【FF14】【短編】英雄の涙に、借りっぱなしのハンカチ
大きなクジラの吐息に包まれた、海中のアーモロート。
むせるような湿気が砂から立ちのぼる一方で、光の届かない海底はひんやりとしていた。
潮の香りが鼻腔を掠める。空気を含んで生まれ変わったこの世界には、どこか清廉な空気が満ちている。
光の戦士は古代の街を歩く。
ある者にとっては故郷であり、ある者にはまったく目新しい場所だ。
暁の一員である英雄は、仲間たちとともにアーモロートの街路を歩いていた。
情報収集の最中、ふと視線の先――高くそびえる建物の最上階に、仲間には見えていない“影”が揺れた気がした。
胸の奥に、微かなざわめきが走る。
仲間たちの会話が遠のいていくのを感じながら、
英雄は吸い寄せられるように、その建物へと足を向けた。
そこには、エメトセルクがいた。
建物の縁に腰を下ろし、丸まった猫背のまま街を見つめている。
相変わらず、その背中には妙な哀愁が漂っていた。
英雄は何も言わず、そっと隣に座る。
街のほのかな明かりが青く灯り、空気は寒々しく感じられた。
エメトセルクは、来ることを許すが、歓迎も拒否もしない。
クリスタリウムにある星の間に来た時、彼はよく喋る。
様子を見に来て「よくやっている」とどこから目線なのかわからない称え方をする。
特に、愛の話題には強く反応した。
旅の間、英雄は何度もその交流に救われ、同時に息が詰まった。
旅は苦しくも、そして楽しいものだった。
これから先、エメトセルクとの関係は、決定的なものになる──そんな予感が胸をよぎる。
英雄は沈黙の中、自分の手荷物を整理した。
ヤ・シュトラからもらった香水のアトマイザー。
ウリエンジェからはお守り代わりのタロットカード。
サンクレッドは、リーンと一緒に選んでくれたハンカチを。
意外にも、アルフィノとアリゼーの双子は揃って丈夫な革手袋を選んでくれた。
水晶公――グ・ラハ・ティアからは、旅の途中で重宝した香草ケース。ここまでの簡易料理で何度も助けられた。
そして今――彼はここで囚われている。
英雄は手荷物からあるものを取り出し、猫背のまま街に意識を溶け込ませていた彼の視線に掲げた。
月光のように銀色に光る“何かの留め具”。
歴史を感じさせる装飾で、何に使われていたのか、英雄にはわからなかった。
暁のメンバーに聞いても、水晶公に聞いても、判明しなかった落とし物。
そうなると、持ち主は限られる。
「一流品だね」
エメトセルクは少し驚き、やがて目に納得の色を浮かべた。
「お前の方は、質など気にしないもののようだな」
そう言って彼が胸元から取り出したのは、見覚えのある、ポーション用の銀の栓。
漏れ防止の柔らかい部品も付いている。
「あ」
英雄はつい声を漏らす。
彼の眉がわずかに上がる。英雄は肩をすくめる。それだけで十分だった――お互い、うっかり間違えていたのだ。
きっと旅のどこかで、互いの持ち物を取り違えたのだろう。
「これはいったい何に使うものなんだ?」
英雄は銀の留め具を、煌めかせるようにエメトセルクへ差し出した。
「月で拾った」
普段なら、英雄が聞いてものらりくらりとかわすようなことを、今日はポロリと言った。
「イデアの部品だ」
どうやら、今日はいつもと違う気分らしい。
受け取るそぶりのない彼に、英雄はとりあえずその銀の留め具を握りしめ、膝の上に置いた。
なぜか英雄も、エメトセルクが所持していた自分の愛用品を、すぐには受け取る気になれなかった。
ちらりと視線を向けると、エメトセルクの目は遠くを見ていた。
その視線は、どこまでも遠い。
「どういう部品なんだ?」
「私が持つとなぜか決まって壊れる……
そんな繊細すぎる部品だ」
答えになっていない。
英雄には、冗談だとすぐにわかった。
彼らしい態度を見せたことで、英雄も深追いはやめる。
ふと、水面の色が沈んでいくのに気づく。――空ではない。けれど、夜が深まる気配は海の底でも同じらしい。
周囲の街灯が、暗がりを押し返すように強く光りはじめる。
そのコントラストの中で、英雄はエメトセルクの隣から、幻想じみた摩天楼を静かに見上げた。
暁のメンバーたちが、ちらりちらりと見えた。
ヤ・シュトラとウリエンジェは、すでに研究に取りかかっているようだった。
もう少し自由にさせておいたほうがいいかもしれない──そうも思う。
「あそこに戻らなくていいのか?」
彼は珍しく、皮肉もなく純粋にそう尋ねた。
思いがけない問いに、英雄は目をぱちくりとさせる。
「そうだね」
――しかし、そう言う気には、なれなかった。
闇の属性を好むアシエンでありながら、太陽の光のような目が、英雄を見つめた。
まるで、英雄の中にある“何か”を計っているかのように。
隠し事をしているわけではない。ただ、彼はいつも遠くを見ている。
それでも、その目があまりにも悲しそうで、胸が締めつけられた。
どうした? なにがあった?
――そんなことを聞ける状況でも、関係でもなかった。
きっと、彼が口にする内容の重さも深さも、英雄には想像できない。
長い時を生き、それでも壊れずにいられる人の苦痛など、抱えきれるものではないのだ。
「そうだなぁ……」
少し考えて、一拍置いた。
「あともう少し時間を置くよ。
もう何もかも、終わりそうだからね」
たくさんの時間を共有して過ごした。
暁の彼らとは急ぐようなこともない。
――そう。これは今だけだ。
数日もすれば、きっと崩れていく瞬間。
街に灯る青い光が目を通して、胸にまで染みていく。
「悠長なことだ」
エメトセルクの表情が一瞬だけ、わずかに動いた。
「私は……」
思っていることを、ただ言えばいい。
それだけなのに、喉が詰まって声にならない。
目からこぼれた涙は、止まる気配もない。
でも、言葉にしなければ、伝わらない。
「私は、この理想を叶えた世界が好きだ」
英雄は、自分でも驚いた。
どうして、目の前に広がる景色に涙するのか――
その理由を、自分で知った気がした。
「エメトセルク。
私、結構あんたのこと、気に入ってたんだ」
こぼれ続ける涙で目がかゆくなった英雄は、服の袖でそれを拭う。
「あんたは、たくさんの人の助けになっていた。
ガレアンの人々を救った。
去ってしまおうとする水晶公を止めた。
私と世界を、まだつなぎとめてくれている」
途切れがちな声。
それでも、エメトセルクは遮ろうとしなかった。
ただ、静かにこちらを見つめている。
「はっ。なにが助けた、だ。
私はそんなつもりないぞ。一切、微塵も。
だいたい、わかっているのか?
お前からすれば、走り回っているのは私たちアシエンの影響だろう」
「……わか、てる」
彼は確かに生きてきた。
そして、たくさんの人を助けた。
彼は“仕方なく片付けた”つもりでいて、
気づけば人を救っていた。
「世界を終わらせて、故郷のために統合しようとしている。
それを“良かった”なんて言うつもりはない。
でも……」
言葉より先に、涙がこぼれた。
「その理想へ向かって走るあなたの姿。
失われたものを取り戻そうとする背中。
そのすべてが――私の心を救ってるんだ!」
喉が焼けるほど熱い。
それでも、英雄の声は止まらなかった。
「誰が何を言おうと、
理想の世界を追い求めたあなたの姿が、
私の存在を認めてくれたんだ!」
胸の奥が、ひりひりと痛む。
「……私の助けられなかった人たちへの悲しみを、
あなたの生き様が、
その悲しみを認めてくれたの!」
独りよがりだと思った。
自分の中だけで完結した想い。
理想は叶わないと、わかっている。
それでも――叶わぬと知りながら追い続ける背中に、励まされたのだ。
エメトセルクと歩ける未来があったとしても、
……きっと求めすぎてしまう。叶わぬ理想ばかりを抱くから。
英雄の胸の内は、静かに諦めで染まっていった。
愛に満ちた世界を、英雄は夢見ていた。
親切な人がたくさんいて、みんなが助け合う。
それだけでいいはずなのに、現実は容赦がない。
湿った空気に、小気味よいスナップ音が響く。
エメトセルクがハンカチを自分の手元に呼び出して、英雄に差し出した。
英雄はおずおずと受け取り、そっと目元にあてる。
「まさか私のファンだったとはな」
いつもの調子。
それなのに、声の奥にわずかな揺れがあった。
さっきまで遠くを眺めていた目が、今はまっすぐこちらを見つめている。
まるで、英雄の心の底を確かめようとしているように。
「あんたの存在が、私を認めてくれているから。
きっとあんたのこと、忘れない。
忘れられない……ちくしょう」
英雄は、その目を真っ向から見つめる。
エメトセルクも、逸らさなかった。
「……そうか」
きゅっと口を結び、少し間を置いて――
鼻で笑った。
その笑い方。
彼がこの世界で初めて、英雄の“力”を必要としてくれたときと同じ。
英雄を抹消するのがほとんど目的だったとしても、わずかな期待を含んでいたあのときの笑い。
「お前の目から見た、私の世界は……」
言葉を切る。
なんと言えばいいのか、というより――
遠い故郷を思い出して、思考の波に身を預けているようだった。
「美しいよ」
その思考を、あえて言葉で遮る。
誰が何を言おうと、英雄は世界を信じている。
それが叶わない理想でも。
「……しんどいぞ」
哀れむような、どうしようもなさを含んだ表情で見つめてくる。
「信じ続けるのは、お得意だろうがな」
彼はそう言って、目を伏せた。
また思考に沈みこむ。
その横顔が、刹那的で、儚くて――美しい。
(この表情に心を持っていかれた人は先生に報告しなさい。
大丈夫、先生もだから。)
英雄は息を整え、
「信じない方が、もっとつらい」
と告げる。
つまり、私は信じ続ける――その意思表示だ。
「まっ……たく、その通りだな」
エメトセルクが英雄の言葉に同意するなんて、どうしたことだろう。
驚いて、英雄は思わず笑ってしまった。
今まで同意があっても、きっと表には出さなかった。
余計に関係を深めないようにという、そんな配慮。
あるいは、うっかり忘れてしまうほど、英雄の話に呆れているのかもしれない。
けれど――確かなこととして、彼は理想を追うことをやめなかった。
エメトセルクは、ゆっくり立ち上がった。
問答は、それで幕を下ろした。
「さっさと戻ったらどうだ。
私もここからいなくなる」
夕方の名残が、水底の片隅でまだ灯っていた。
エメトセルクは手をひらひらと振りながら、
どこか疲れたような仕草で歩き去っていく。
けれど、ふと立ち止まった。
「これからも、夢が破れ、理想が崩れる瞬間に出会うだろう。
自分を含めて、救いようのない存在が生きている朝を迎えるだろう。
それでもお前がやめないというのなら――
ずっと夢を見ていろ。
そうすれば、せめて私は……」
――私たちだけは眠れる。
「いや、なんでもない。
忘れろ」
エメトセルクは飲み込んだ言葉を押しとどめるように、眉間を指で押した。
「うん。私の心を救った存在の願いを叶えられるなら、
どんな壁だって乗り越えよう!」
英雄は、きっとエメトセルクの願いを叶えたかった。
そうしたいと思うだけの恩が、もうそこにあった。
「おやすみ!」
英雄のはつらつな掛け声に、彼はもう一度、軽く手を振る。
その手の振り方ひとつさえ、
英雄の心を認めてくれているようだった。
現れた暗闇の中へ、エメトセルクは静かに消えていく。
残されたのは、一人きりの、やわらかい余韻。
英雄は暁の仲間に会いたくなり、勢いのまま走り出した。
走るあいだ、ふと胸に浮かぶ。
――汚れや醜さを認めながら、それでも人を救おうとすること。
命の灯りを守ろうとする在り方。
そんな尊さに気づけない世界なんて、ごめんだ。
超特大のわがままだけれど、それでいい。
信じ続ける。
だって、ここは愛した世界なのだから。
おやすみ、世界。
おやすみ、英雄。
おやすみ、エメトセルク。
永遠に叶わなくても、私は夢を見る。
美しい世界の姿を、いつまでも祈り続ける。
みんなが幸せでありますように。
今日も健やかでありますように。
私は、ずっと祈っている。
――自分の願いは届かなくても、
誰かの願いならきっと支えられる。
それが、私だ。
暁の仲間たちはまだ散らばって情報収集中だった。
英雄はヤ・シュトラと合流する。
ヤ・シュトラは髪を払ってみせ、英雄に向けて目を細めた。
「彼と話はできた?」
全てを見透かすかのようなヤ・シュトラが、英雄に言葉と気遣いを投げかける。
英雄は思わずホッとし、顔が緩んだ。
「うん。
私だけすっきりして、申し訳ないけれど」
泣いて赤くなった英雄の目元には、後悔のない、前に進もうとする意志が宿っていた。
ヤ・シュトラはふと柔らかく微笑み、英雄の持っていたハンカチをそっと受け取り、魔法で冷水にさらす。
そしてその手で、ハンカチを英雄の目元に当てた。
「その様子だと、大丈夫そうね」
颯爽と背中を向け、仲間たちのもとへ合流していった。。
「ママってより、イケメンすぎないか……」
英雄のこぼした呟きは、海底よりも深く静かに沈んでいった。
***
雄雌を決める前夜。
情報整理のため、一旦クリスタリウムの自室に戻った英雄は、荷物の整理をしていた。
もう一度、暁のみんなからもらったものを手入れする。
「あ……」
エメトセルクに返し忘れた“イデアの部品”。
それを包んでいたエメトセルクのハンカチ。洗って一緒にまとめておいたものだった。
敵対者が涙を拭くためにくれたハンカチだと思うと、やっぱりおかしくて、少しこっ恥ずかしい。
英雄は思わず笑いながら、感情に任せて留め具とハンカチを手に取り、出口へと歩を進めた。
外の空気に当たろうと扉を開ける。
目の前には眉間のしわが目立つ怖い顔があり、英雄は短く悲鳴を上げた。
――エメトセルクが立っていた。
手には、上等な装丁の箱をぶら下げている。
「……忘れものだ」
ドアノブに箱を引っ掛け、去ろうとしたところを、ちょうど英雄が扉を開けてしまったのだった。
「わざわざ届けに?
アシエンが?」
あまりにおかしく感じた英雄は、警戒よりも思わず声が弾んだ。
そんな様子を見て、エメトセルクは「早く受け取れ」と急かす。
英雄は素直に受け取り、テーブルに運んだ。
美しい包装紙の手触りを確かめながら、そっと開封する。
中から出てきたのは――小さなミニチュア。
ポーションの栓としての役割しかない部品に、ちゃんと瓶も添えられていた。
瓶の中には、黒く美しい建物がいくつか並び、窓からは青い光が灯っている。
「ありがとう……」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
世界を救うとか終わらせるとか、そんな大げさな話ではない。
“こんな朝”が、もう一度訪れることの奇跡に、胸が揺さぶられるのだ。
美しい街だ、と、英雄がそう言ったからか。
けれど、きっとそれだけではない。
理想を“形”にして残す――それを好む人であったということ。
それだけのこと。
それでも、英雄にとっては、とても嬉しいことだった。
「ありがとう。本当にありがとう。めっちゃいい」
英雄の顔には、火がともるような笑顔が広がる。
胸の奥がくすぐったく感じた。
「これはいいものをもらったな。
わがままを言えば、私もエメトセルクみたいに、自分の力で理想の土地を作れたらよかったけど……でも、これはこれで楽しい!」
頭の中に建物をいくつか並べてみる。
高低差をつければ坂道。石畳の並びをずらせば路地裏。
頭の中で、小さな街が呼吸をはじめる。
「……自分の手だけで作り上げても、それはお前の思う“本物の世界”ではないぞ」
「そうだな。
でもきっと、ここからはじまるから。
あんたも、そうわかってて作ってるんじゃないか?」
エメトセルクの“注意”は正しい。
だが、正しさほど重いものもない。
「さて、私への返却はないのか?」
エメトセルクはくいくいと手を動かす。
英雄は手を拳でぽん、とたたいて、
「ま、ままま、中へどうぞ」
エメトセルクを自室に案内する。
さっき広げていた荷物へと向かい、ハンカチと留め具を手に取ってくる。
持ち主に返すと、エメトセルクは眉間にしわを寄せた。
「なんのつもりだ?
これは」
留め具は頑丈なクリスタルに閉じ込められていた。
持ちやすいようにか、カードケースのような形状になっている。
「壊れやすいんだって?
こうしておけばいいかと思って」
英雄はからりと笑った。
「ほほーう。
こうなっては取り出して使うこともはばかれるな」
人差し指と中指ではさんで、エメトセルクはクリスタルカードを掲げて見せる。
つまり、この加工は無駄だということ。
英雄はバツが悪そうな顔になる。
「ごめん」
「冗談に決まっているだろう。本気にするな」
エメトセルクは不機嫌そうだった顔をくるりと変えて、クリスタルケースを胸元にしまう。
失くす可能性が減ってむしろ都合がいいようで、英雄は腑に落ちなかったが、まあいいかと切り替えた。
「せっかくだし茶でも淹れようか」
「……何度も言うが、悠長なこと言っている場合か?」
「今後のこと、お互い分かっているからこそ、だろ?」
エメトセルクはわざとらしく、ダイニングチェアにふんぞり返った。
紅茶の湯気が静かに立ち上り、甘くも渋い香りが部屋を満たす。
その香りとともに、彼の視線が英雄を絡め取る。
――以前よりも、深く、冥い。
胸の奥まで覗かれているような、重さのある視線だった。
英雄は息をひそめる。
今、話したことで得た覚悟と、話すのを待たれていたことの重みが、胸の中で交錯する。
彼はずっと、英雄が口を開くのを待っていたのだ。
そのために、エメトセルクは背中を見せずに自分の胸の内をさらした。
これからお互いを倒す可能性があったとしても――
その覚悟を、祈りを、少しだけ信じていいと思えた。
紅茶の湯気が指先に触れ、ほのかに温かい。
昨日と今日が大きく変わったわけではない。
それでも――覚悟は、決まった。
英雄は、もらったミニチュアをそっと窓辺に置く。
朝の光が小さな建物の屋根や窓を淡く照らす。
紅茶をテーブルにセットすると、ふたりは言葉を交わすことなく、静かにお茶をすすった。
湯気の向こうで交わる視線はなくとも、
互いの胸中には、ささやかな理解と覚悟が漂っていた。
むせるような湿気が砂から立ちのぼる一方で、光の届かない海底はひんやりとしていた。
潮の香りが鼻腔を掠める。空気を含んで生まれ変わったこの世界には、どこか清廉な空気が満ちている。
光の戦士は古代の街を歩く。
ある者にとっては故郷であり、ある者にはまったく目新しい場所だ。
暁の一員である英雄は、仲間たちとともにアーモロートの街路を歩いていた。
情報収集の最中、ふと視線の先――高くそびえる建物の最上階に、仲間には見えていない“影”が揺れた気がした。
胸の奥に、微かなざわめきが走る。
仲間たちの会話が遠のいていくのを感じながら、
英雄は吸い寄せられるように、その建物へと足を向けた。
そこには、エメトセルクがいた。
建物の縁に腰を下ろし、丸まった猫背のまま街を見つめている。
相変わらず、その背中には妙な哀愁が漂っていた。
英雄は何も言わず、そっと隣に座る。
街のほのかな明かりが青く灯り、空気は寒々しく感じられた。
エメトセルクは、来ることを許すが、歓迎も拒否もしない。
クリスタリウムにある星の間に来た時、彼はよく喋る。
様子を見に来て「よくやっている」とどこから目線なのかわからない称え方をする。
特に、愛の話題には強く反応した。
旅の間、英雄は何度もその交流に救われ、同時に息が詰まった。
旅は苦しくも、そして楽しいものだった。
これから先、エメトセルクとの関係は、決定的なものになる──そんな予感が胸をよぎる。
英雄は沈黙の中、自分の手荷物を整理した。
ヤ・シュトラからもらった香水のアトマイザー。
ウリエンジェからはお守り代わりのタロットカード。
サンクレッドは、リーンと一緒に選んでくれたハンカチを。
意外にも、アルフィノとアリゼーの双子は揃って丈夫な革手袋を選んでくれた。
水晶公――グ・ラハ・ティアからは、旅の途中で重宝した香草ケース。ここまでの簡易料理で何度も助けられた。
そして今――彼はここで囚われている。
英雄は手荷物からあるものを取り出し、猫背のまま街に意識を溶け込ませていた彼の視線に掲げた。
月光のように銀色に光る“何かの留め具”。
歴史を感じさせる装飾で、何に使われていたのか、英雄にはわからなかった。
暁のメンバーに聞いても、水晶公に聞いても、判明しなかった落とし物。
そうなると、持ち主は限られる。
「一流品だね」
エメトセルクは少し驚き、やがて目に納得の色を浮かべた。
「お前の方は、質など気にしないもののようだな」
そう言って彼が胸元から取り出したのは、見覚えのある、ポーション用の銀の栓。
漏れ防止の柔らかい部品も付いている。
「あ」
英雄はつい声を漏らす。
彼の眉がわずかに上がる。英雄は肩をすくめる。それだけで十分だった――お互い、うっかり間違えていたのだ。
きっと旅のどこかで、互いの持ち物を取り違えたのだろう。
「これはいったい何に使うものなんだ?」
英雄は銀の留め具を、煌めかせるようにエメトセルクへ差し出した。
「月で拾った」
普段なら、英雄が聞いてものらりくらりとかわすようなことを、今日はポロリと言った。
「イデアの部品だ」
どうやら、今日はいつもと違う気分らしい。
受け取るそぶりのない彼に、英雄はとりあえずその銀の留め具を握りしめ、膝の上に置いた。
なぜか英雄も、エメトセルクが所持していた自分の愛用品を、すぐには受け取る気になれなかった。
ちらりと視線を向けると、エメトセルクの目は遠くを見ていた。
その視線は、どこまでも遠い。
「どういう部品なんだ?」
「私が持つとなぜか決まって壊れる……
そんな繊細すぎる部品だ」
答えになっていない。
英雄には、冗談だとすぐにわかった。
彼らしい態度を見せたことで、英雄も深追いはやめる。
ふと、水面の色が沈んでいくのに気づく。――空ではない。けれど、夜が深まる気配は海の底でも同じらしい。
周囲の街灯が、暗がりを押し返すように強く光りはじめる。
そのコントラストの中で、英雄はエメトセルクの隣から、幻想じみた摩天楼を静かに見上げた。
暁のメンバーたちが、ちらりちらりと見えた。
ヤ・シュトラとウリエンジェは、すでに研究に取りかかっているようだった。
もう少し自由にさせておいたほうがいいかもしれない──そうも思う。
「あそこに戻らなくていいのか?」
彼は珍しく、皮肉もなく純粋にそう尋ねた。
思いがけない問いに、英雄は目をぱちくりとさせる。
「そうだね」
――しかし、そう言う気には、なれなかった。
闇の属性を好むアシエンでありながら、太陽の光のような目が、英雄を見つめた。
まるで、英雄の中にある“何か”を計っているかのように。
隠し事をしているわけではない。ただ、彼はいつも遠くを見ている。
それでも、その目があまりにも悲しそうで、胸が締めつけられた。
どうした? なにがあった?
――そんなことを聞ける状況でも、関係でもなかった。
きっと、彼が口にする内容の重さも深さも、英雄には想像できない。
長い時を生き、それでも壊れずにいられる人の苦痛など、抱えきれるものではないのだ。
「そうだなぁ……」
少し考えて、一拍置いた。
「あともう少し時間を置くよ。
もう何もかも、終わりそうだからね」
たくさんの時間を共有して過ごした。
暁の彼らとは急ぐようなこともない。
――そう。これは今だけだ。
数日もすれば、きっと崩れていく瞬間。
街に灯る青い光が目を通して、胸にまで染みていく。
「悠長なことだ」
エメトセルクの表情が一瞬だけ、わずかに動いた。
「私は……」
思っていることを、ただ言えばいい。
それだけなのに、喉が詰まって声にならない。
目からこぼれた涙は、止まる気配もない。
でも、言葉にしなければ、伝わらない。
「私は、この理想を叶えた世界が好きだ」
英雄は、自分でも驚いた。
どうして、目の前に広がる景色に涙するのか――
その理由を、自分で知った気がした。
「エメトセルク。
私、結構あんたのこと、気に入ってたんだ」
こぼれ続ける涙で目がかゆくなった英雄は、服の袖でそれを拭う。
「あんたは、たくさんの人の助けになっていた。
ガレアンの人々を救った。
去ってしまおうとする水晶公を止めた。
私と世界を、まだつなぎとめてくれている」
途切れがちな声。
それでも、エメトセルクは遮ろうとしなかった。
ただ、静かにこちらを見つめている。
「はっ。なにが助けた、だ。
私はそんなつもりないぞ。一切、微塵も。
だいたい、わかっているのか?
お前からすれば、走り回っているのは私たちアシエンの影響だろう」
「……わか、てる」
彼は確かに生きてきた。
そして、たくさんの人を助けた。
彼は“仕方なく片付けた”つもりでいて、
気づけば人を救っていた。
「世界を終わらせて、故郷のために統合しようとしている。
それを“良かった”なんて言うつもりはない。
でも……」
言葉より先に、涙がこぼれた。
「その理想へ向かって走るあなたの姿。
失われたものを取り戻そうとする背中。
そのすべてが――私の心を救ってるんだ!」
喉が焼けるほど熱い。
それでも、英雄の声は止まらなかった。
「誰が何を言おうと、
理想の世界を追い求めたあなたの姿が、
私の存在を認めてくれたんだ!」
胸の奥が、ひりひりと痛む。
「……私の助けられなかった人たちへの悲しみを、
あなたの生き様が、
その悲しみを認めてくれたの!」
独りよがりだと思った。
自分の中だけで完結した想い。
理想は叶わないと、わかっている。
それでも――叶わぬと知りながら追い続ける背中に、励まされたのだ。
エメトセルクと歩ける未来があったとしても、
……きっと求めすぎてしまう。叶わぬ理想ばかりを抱くから。
英雄の胸の内は、静かに諦めで染まっていった。
愛に満ちた世界を、英雄は夢見ていた。
親切な人がたくさんいて、みんなが助け合う。
それだけでいいはずなのに、現実は容赦がない。
湿った空気に、小気味よいスナップ音が響く。
エメトセルクがハンカチを自分の手元に呼び出して、英雄に差し出した。
英雄はおずおずと受け取り、そっと目元にあてる。
「まさか私のファンだったとはな」
いつもの調子。
それなのに、声の奥にわずかな揺れがあった。
さっきまで遠くを眺めていた目が、今はまっすぐこちらを見つめている。
まるで、英雄の心の底を確かめようとしているように。
「あんたの存在が、私を認めてくれているから。
きっとあんたのこと、忘れない。
忘れられない……ちくしょう」
英雄は、その目を真っ向から見つめる。
エメトセルクも、逸らさなかった。
「……そうか」
きゅっと口を結び、少し間を置いて――
鼻で笑った。
その笑い方。
彼がこの世界で初めて、英雄の“力”を必要としてくれたときと同じ。
英雄を抹消するのがほとんど目的だったとしても、わずかな期待を含んでいたあのときの笑い。
「お前の目から見た、私の世界は……」
言葉を切る。
なんと言えばいいのか、というより――
遠い故郷を思い出して、思考の波に身を預けているようだった。
「美しいよ」
その思考を、あえて言葉で遮る。
誰が何を言おうと、英雄は世界を信じている。
それが叶わない理想でも。
「……しんどいぞ」
哀れむような、どうしようもなさを含んだ表情で見つめてくる。
「信じ続けるのは、お得意だろうがな」
彼はそう言って、目を伏せた。
また思考に沈みこむ。
その横顔が、刹那的で、儚くて――美しい。
(この表情に心を持っていかれた人は先生に報告しなさい。
大丈夫、先生もだから。)
英雄は息を整え、
「信じない方が、もっとつらい」
と告げる。
つまり、私は信じ続ける――その意思表示だ。
「まっ……たく、その通りだな」
エメトセルクが英雄の言葉に同意するなんて、どうしたことだろう。
驚いて、英雄は思わず笑ってしまった。
今まで同意があっても、きっと表には出さなかった。
余計に関係を深めないようにという、そんな配慮。
あるいは、うっかり忘れてしまうほど、英雄の話に呆れているのかもしれない。
けれど――確かなこととして、彼は理想を追うことをやめなかった。
エメトセルクは、ゆっくり立ち上がった。
問答は、それで幕を下ろした。
「さっさと戻ったらどうだ。
私もここからいなくなる」
夕方の名残が、水底の片隅でまだ灯っていた。
エメトセルクは手をひらひらと振りながら、
どこか疲れたような仕草で歩き去っていく。
けれど、ふと立ち止まった。
「これからも、夢が破れ、理想が崩れる瞬間に出会うだろう。
自分を含めて、救いようのない存在が生きている朝を迎えるだろう。
それでもお前がやめないというのなら――
ずっと夢を見ていろ。
そうすれば、せめて私は……」
――私たちだけは眠れる。
「いや、なんでもない。
忘れろ」
エメトセルクは飲み込んだ言葉を押しとどめるように、眉間を指で押した。
「うん。私の心を救った存在の願いを叶えられるなら、
どんな壁だって乗り越えよう!」
英雄は、きっとエメトセルクの願いを叶えたかった。
そうしたいと思うだけの恩が、もうそこにあった。
「おやすみ!」
英雄のはつらつな掛け声に、彼はもう一度、軽く手を振る。
その手の振り方ひとつさえ、
英雄の心を認めてくれているようだった。
現れた暗闇の中へ、エメトセルクは静かに消えていく。
残されたのは、一人きりの、やわらかい余韻。
英雄は暁の仲間に会いたくなり、勢いのまま走り出した。
走るあいだ、ふと胸に浮かぶ。
――汚れや醜さを認めながら、それでも人を救おうとすること。
命の灯りを守ろうとする在り方。
そんな尊さに気づけない世界なんて、ごめんだ。
超特大のわがままだけれど、それでいい。
信じ続ける。
だって、ここは愛した世界なのだから。
おやすみ、世界。
おやすみ、英雄。
おやすみ、エメトセルク。
永遠に叶わなくても、私は夢を見る。
美しい世界の姿を、いつまでも祈り続ける。
みんなが幸せでありますように。
今日も健やかでありますように。
私は、ずっと祈っている。
――自分の願いは届かなくても、
誰かの願いならきっと支えられる。
それが、私だ。
暁の仲間たちはまだ散らばって情報収集中だった。
英雄はヤ・シュトラと合流する。
ヤ・シュトラは髪を払ってみせ、英雄に向けて目を細めた。
「彼と話はできた?」
全てを見透かすかのようなヤ・シュトラが、英雄に言葉と気遣いを投げかける。
英雄は思わずホッとし、顔が緩んだ。
「うん。
私だけすっきりして、申し訳ないけれど」
泣いて赤くなった英雄の目元には、後悔のない、前に進もうとする意志が宿っていた。
ヤ・シュトラはふと柔らかく微笑み、英雄の持っていたハンカチをそっと受け取り、魔法で冷水にさらす。
そしてその手で、ハンカチを英雄の目元に当てた。
「その様子だと、大丈夫そうね」
颯爽と背中を向け、仲間たちのもとへ合流していった。。
「ママってより、イケメンすぎないか……」
英雄のこぼした呟きは、海底よりも深く静かに沈んでいった。
***
雄雌を決める前夜。
情報整理のため、一旦クリスタリウムの自室に戻った英雄は、荷物の整理をしていた。
もう一度、暁のみんなからもらったものを手入れする。
「あ……」
エメトセルクに返し忘れた“イデアの部品”。
それを包んでいたエメトセルクのハンカチ。洗って一緒にまとめておいたものだった。
敵対者が涙を拭くためにくれたハンカチだと思うと、やっぱりおかしくて、少しこっ恥ずかしい。
英雄は思わず笑いながら、感情に任せて留め具とハンカチを手に取り、出口へと歩を進めた。
外の空気に当たろうと扉を開ける。
目の前には眉間のしわが目立つ怖い顔があり、英雄は短く悲鳴を上げた。
――エメトセルクが立っていた。
手には、上等な装丁の箱をぶら下げている。
「……忘れものだ」
ドアノブに箱を引っ掛け、去ろうとしたところを、ちょうど英雄が扉を開けてしまったのだった。
「わざわざ届けに?
アシエンが?」
あまりにおかしく感じた英雄は、警戒よりも思わず声が弾んだ。
そんな様子を見て、エメトセルクは「早く受け取れ」と急かす。
英雄は素直に受け取り、テーブルに運んだ。
美しい包装紙の手触りを確かめながら、そっと開封する。
中から出てきたのは――小さなミニチュア。
ポーションの栓としての役割しかない部品に、ちゃんと瓶も添えられていた。
瓶の中には、黒く美しい建物がいくつか並び、窓からは青い光が灯っている。
「ありがとう……」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
世界を救うとか終わらせるとか、そんな大げさな話ではない。
“こんな朝”が、もう一度訪れることの奇跡に、胸が揺さぶられるのだ。
美しい街だ、と、英雄がそう言ったからか。
けれど、きっとそれだけではない。
理想を“形”にして残す――それを好む人であったということ。
それだけのこと。
それでも、英雄にとっては、とても嬉しいことだった。
「ありがとう。本当にありがとう。めっちゃいい」
英雄の顔には、火がともるような笑顔が広がる。
胸の奥がくすぐったく感じた。
「これはいいものをもらったな。
わがままを言えば、私もエメトセルクみたいに、自分の力で理想の土地を作れたらよかったけど……でも、これはこれで楽しい!」
頭の中に建物をいくつか並べてみる。
高低差をつければ坂道。石畳の並びをずらせば路地裏。
頭の中で、小さな街が呼吸をはじめる。
「……自分の手だけで作り上げても、それはお前の思う“本物の世界”ではないぞ」
「そうだな。
でもきっと、ここからはじまるから。
あんたも、そうわかってて作ってるんじゃないか?」
エメトセルクの“注意”は正しい。
だが、正しさほど重いものもない。
「さて、私への返却はないのか?」
エメトセルクはくいくいと手を動かす。
英雄は手を拳でぽん、とたたいて、
「ま、ままま、中へどうぞ」
エメトセルクを自室に案内する。
さっき広げていた荷物へと向かい、ハンカチと留め具を手に取ってくる。
持ち主に返すと、エメトセルクは眉間にしわを寄せた。
「なんのつもりだ?
これは」
留め具は頑丈なクリスタルに閉じ込められていた。
持ちやすいようにか、カードケースのような形状になっている。
「壊れやすいんだって?
こうしておけばいいかと思って」
英雄はからりと笑った。
「ほほーう。
こうなっては取り出して使うこともはばかれるな」
人差し指と中指ではさんで、エメトセルクはクリスタルカードを掲げて見せる。
つまり、この加工は無駄だということ。
英雄はバツが悪そうな顔になる。
「ごめん」
「冗談に決まっているだろう。本気にするな」
エメトセルクは不機嫌そうだった顔をくるりと変えて、クリスタルケースを胸元にしまう。
失くす可能性が減ってむしろ都合がいいようで、英雄は腑に落ちなかったが、まあいいかと切り替えた。
「せっかくだし茶でも淹れようか」
「……何度も言うが、悠長なこと言っている場合か?」
「今後のこと、お互い分かっているからこそ、だろ?」
エメトセルクはわざとらしく、ダイニングチェアにふんぞり返った。
紅茶の湯気が静かに立ち上り、甘くも渋い香りが部屋を満たす。
その香りとともに、彼の視線が英雄を絡め取る。
――以前よりも、深く、冥い。
胸の奥まで覗かれているような、重さのある視線だった。
英雄は息をひそめる。
今、話したことで得た覚悟と、話すのを待たれていたことの重みが、胸の中で交錯する。
彼はずっと、英雄が口を開くのを待っていたのだ。
そのために、エメトセルクは背中を見せずに自分の胸の内をさらした。
これからお互いを倒す可能性があったとしても――
その覚悟を、祈りを、少しだけ信じていいと思えた。
紅茶の湯気が指先に触れ、ほのかに温かい。
昨日と今日が大きく変わったわけではない。
それでも――覚悟は、決まった。
英雄は、もらったミニチュアをそっと窓辺に置く。
朝の光が小さな建物の屋根や窓を淡く照らす。
紅茶をテーブルにセットすると、ふたりは言葉を交わすことなく、静かにお茶をすすった。
湯気の向こうで交わる視線はなくとも、
互いの胸中には、ささやかな理解と覚悟が漂っていた。
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