なんでもないよ

息を吸うたびに頭を殴られるような頭痛に襲われ、同時に吐き気が込み上げてくる。
ピケロが開発した新薬、〈『歌う花』探索キットモチカエル・試薬A〉を顔面に浴びたチャコは、ひどい頭痛と吐き気に苦しめられていた。

「うっ……」

嗅覚を100万倍にする薬というだけあって、普段であれば気にならないような少しの匂いすら鼻腔をついて仕方がない。
すぐに慣れると余裕の表情でピケロは口にしていたが、本当に慣れるものなのだろうか。

「……ごめん、ピケロ。トイレ貸してもらってもいいかな」
「ああ、構わない。廊下の突き当たりを右だ」
「ありがとう、ちょっと行ってくる」

右手で鼻を覆い、ふらふらとおぼつかない足取りでチャコが廊下へ向かおうとすれば、慌てた様子のアルペックが駆け寄ってくる。
そして、アルペックの左腕がチャコの左肩に回され、しっかりと身体を支えられた。

「チャコ、大丈夫か?足元ふらふらやけん、オレも一緒に行く!」
「大丈夫だよ、アル。それにトイレ行くだけだし、俺一人で平気だよ」

一人で問題ないというように、アルペックに向けてにこりと笑みを浮かべてみせる。
しかし思っていたよりもぎこちない笑顔になってしまっていたのか、不安げな表情を浮かべたアルペックは首を横に振った。

「平気って、顔も真っ青やん!トイレに着く前に倒れんか心配やし、やっぱしオレも行く……!」
「Hmm……アルペックの言うとおりだ、チャコ。顔色も悪いし、なんだか心許ない。誰かと一緒に居たほうが良いとボクも思う」
「……そこまで言うなら、わかったよ。アル、このまま着いてきてくれる?」
「もっちろん!しっかりオレが支えちょんけん。行こう、チャコ!」

チャコの肩からアルペックの手が離れ、代わりに背中へと添えられる。
服越しにそっと触れられたアルペックの手のひらは温かく、わずかに気が緩んだチャコは、ほっと息をついた。

「チャコのことはオレに任せて、タッサムとピケロは他に歌う花を見つけられる方法がないか考えといてー!」
「ピケロ、次は薬以外でお願いね」
「さてと……嗅覚での探索が難しいのであれば、次は視覚か。視力を100万倍にし、物理的に歌う花を見つければ——」
「Wait!ピケロ、一旦薬から離れたまえ!」

ぎゃあぎゃあと言い合う二人の声に苦笑しつつ、アルペックと共にピケロの研究室を後にする。
失礼だと思いつつ手のひらで鼻を覆ったまま、重い足取りで廊下を歩いていると、ふとアルペックが口を開いた。

「そういえばさ、チャコ。オレ、チャコの身体を支えるのに結構近くにいるけど、オレの匂い平気?」
「アルの匂い?」
「うん!」
「んー……アルとはよく一緒にいるからかな、意外と平気かも」」

先ほどまでのひどい頭痛や吐き気が、今は少しだけ落ち着いているような気がする。
アルペックの匂いに慣れているからか。それとも、ピケロの「すぐに慣れる」という言葉が本当だったのか。今のチャコにはわからなかった。

「なあなあ、オレってどんな匂いする?」
「どんな匂いって、そうだな……。草木に囲まれた水辺でかぼすラーメン食べてるみたいな感じ?」
「ええー!?なんかそれ、すごい匂いしそう」
「あとはそうだな、アルの匂いがする」
「オレの匂い?どんな匂い?」
「どんなって、アルの匂い」

鼻を覆っていた右手を離し、隣を歩くアルペックの方へ少しだけ顔を寄せる。
そしてすっと短く鼻で息を吸えば、いつもより強く、友人の馴染みのある匂いを感じられた。

「うん、アルの匂い」
「ぜんっぜんわからん!」
「なんていうか、汗とかそんな感じ?俺にもわからな……う、っ」

再び激しい頭痛に襲われ、ひどい吐き気のあまり口元を右手で押さえる。

「え!?ちゃ、チャコ……オレ、なんか変な匂いした!?」
「ちが、っ……さっきアルの匂い嗅いだときに、他の匂いも……」

そう答えているうちに、サッと血の気が引いていく感覚がした。自分の意思とは関係なく、冷や汗がチャコの頬を伝う。

「っ、ごめ」

反射的に「まずい」と判断したチャコは歩みを早め、廊下の突き当たりを右に曲がった。
目の前に現れたドアを微かに震える指先で開く。トイレの中に足を踏み入れれば、耐えきれずその場に座り込んでしまった。

「う、ぐ……きもちわる……」

ガンガンと殴られるような頭痛と吐き気で何度かえずくも、吐くことができないまま気持ち悪さだけが増していく。
朝食を摂ってからだいぶ時間が経っているし、昼食はこれからだ。
どのみち胃液くらいしか吐くものはないだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら、便座の手前側に乗せた右腕に顔を伏せてチャコがぐったりしていると、不意に温かいものがチャコの背中に触れた。

「チャコ、大丈夫か?」

自分よりも少しだけ大きなアルペックの手のひらが、チャコの背中をゆっくりとさする。
背中へ意識を向けているうちに、わずかに吐き気が弱まったような気がしたチャコは小さく息を漏らした。

(——なんとなく、今の顔はアルに見られたくないな)

顔を伏せたままチャコが頷きで返せば、こちらの様子を窺うように、いつもより少しだけボリュームを落とした声でアルペックが声をかけてきた。

「気持ち悪い?」
「……うん」
「そっか。なあチャコ、なんかしてほしいことある?」
「ない、けど……吐きそうなのに、吐けなくて」
「吐けない?」
「うん。吐き気が落ち着くまで動けないと思うから、アルは先にピケロの研究室に戻ってて」

そう言ってチャコは伏せていた顔を上げ、頭痛を悪化させないようゆっくりとアルペックを振り返った。自分は大丈夫だからと、精一杯の笑顔をつくってみせる。
だが——。

「いや、オレもいる!」
「……もう少し休めば治ると思うから、大丈夫だよ?」
「いーや!だってチャコ、笑ってるのに全然大丈夫って顔してないし。このままトイレで倒れたりしたら大変だろ?やけん、チャコが落ち着くまでオレもここにいる!」

決めたけん!と口にしながら、チャコの後ろへ座り込んだアルペックの姿に、チャコは思わず笑みを溢した。

「あははっ、やっぱりアルには敵わないな」
「うん?」

こちらを見つめてくるアルペックに、「なんでもないよ」と微笑んでみせる。
不思議そうな表情を浮かべながらも、納得したように頷いたアルペックは、急になにか思いついたように「あっ」と声を上げた。

「そういえばチャコ、吐いたら気持ち悪いの治りそうなのか?」
「えっ、たぶん今よりはましになるとは思うけど……なんで?」
「解決法がわかるなら……あとはやるだけ!」
「アル、なにするつもり?不安しかないんだけど?」
「大丈夫!チャコ、口開けて!」
「くち?」

自信満々な表情で頷くアルペックにつられ、おずおずとチャコが口を開く。

「あー……これでい——っ!ぅう!?」

突然、アルペックの右手の人差し指と中指が、まとめてチャコの口の中に突っ込まれた。

「あぅ!?なに……っぐ!うぅ、ぐ、っう!やめ……!」
「チャコ、ごめん!苦しいよな、でもチャコのためやけん、我慢しちょって!」

アルペックの左手がチャコの後頭部に触れ、やや強引に便器の方へ顔を向かされる。
指を噛んでしまわぬよう気をつけながら抵抗していると、再び「ごめん!」と謝ったアルペックの二本の指の腹が、チャコの喉奥をぐっと押し上げた。

「むり、っ!うぐ、ぅう……!う、っ!ぐ……ぅ!げほっ、え……っ、う!ぐ、っ!けほっ、げほっ!」

苦いものが迫り上がってくる感覚に、チャコは衝動的に右手でアルペックの手首を掴む。
指を引き抜こうともがいたチャコの努力も虚しく、唾液と胃液の混ざりあったものがアルペックの右手を汚した。

「っ、う……うぇ……」

ボタボタと、黄色がかった液体が便器の中へ落ちていく様子を呆然と見つめる。
友人の手で吐いてしまったという事実と、口の中に残る嫌な味に、チャコの眦に生理的な涙が滲んだ。

「ごめん、チャコ。苦しかったよな」
「うぅ……」
「まだ気持ち悪い?もう一回やる……?」
「っ……も、でな……」

返事を確認したアルペックの指が、チャコの口の中からゆっくりと引き抜かれる。
一度吐いてしまったからか、先ほどまでのひどい吐き気は落ち着いていた。

「……ごめん、アル。手汚させて」
「別にこれくらい洗えば平気だって!それよりも、体調は大丈夫か?」
「うん、さっきよりもだいぶ楽になった気がする」
「そっか!よかったな、チャコー!」
「あはは、かなりの荒療治だったけどね」

ちょっとだけ拗ねたように小さな声で呟いたチャコは、レバーを引いてトイレの水を流した。
そして座ったままアルペックの方を振り返り、口元に笑みを浮かべた。

「ありがとう、アル」
「うんうん!チャコも元気になってきたことだし、ピケロの研究室に戻ろうー!」
「その前に、口濯ぎたいかも。アルも手洗わないと」
「あっ、そうだった!手洗うとこ借りてこう!」

背後で立ち上がったアルペックに続いてチャコも立ち上がろうとするが、何度もえずいたことで体力を消耗したのか、上手く立ち上がることができなかった。

「アル、やっぱり先に行って——」
「チャコ、オレの手掴んで!」

声につられて振り返ると、いつの間にかしゃがんでいたアルペックが、こちらに左手を差し出している。
自身の右手が汚れていないことを確認したチャコは、差し出されたアルペックの左手を掴んだ。

「よいしょ、これでよし!」
「アル、ありがとう」
「うん!」

アルペックの手に引っ張られる形でチャコが立ち上がると、彼は満足げににっこりと笑った。
微笑み返したチャコが手を離せば、ポンポンと代わりに背中を軽く叩かれる。

(——君はあたたかいね、アル)

先に歩き始めたアルペックの、ほんの少し背の高い後ろ姿を見つめる。
数歩分遅れてチャコが足を踏み出せば、それに気がついたアルペックが、足を止めてこちらを振り返った。

「チャコ、どうかした?」
「ううん、なんでもないよ」

すぐに隣へ追いついたチャコはアルペックと肩を並べ、軽い足取りで再び廊下を歩き始めた。
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