カフェオレと、もののけ。

こんなに人々を羨む日が来るとは思わなかった。

DVの父親に耐えかねて家出をし、友達の家を借りたり名義を借りながらアパートにやっとこぎつけた。
なりふり構っていられず決めたアパートはへんなおじさんや意味の分からないことを繰り返すおばさん、借りたものを返さないお兄さんで構成されている。

実家にいるときは、精神的な環境はともかく、よく考えれば今よりはいい生活をしていた。
ご飯はぎりぎり三食だった。父親の機嫌が悪い時は食べられなかったけれど。
ストーブがあって暖かかった。
暑い日にはクーラーがあった。
寝るところはベッドだった。
なんとか生活できる毎日だった。

現在はキャベツのみだったり、パスタに塩をかけただけの食事が続く毎日なので、道ゆく人が羨ましく思えた。
こういった気持ちは、恋人のいないクリスマスや、友達と予定の合わなかった正月だけだ。

毎日毎日、家で電気を使うのがもったいなくて外に出て歩く。
人々は遊びに出かけたり仕事の続きをしていたり、まっすぐ家に帰ったり。

羨ましいなあ。

家、あったかいんだろうなあ。

某昔話番組じゃあるまいし、と思いつつ、道行く人を眺める。

いや、あるまいしだなんて思ったけど、まさしくその番組通りじゃないか。

あったかいごはん、ふとん、家。にんげん(他人)っていいな。

そろそろ寝るだけの時間になり、私もアパートに帰る。




ただいま、なんて、小学校のころに言ったきりだろうか。

最後にただいまと言ったとき、お前なんて帰ってこなくていいんだよ。

と、冗談交じりの本気で父親に言われた時には、ただいまなんて言葉は恐怖の言葉でしかなくなった。

父親アイツのいないこの空間でも、「ただいま」なんて言ったことはない。

敷きっぱなしの布団に潜り込む。

悪い現実に目を閉じて、湿って寒気さえ感じるふとんに顔をしかめる。
歯磨きは出かける前に終わらせた。前は触っていたパソコンがないと、家事や雑務は自然と終わってしまう。

私の人生も、自然ときれいに終わってしまえばいいのに。





怒る叫び声で目が覚める。
父親と同じ目覚ましだ。

この嫌気の刺す目覚ましと別れたはずなのに、今日まで続いているのはどうしたことだろう。

薄い壁を通ってくる恐怖に身を潜めつつ、もそもそとバイトの支度を始める。
服は少ないのですぐに決まるし、家事も食事も簡単なものしかできないのですぐに終わる。

あとはただ玄関から一番遠い布団の中でくるまり、恐怖が去るまで待っていた。



玄関が静かになり、いそいそと第二弾の罵りあいが開幕される前にアパートをあとにする。

バイト先は、こき使われる、安い給料、以外に不満はない。
態度の悪い客は父親の何倍かましだし、店長の理不尽の回避も家で学んだことだ。

人生無駄ねえな、と思いつつ、仕事で精を出す日々だ。



廃棄予定の食べ物をほかのバイトの目を盗んで確保する。
まともな味が付いている食事だ。
いや、廃棄予定で機械に作らせた簡易的な食べ物が果たしてまともなのだろうか。

とはいえ、今の私にとってはまともなことに違いない。

労働基準法の崩壊した世界が書かれた本の中から出てきたような感覚。
あまりに労働時間が非現実的すぎてもはやバイト先は「童話のおはなし」区切りだ。
「ここわ ろうどうきじゅんほう の てきようされない せかい」とでも始まりそうなふざけたところだ。
白馬の王子は一向に来ない。

百円均一のお店で買った白い腕時計が、私の時給を重ねて数える。


バイトがおわった。
月々ワンコインで契約したスマホで今日もSNSを眺める。同じような時間に仕事を終えた同志たちにすこしだけ微笑む自分がいた。
中古のスマホなので、バイト先ではできるだけ電源を切り、この帰り道だけ使っている。
バッテリーの持ちが非常に悪い。だからと言っては電源につなぎっぱなしではスマホの寿命や電気代の心配につながる。

途中で「清貧」を謳った投稿が目に入り、気分が悪くなる。

SNSは良し悪しだ。自分を慰めるために始めたのに、不快に思う事柄が多すぎる現状では毒にしかならない。
けれど少しの慰めでも欲しい私は、やっぱりスワイプする手を止められない。

しかしふと、足が止まった。

なにかほこりっぽい香りがする。

どこかで香った記憶はあるが、ここ最近は縁がなさ過ぎたのか、なんの香りか思い出せない。
だけれど私を止めるこの香りはなんだろう。

仕事を終えた疲れより、仕事の解放感が強かった私は、香りをたどる探偵になってみることにした。

いつも通るはずの道のすみ、少し明るく感じるオレンジのちいさな街灯が並んだ、細い路地。

「こんな道、あったかな…」

記憶にはない路地だ。
昼間は狭くて薄暗いのだろう、夜はなぜか明るい。狭いから光がよく照るのだろう。

元が何に使われていたかわからない、点在するガラクタを避けて、奥へと入る。

行きずりに三毛猫と出会う。
私を避けるために立ち上がったと思ったが、同じ速度でその猫は私の前を歩いていく。
香りをたどる方向を確認しながら進もうとするが、猫は迷いなく道なりを進む。
時々猫が振り返り私の存在を確認する。

はて、どこかで会った猫だろうか。まったく覚えがない。
さりとて、猫の方も知り合いのように接してくることはない。

かさなる不思議に首を傾げつつ、小さな階段を上ったり、小さな神社だか仏閣だかわからない場所を通り過ぎ、やっと香りの濃い場所にたどり着いた。

そこは猫にとっては広場と言えて、私にとっては一軒家の玄関先のような狭い場所。

夜も更けてくるこの時間、周りはすっかり暗くて戸を閉じているのに、目の前にはほの明るい木造建築があった。

繊細な飾りのおかげで古臭い印象は受けず、その飾り達をまじまじとみる。
ほの明るい建物からの光で、あたたかな印象を残す装飾。

その装飾の終着点、入り口のすみにあった黒板を読み上げる。

「かくれんぼ本屋…?」

本になんて興味はない。
しかもこういう、こわざを効かせようとする本屋は、一癖ふたくせあるだろうし…
そう思いつつも、ここまで来てしまったことや、この香りによって自分の心が惹かれているのは間違いない。

ある意味何も失うものがない私は、思い切って店内へと歩を進める。

「こ、こんにちは~…」

しまった、今はこんばんはだ。

そう思いなおしたその時、クスッと小さな笑い声がした。
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