒーの続きを楽しむ。
なんだか、どうしたらいいかわからない空間になってしまった。
初めての場所での緊張でまた固まっていると、男性が話しかけてきた。
「ぼく、ただお。
「あえっ、と、
「佳生さん。どうやってここまで来たのかな」
「バイトの、帰りで。このコーヒーの香りがしたので、ついたどってしまって、ここに」
「え、コーヒーの香り。おかしいね、今日はこれが初めてのコーヒーのはずだけど?」
「え?」
じゃあ、コーヒーの香りを突き止めたと思っていたが、違う香りなのだろうか。
そもそも香りの強いものを自分が身に着けてはいないため、香りの正体には自信があったのだが。
「店に匂いが付いちゃってるのかなあ。そうだ、道順はどんなだった?」と聞かれて、裏路地を通って、神社っぽいところを通って、三毛猫を追うように香りをたどってきたことを告げた。
「そっか、神社と三毛猫ね。その三毛猫、常連さんなんだ」
あのルートかあ、なんてつぶやきながら店主は納得した表情でうなずく。
猫が常連だなんて、ずいぶんのんびりした本屋さんだなあ。
今のんびりしている自分が言えたことではないが。
引き続きのんびりしていると、なにやらちいさく、ぽふぽふぽふと音がする。
その音はだんだんと大きく、というよりは近づいてきているような気がする。
みょうな感覚を覚えるその音に、薬缶さんはいつも通り、と言う顔をしている。
なんだかよくわからないが、不安が押し寄せてくる。
ここはいったいどこだろう。
ちゃんと自分の近所だろうか。
帰り道は覚えているだろうか。
スマホのマップは頼りになるだろうか。電池、そろそろやばいし…。
嫌な予感がする。
「あの、薬缶さん」
「あ、忠生でいいよ、忠生で」
いいよ、とやわらかい表現をしておきながら、声の強さは有無を言わさないことが伝わってくる。二度も言うし。
またそれに不安を覚えながら、質問を続ける。
「ただおさん…ここって、住所で言うとどこでしょうか。帰り道が、ちょっと自信がなくて」
「住所。住所ねえ…なんといったものかな?」
てっきりすぐにどこであるかを教えてくれるものだと思っていたが、なにやら言い淀む様子に、確信を得る。
ここ、すっごく怪しいところだ!よくわかってないけど!
「ごちそうさまでした」
さっきまでのおどおどした人間はどこへやら、無事に帰るための防衛本能なのかやたら礼儀正しく笑顔とあいさつが出てきた。
日本人の一定数が鍛えられている処世術ではないだろうか。
コップを静かにすばやくカウンターに置き、きびすを返す。
「あ、今は座っといたほうが…」という店主の声も聞かずに入り口に行くと、扉が閉まっている。
おかしい。
そもそも扉さえもない解放された本屋だったはずだ。
しかも取っ手も扉の境目もわからない。
嫌な予感が最高潮になる。
突然、扉がもよもよっと動き出し、波打つ。
思わず叫んだが、その叫び声がまるで弦楽器の弦をひっかいたような甲高く気味の悪い悲鳴が出た。
「あれ、別の人間がいるの…?」
もよもよと動く扉は、ついにはしゃべりだした。
いや、いい加減扉だなんて表現はよそう。だって扉はしゃべらないし、勝手に動かない。
いやいや、今はしゃべる自動ドアと比べてる場合じゃないんだ。
扉がもふもふなのもおかしいし、アナウンスっぽくないのも、おかしい!
上から降ってくる声を確認するために見上げると、やはり扉ではないが、動きを見るにもふもふした柔らかい壁、くらいしかわからない。
現実を呑み込めないでいると、後ろから肩をポン、とかるくたたかれる。
「座っときなよ。ぬっへほうさん。どうも」
私の前へ忠生さんは進み出て、やわらかい壁とお話しする。
ふみふみ、とやわらかい壁は嬉しそうに波打つ。
「へへ。たまもさんの本、入ってますか」
「ああ、三冊だけ仕入れたよ。外に出そうか?」
「うん。お願いね」
忠生さんが今度は、やわらかい壁の隙間から店の表に出る。
ンゴゴ、と思いものを引きずる音がするので、なにやら運んでいるらしい。
「どうぞ」
「ありがとう」
ふー、とぬっへほうと呼ばれたものが息をつき、ぼふぼふと歩いていき、体を折り曲げる。
どうやら表には、巨体であるぬっへほうが座れるほどの大きな椅子を用意していたらしい。
失礼であるかも考えずに、まじまじと観察する。
夜で暗くはあるが、この本屋の光に照らされてぬっへほうの全貌がわかる。
丸くて大きくて、三人用の長椅子にひとりで座っている。
手と足は短くて、ほとんどが胴部分。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
「わあ。ありがとうね。ぼくこれ大好き」
短くも太い腕が、いつの間にかコーヒーを再度入れた忠生さんが運んできた大きめのマグカップをつかむ。
口元と思わしきところがすぼめられ、マグカップの中身をふーふーと冷ましている。
どうやらあそこが口らしいと、観察に集中していたからか冷静になってきた頭であたりを付ける。
さっきのフルーティーな香りとは違い、なにやら焦がした香りがする。キャラメルっぽいような。
ふう、とこれまた満足そうにぬっへほうは息をつく。
その時、目っぽいしわの部分がたれて溶ける。
どうやら、目はあそこらしい。
じろじろとみる私を気にせずコーヒーを楽しんでいたが、さすがに気になったのだろう。
ぬっへほうが声をかけてきた。
「きみも本を探しに来たの?」
着ぐるみなんじゃないかと途中から思っていたが、全身の動きと、そもそもコーヒーの飲み方がおかしい。
なんというか、そういう生物はいないとわかっていながら、どうやら認めざるを得ない状況のようだと、まだ受け入れられないが薄々感じている自分。自分で言ってて意味が分からない。
「や、コーヒーのいい匂いがしたんで…」くいっとマグカップを傾けるジェスチャーをしながらそう答えると、
「ああ、わかるよ。ぼく、ここのきゃらめるまきあーとが好きなんだ」と返事が返ってくる。
きゃらめるまきあーとってなんだろう。多分、コーヒーの一種だとは思うんだけど…。
「佳生さんもどうぞ。キャラメルマキアート」
いつのまにか隣に立っていた忠生さんは、小脇に本を三冊かかえたまま、これまた器用にいつのまにか淹れたてのコーヒーを差し出してくる。あの赤いマグカップだ。
先ほどから香っているキャラメル入りのもののようだ。
「わあ」
思わず声が出るビジュアルだった。
そのまま受け取って見てみると、白い泡にチェック柄のソースがかかっている。かわいい。
店先に突っ立ったまま白い泡を味わう。
どうやらミルクのようだ。
そのまますすると、甘く焦げたキャラメルの味がする。
ふむ、キャラメルのソースが入ったものを、キャラメルマキアートというのか?
あとは下の層にあるお気に入りのカフェオレをいただく。
店主の忠生さんは、さきほどと同じカフェオレそのままを白いマグカップで楽しんでいる。私も続いて楽しんでいる…
楽しんでいる?
何を能天気な。
意味の分からない化け物が出現したというのに、なにのんきに会話してコーヒーまでいただいているのだろうか。
というか初めての場所で二杯も普段飲まない飲料をいただくなんて、結構どうかしてる…。
やはり「不審に思われずに帰ろう」と打算していると、また思い直す。
母親と最後のお出かけ以来、こんなに心が楽しかったことなんて、あったかなと。
わくわくしながら自分の足で歩いて探索して、たどり着いた先でスマホも触らず部屋で一人絶望もせず、落ち着いた心もちでいられて。
やわらかい人柄に触れて。いや、人かどうかわからないのもいるんだけど…。
失うものは今更何もないと思ってこのお店に入ったんだ。
だったら、死んだような毎日に戻るより、何が起こるかわからない、けどホッとしてわくわくもするここにいるほうがいいんじゃないだろうか。
「それを飲んだらもう帰らないとね。心配されるよ。もうこんな、夜更けだし」
夢から覚めたような感覚が襲ってくる。
そうだ。ここは私の場所じゃない。
私の場所は、寂しくて絶望的でつまらないあの毎日だ。
心配する人もいないし。
「そうですね」
今度はそろそろとマグカップを忠生さんに「ごちそうさまでした」と言って返す。
赤い折り畳み椅子に置きっぱなしだったカバンを手に取る。
コンビニの廃棄予定だったビニールに包みの食べ物たちがカバンの中でかさかさと音をたてる。
まるでズタ袋でも持っているような気持ちになる。
中身はパンとかおにぎりで、そこまで重くないはずなのに、なぜかこのカバンを持つのがイヤになる。
私の現実がカバンを伝ってのしかかってくる。
とぼとぼと、自分でもちょっと驚くような足取りだった。
さっきまではあんなに足が軽かったのに、もう眠いのかな。コーヒーって眠れなくなるらしいけど。
「なつかれた…かな?」
ぬっへほうさんの前を通ると、彼にそう言われた。
気になってぬっへほうさんの顔を見てみると、その目線(?)は忠生さんを見ている。
意外そうな顔で忠生さんは私とぬっへほうさんを交互に見た。
「びっくりさせちゃったんじゃないかと思ってたけど、気に入ってくれた?」
「! は、はい。すっごく楽しかったし、おいしかったです」
「怖いよりもおいしかったなのかあ」と気の抜けたように忠生さんは笑った。
たしかにびっくりしたけど、忠生さんもぬっへほうさんも、悪意は感じない。
普段から悪意に触れてる分、ここは居心地がいい。
だから、忠生さんに言われて分かったけれど、私はここが気に入ったらしい。
どおりで足取りが重いわけだ…。
「またおいでよ。探すの、大変かもしれないけど」
「はい、また来ます!」
本も読まずに帰るのは変な感覚だったが、私はまた来ていいと言われて楽しみが増えた気持ちになり、さっきとは違う軽い足取りで帰路につく。
探すのが大変だなんてことはない。
大変だったとしても絶対に探し出す。
だってとても気に入ったから。
…なんか変なのいたけど。
変なのの謎を解明しないままなのはすっきりしなかったが、私は決意を胸に路地を歩く。
「あれ、三毛さん」
また三毛猫が、路地裏の途中からひょこりと出てきて変わらず前を歩いていく。
しばらく歩くと、ふと声がかかった。
「ね、かくれんぼの本屋は見つかった?」
どこからか声がする。しかも先ほどまで私がいたところのことではないか。
人を探してきょろきょろするも、人は見当たらない。
ただ変わらず立ったままの電灯と、よくわからないガラクタたちが点在するだけ。
「最近、あそこにたどり着けないのよね。あなた途中からいなかったし、あの本屋には着いたの?」
今度は注意していたので声がどこからかわかる。
下だ。
下を見ると、立ち止まってこちらを見ていた三毛猫と目が合う。
「…もしかしてだけど」
さっきからしゃべってるの、あなた?という意味で、じっと目を合わせる。
すると、さも当然、と猫がニンマリする。
「しゃべっているのはあたしさあ。あたしよりも変なのがいるところなんだから、驚くようなことでもないだろう?」
「…………それでも猫としゃべるのは初めてです…」
なんとか絞り出して声を出す。
たしかに変なのはいたんだよな。インパクトあるのにふわふわだった奴が。
でもこちらも大事件で、猫としゃべるなんて、なんなら死んでもないと思うようなことなんだよな。
「あの本屋、移動するから探すの苦労すんのよね」
「え、移動?」
「そ、かくれんぼするのよ。毎回大変。趣味だからいいんだけどね。今回あなたは見つけられたみたいね」
かくれんぼ?移動する本屋?
ピンとこないというか、要領をいまいち得られない内容だったので、とりあえず横に置いておく。
そういえば忠生さんが三毛猫は常連さんとか言っていたような。
「また今度にしよ~っと。さすがに疲れちった。またね~ん」
「さよなら…」
ゆら~ゆらとしなりながら、猫が先へ先へと歩いていく。
私はいまだに「猫、しゃべった…猫、しゃべったよね…」とぶつぶつ言いながら路地を進んでいく。
いろいろなことがありすぎて疲れてしまった。
帰りたくもない家だがさっさと床には着きたい。
狭い路地を出て一息つくと、そこは私の借りているアパートだった。
おや?たしか、バイト先の方が近い場所だったよね…。
それとも、いつの間にかアパート近くの場所まで来ていて、そこから路地に入ったんだろうか。
いやいや、毎日通う道を、見間違えるはずがない。
おかしい。絶対におかしい。
「・・・・・・・・・・・・・」
もう何も考えられない。
そもそもおかしいのは道だけじゃない。
住所をしゃべらない店主、やわらかくてとにかくでかい生き物、しゃべる猫…。
勢いでまた来ます!なんて言っちゃったのに、今更また行くのが不安になってきた。
急に現実のありがたさにホッとしている。
…でも、また行きたいのは、夢から覚めても本当らしい。
自分の気持ちはまだ本屋を思い浮かべていた。正しくはカフェオレの方だが。
アパートの扉を開ける。
匂いが何もしないように感じる。
色もモノクロのように見えて、明日を頑張ろうという気持ちさえもない。
カバンからパンとおにぎりを出すと、ふわっとコーヒーの香りがした。
怪訝に思ってカバンをひっくり返すと、挽きたて一杯分のコーヒーが入ったクラフト袋が出てきた。
そう一瞬でわかったのも、「一杯どうぞ」の一言と一緒に、薬缶忠生、とサインが入っていたからだ。
ここで「お店のサインじゃないんかい」とひとり突っ込んだが、気持ちは浮ついていた。
またあのコーヒーが飲める、なんて。
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