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桎梏の運命
翌朝。ひたひたと裸足で廊下を歩いていた黒凪は片足で襖を開いた。
途端に振り返った皆は寝起きのボサボサの髪とはだけた着物と言う身なりで現れた黒凪に一様にげんなりとした顔をする。
しかしそんな中でも違った反応を示したのは近藤だ。
彼は黒凪の顔を見ると「おお!」と嬉しげに笑みを浮かべて彼女に近付いて行く。
「昨晩に君の事はトシから聞いているよ。あー、…黒凪さんで良いかな?」
『どうとでも呼んで下さい。私はどう呼ばれても構いませんので』
「ちょっと黒凪ちゃん?近藤さんに会ったらまず"おはようございます"でしょ」
『…。それより山南さんはどうなりました』
あのねえ、と言いかけた沖田の声を遮って「峠は越えたらしい」と土方が言った。
そうだよな、源さん。そう言った土方の視線の先に座る井上に黒凪が目を向ける。
すると井上が笑顔で「私も近藤さんと同じく貴方の事は訊いています。気にしないでください」と言った。
『ふーん。…狂った様子は?』
「まだ目覚めていないので何とも。姿は特に変わらないのですが…」
『!…失礼。』
ちらりと襖を見た黒凪が音も無く跳び上がり天井の板を外して天井裏へ入り込む。
その流れる様な動きに皆がぽかんと天井を見上げていると襖が静かに開かれた。
その音に其方を見れば黒凪が天井裏に逃げ込んだ理由が判明する。
「おはようございます、皆さん。」
「(よく隠れた黒凪…!)」
土方が表情に出さず黒凪をそう称賛する。
何処からどう見ても女性の姿をしている彼女を今しがた現れた伊東に見られていたらと思うと、その後の面倒事を考えると目も当てられない。
皆が黒凪の行動の速さに感動している中、伊東が徐に「昨晩の騒ぎは一体?」と幹部達を見渡して問いかけた。
その言葉に「あぁ、その…だな、」と言葉を濁した近藤が幹部達に助けを求める様に目を向ける。
そんな近藤の視線に応えたのは斎藤だった。
「伊藤参謀がお察しの通り、昨晩屯所内にて事件が発生致しました」
つらつらと明かしても構わない情報だけを上手くまとめて伝えていく斎藤に天井裏で話を聞いている黒凪は舌を巻いた。
真っ先に手を上げるだけはある。彼の説明ならば参謀である伊東の勘繰りを上手く掻い潜る事が出来るだろう。
とりあえず彼に伝えられた事は現在の状況があまり良くない事と余計な心配を掛けたくない為に詳細を伝えられない状況にある事。
それらを斎藤の口から丁寧に伝えられた伊東は徐に頷いた。
「成程、事情は分かりましたわ」
「感謝致します。詳細は今晩にでも改めた場を設け、お伝えさせて頂きたく存じます」
「ええ。それでは今晩のお呼ばれを心待ちにしております」
斎藤の丁寧な対応を気に入ったのか、随分と物わかりよく且つ満足した様な表情で部屋を出て行った。
気配が完全に遠ざかった事を確認した黒凪が音も無く天井裏から出て床に足を着ける。
そんな黒凪を見た永倉と斎藤が彼女の座る場所を作る様に互いに少し移動し、その間に黒凪が腰を下ろした。
『斎藤の説明に感動でもして見逃してくれたのかねえ。』
「え、…見逃す…?」
「考えてもみろ。幹部が勢ぞろいしてる場に山南さんだけ居ねえんだぞ」
「あ…」
黒凪の言葉に首を傾げた千鶴に土方がそう説明すれば、彼女ははっとした様に口元を抑えた。
するとまた黒凪がぴくりと襖の方を見て立ち上がる。
しかし近付いている気配に意識を向けた黒凪はやがて座っていた位置に腰を下ろした。
…現れたのは顔色を悪くした山南だった。
「山南さん、起きてて良いのかい!?」
「…少し気だるくはあります。恐らく薬の副作用でしょうがね…」
『それでも昼間に動けてるだけ凄いじゃないか。あんたが改良した甲斐はあったんじゃない?』
「そう考えれば多少は嬉しくもありますが、……私はもう人では無い」
その事実を強調するかの様に微笑んだままで山南がそう言った。
それでも構わん、君が生きてくれているだけで十分だ!
そう目を潤ませて言ったのは近藤。しかし他の幹部達は山南を思うが故に素直に喜べない様だった。
「…腕の傷はどうなったんです?」
「まだ本調子ではありませんからね…ですが日常生活に不便では無い程度には。」
全く動く事の無かった左腕を持ち上げ、その手の平を開いたり閉じたりと動かしてみる。
その様子に明らかに千鶴が安堵した様に眉を下げた。
しかし良い事ばかりではない。次に山南に放たれた原田の言葉に喜びかけた千鶴は一気に心を沈ませる。
「日中は行動出来ないんだろ?…そんな状態でどうやって隊務に…」
「私の事は死んだ事にすれば良いのですよ」
「っ!」
「これから私は薬の成功例として羅刹を束ねていきます」
あんた、何言ってるか分かってんのかよ!
隣で声を上げた永倉に山南の目が向いた。
その拍子に一瞬だけ黒凪の金色の目と山南の目が合う。
しかし特に反応を示すでもなく山南が反論する様に口を開いた。
「分かっていますよ。永倉君こそ薬の存在を伏せる様に幕府から命じられている事を忘れたのですか?」
「…そ、れは」
「私さえ死んだ事にしてしまえば今までの様に薬の存在は隠し通せます。それに薬の副作用が消えるのならばそれを使わない手はないでしょう」
苦い表情をした近藤が苦しげに頷いた。
そもそも薬の実験は幕府からの命令である為、山南の申し出を拒否する必要は全くない。
寧ろ肯定すべき事だ。それを近藤も理解しているのだろう、
「…仕方がない、か」
そう苦しげに言った。
その隣に座る沖田が「ま、山南さんが自分でやった事ですしね。責任持って進んで下さいよ」と突き放す様な言い方をしたが山南は依然微笑を浮かべたまま。
すると徐に土方が考え込むような顔をして口を開いた。
「となると、移転の話も更に真剣に考えていかねえとな…」
『ああそうだったな。さっさと屯所を大きな所に移動させよう、私だってこの小さな屋敷の中で隠れるのは骨が折れる』
「君の瞬発力があれば大丈夫だと思うけどね、その件に関しては」
どっと笑い声が響く。
そんな中で共に笑った黒凪はその居心地の良さに眉を下げた。
楽しいと思っている自分に自分自身で驚いているなんて、なんて可笑しな状況か。
あまりのめり込むべきではない。人はいずれ他人を裏切る。
…それでも、此処を護りたいと思ってしまう自分に思わず笑みを浮かべた。
西本願寺へ屯所を移動させて既に3か月経った。
そんな中で長らく江戸へ行っていた平助が戻り、彼は早々に山南の事を聞く事になった様だった。
やがて話を終えた平助は少し元気の無い様子で外の階段に腰掛けている。
隊士の目に付かぬ様にと屋根の上に座っていた黒凪はそんな様子の平助に千鶴が近付いて行く様に目を向けた。
「どうかしたの?平助君…江戸から帰ってきて早々元気ないね」
「千鶴…。まあ、ちょっとな。」
一旦言葉を濁してから少し考える様にして平助が口を開いた。
俺が江戸に行ってる間に色々あったみたいだけどさ、…伊東さんは他の皆と上手く行ってるか?
そう言った平助に驚いた様に千鶴が目を見開いた。
そんな千鶴に小さく笑みを向け、伊東を近藤に紹介したのが自分である事を平助が打ち明ける。
それを聞いた千鶴はやっと平助が伊東の様子を気遣う理由に合点が行った様だった。
「やっぱり伊東さんの所為で山南さんがあんな事になったんだとしたら…俺にも責任あるよなーって…」
「そんな事無いよ。…そもそも父様があの薬を持ってこなければ…」
と、とにかく平助君の所為ではないと思う。…どちらかと言えば、
そう言って顔を伏せる千鶴に平助も沈んだ様子で目を伏せた。
どよんとした2人の様子を呆れた様に見ていた黒凪は再び屋根の上で寝転がり目を閉じる。
確かにあの男をこの新撰組に招き入れたのは間違いだ平助。
…あの男は新撰組には相応しくない。
続いて慰め合う様な会話をする2人の声に眉を下げ、意識を眠りの中へ沈めていった。
――それ見た事か。
己が寝転がっている屋根の真下にある部屋から聞こえてくる土方の声に薄く目を開く。
真下に居るのは近藤と土方。それに対する様に座っているのは伊東。
伊東が2人に申し出た事は新撰組からの独立…つまりは隊の分裂だった。
「…お前等はそれで本当に良いのか」
襖が開かれる様な音と共に土方のそんな声が聞こえてくる。
恐らく襖の先に居る隊士達は皆伊東と共に隊を離れる決心をした者達だろう。
夜兎の感覚を研ぎ澄ませ、気配を探ればそこに居る隊士達の中によく知った気配を2つ感じ取る事が出来る。
『(平助は予想内だったが…斎藤も伊東に着くなんてねえ)』
やがてすぐにこの屯所を去るのだろう、土方達と伊東が話を終えると伊東と共に出て行く隊士達が各々入り口に向かって歩いて行った。
そんな中で1人屯所に咲く桜の元へ向かう斎藤の気配を感じた黒凪は立ち上がり其方へ向かう。
そうして斎藤から最も近い屋根の上に座ると「よう」と声を掛けた。
ゆっくりと振り返った斎藤は屋根の上に座る黒凪に目を向ける。
『…大体の事は予想出来る。でも敢えて言わないでおく』
「……あぁ。そうしてくれ。あんたのその考えが当たっているかは答えかねるがな」
『でも多分当たってると思うんだよ。…あんたもそう思うだろ』
「……」
あんたは1番最初に私の正体に気付いた奴だ。あんたの勘の良さは分かってる。
…あんたも私の勘の良さは分かってんだろ。
黒凪の言葉に斎藤が何も答えないでいると「お待たせ一君!」と平助が駆け寄ってくる。
それを見た黒凪は立ち上がって背を向け屋根を跳び越えていく。
「……。(…まさか俺と話をする為だけに来たのか…?)」
「…一君?」
「いや。…行こう」
玄関に集まっている伊東達の元へ歩き出す。
そんな2人を見送った黒凪は気配を絶って自室に戻った。
斎藤や平助が隊を抜けて数日程経ったある日の夜。
突然響き渡った破壊音と隊士達の悲鳴に布団の中で眠っていた黒凪が目を開いた。
どたどたと音の方向へ走る足音が響き、黒凪の金色の瞳がちらりと廊下の方に向けられる。
そうして再び目を閉じて気配を探っていくと1つだけ此方に向かう気配を感じた。
『…千鶴か』
「(黒凪さんの部屋…っ、黒凪さんの部屋…!)」
「――何処へ行く?」
背後から掛けられた声に千鶴が目を見開き振り返る。
そしてそこに立っている風間を睨むと刀を抜き、切っ先を彼に向けた。
そうしてじりじりと後ろに後退して行く千鶴に目を細め、一瞬でその目の前へ移動し刀の尻柄で腹を殴り気絶させる。
ぐったりとした千鶴を抱きかかえた風間は徐に歩き始めた。
『…(全く、新撰組は使えない)』
まんまと風間に連れ去られた千鶴に目を開きため息を吐く。
するとどたんっと黒凪の眠る部屋へ勢いよく倒れ込んだ原田と永倉に目を向け、黒凪がゆっくりと起き上がる。
倒れていた原田と永倉が起き上がり睨んだ先には不知火と天霧が立っていた。
天霧は黒凪の姿に微かに目を細め、不知火はニヤリと笑う。
「おーおー、コイツが風間の言ってた奴か?」
「…ええ。気を抜かぬよう―――」
一瞬で2人の目の前に迫り同時に殴り飛ばして外の塀に激突させる。
そうして地面に足を着けた黒凪は唖然と此方を見る原田と永倉に目を向けた。
人間は弱いねえ。笑って言った黒凪に2人が微かに目を見張る。
『また私が護ってあげるよ』
「…っ、やるじゃねえか、よ!」
砂埃の中で拳銃を構えた不知火が発砲し弾丸が黒凪に向かって行く。
その弾丸を黒凪はあろうことか至近距離で避けてみせた。
そうしてまた一瞬で不知火の目の前に迫るが、しゃがみ込んでいた天霧が黒凪を殴り飛ばす。
吹き飛んだ黒凪は土方と刀を交えている風間の側まで転がって行った。
「っ、黒凪!?」
「!」
『…あ、千鶴居るじゃない』
寝かされた千鶴を見て安堵した様に眉を下げるのも束の間、再び迫った弾丸を跳び上がって避ける。
そうしてまた不意を突いて拳を振り上げた天霧。そんな天霧を刀で往なしたのは羅刹になった山南だった。
此方に背を向けて立つ山南に小さく笑い黒凪が立ち上がる。
『土方、その金髪の相手は務まりそうかい』
「…無論だ」
『だったら山南さんはあの拳銃を持ってる方を頼むよ。あのゴリラは私がやる』
一瞬だけ目を合わせて黒凪が天霧へ向かって行く。
そんな黒凪に思わず目を向けた不知火に突っ込んで行った山南は「貴方の相手は私です」と笑って攻撃を加えて行った。
天霧と攻防を繰り返し拳をぶつけ合う。
…ぱき、と先に拳の限界を迎えたのは天霧だった。
あまりの威力のぶつかり合いに互いの骨が悲鳴を上げる。
そんな中で風間の力に吹き飛ばされた土方を黒凪が咄嗟に受けとめた。
『…ちょっと。』
「っ、あいつ、なんて力してやがる…!」
「これが鬼の力だ。」
風間の言葉に土方が「鬼?」と訊き返して眉を寄せる。
途端に拳を振り上げて迫る天霧の拳を受け止め、即座に蹴り飛ばした。
黒凪の蹴りを受けて吹き飛ぶ天霧を横目に風間が黒凪に目を向ける。
「おい黒凪…。鬼ってのは夜兎の事か?」
『全然違う。鬼なんかと一緒にしないで欲しいね』
「何を言う。お前が贔屓にしているこの娘も我等の同胞だぞ」
『……』
また風間の言葉に眉を寄せて眠っている千鶴に土方が目を向ける。
黒凪がちらりと土方を見上げた。
鬼だと聞いて放り出すならすぐさま千鶴を連れて逃げる。
そう考えて目を細めた時、己を支えている黒凪の手を払い土方が刀を構えた。
「そいつは一度新撰組で預かったガキだ。鬼だろうが関係ねえ。」
『…それはつまり"渡さない"って事?』
「当たり前だろうが」
『……良いね。惚れ直した。』
ぽんと土方の肩を叩いて起き上がった天霧に向かって行く。
それを見た風間は土方をちらりと見て黒凪の元へ向かった。
その事に目を見開いた土方は黒凪の名を叫ぶ。
振り返った黒凪は振り下された風間の刀を素手で受け止めた。
「…ほう。俺の一太刀を受けて手が裂けぬとはな」
『…いった…』
「その上天霧の一撃をもう一方の手で受け止めるか」
山南や土方が目を見張る。
左手で風間の刀を、右手で天霧の拳を受け止めた黒凪はぐっと手に力を籠め天霧の拳を掴むとぐんっと放り投げた。
そして血塗れの左手を刀から離すと風間の足を払おうとするが飛び上がった風間に回避されてしまう。
すると背後から不知火の弾丸が迫り、黒凪の背中に弾丸が2発直撃した。
それを見た土方はすぐさま風間に刀を振りおろし風間の目が土方に向く。
弾丸を放った不知火の方でも山南が刀を振りおろし再び戦闘を開始した。
『っ、(寄って集って攻撃してきやがって…、)』
「ぐ…っ」
土方のうめき声に振り返れば風間に刀を弾かれ土方がゴロゴロと石畳の上を転がって行った。
痛みにすぐには立ち上がれない様子の土方の元へ向かおうとするが、山南を倒した不知火が黒凪へ向かって行く。
同時に天霧も黒凪に向かい、舌を打って2人に応戦した。
そんな黒凪を横目に薄く笑みを浮かべて風間が土方に向かって刀の切っ先を振り下す。
「――土方さん!」
「!」
「…千鶴…!?」
千鶴の声にはっと目を向ける。
風間の一撃をまともに受けかけた土方を救った千鶴は肩に切り傷を作り、眉を寄せながら小太刀を風間に向けた。
その小太刀を見た風間は千鶴を見下し目を細める。
「何故鬼である貴様が人間を庇う」
『っ、千鶴、』
「おいおい。お前の相手は俺等だぜ?」
「ふんっ!」
振り下される天霧の拳を躱しつつ不知火の弾丸も避けて行った。
私は鬼じゃありません、と千鶴の声が聞こえてくる。
早く千鶴の元へ行きたい。千鶴が傷つく姿を見たくない。
…邪魔だ。天霧と不知火を見て思う。
『(こいつら、邪魔だ)』
「(…目付きが変わった?)」
「!不知火――」
「ぐっ」
放たれた弾丸等気にせずに銃口を殴り、不知火が吹き飛ぶ。
転がって行く不知火を横目に「名はなんという」と千鶴に風間が問い掛けた。
雪村、千鶴。そう答えた千鶴に目を細め風間が鬼の姿を見せる。
するとその姿に影響されてか、千鶴の髪も白く染まり瞳が金色に染まった。
「…っ、」
「その姿を見ても己は人だと言い張るか」
「…私、は、」
声を震わせる千鶴に黒凪が天霧を殴り飛ばして向かって行く。
しかしそれより早く、土方が千鶴の肩を抱いて共に小太刀を握った。
此処は壬生の狼が住まう場所だ――。
土方の言葉に風間が微かに目を細めた。
「此処にいる奴等に端からまともな奴なんざいねえんだよ!」
「!…土方さ、」
『お前の名前を教えろよ、鬼』
ドンッと刀に血塗れの左手の拳をぶつけて黒凪が言った。
風間の目が血走った目をしている黒凪に向けられる。
黒凪も理解していた。今の自分が正気でない事は。
傷を負い、息つく間も無い程の戦闘を続けざまに行った黒凪の夜兎としての本能が完全に目を覚ましていた。
『(――ああ、懐かしい。こんなに血が滾るのはあの頃以来だ)』
「…風間千景だ。貴様も名乗れ」
『黒凪だ。姓は無い。』
「貴様は何者だ。鬼か、それとも」
私は夜兎だ。そう言ってニヤリと笑った黒凪を風間が腕の力を籠めて振り払う。
ひょいと地面に着地した黒凪は左手の傷を舐め、笑みを深める。
そうして再び風間に向かおうとゆらりと立ち上がった黒凪を千鶴が抱き着く様にして押し留めた。
振り返った黒凪の冷たい瞳が千鶴を映す。
『…千鶴、悪いけど離してくれないかな』
「駄目です!こんなに傷だらけなのに…!!」
『気にならないね。今は頗る気分が良い…』
「物騒な事言うね。黒凪ちゃん」
掛けられた沖田の声にも黒凪は耳を貸さない。
もはや千鶴さえも振り払ってしまいそうな黒凪を土方も抑え、そんな3人の前に沖田が刀を片手に立つ。
それを見た風間はフンと鼻で笑うと刀を鞘に納め「興が削がれた」と背を向けた。
『おいこら行くなよ風間ぁ』
「貴様が正気に戻ればまた相手をしてやる。それまで精々傷を癒せ」
「ったくよ、一丁お釈迦にしちまったぜ」
「…また次の機会に手合わせ願います」
各々そう言って去って行った風間達を見送り、無表情に暴れようとする黒凪を土方と千鶴が抑え込む。
くるりと黒凪に向き直った沖田が腰を屈めて黒凪の顔を覗き込んだ。
「やあ黒凪ちゃん。そのおっかない顔どうにかならないの?」
『………』
「…此処にいたのが一君なら何か変わった?」
そんな言葉にも黒凪は返答を返さない。
しかし途端に咳き込んだ沖田には、反応をした。
げほげほと苦しげに咳をして沖田が前屈みになる。その姿を金色の瞳が映した。
『…ゆっくり息を吸え』
「!…黒凪さん、」
「…正気に戻ったか」
「げほっ、ごほっ」
解かれた土方と千鶴の手から逃れて沖田の背に手を添える。
山南さん!と原田や永倉が声を掛けて山南の肩を揺すった。
其方に目を向けた土方は沖田をちらりと見てから山南の元へ走って行く。
千鶴もそこでやっと周りに沢山隊士達が倒れている事を思いだし、右往左往し始めた。
そんな千鶴をチラリと見て沖田が小さな声で言った。
「黒凪ちゃん、…僕って結構危ない?」
『……』
「もう僕の身体は駄目だったり、する?」
『…確実に何かの病には罹ってる』
黒凪の言葉に沖田が眉を下げた。
そっか。そうとだけ言った沖田の咳は止まっている。
…僕の症状と同じ病があるんだ。しかも死病の。…有名な。
ぼそぼそと言う沖田に黒凪が目を細めた。
「君がそう言うなら、多分それだね」
『…そっか』
「でもま、その症状で君が正気に戻ってくれたならそんなに嫌なものでもないかもしれない」
目を伏せて自嘲気味に笑いながら言った沖田に黒凪が小首を傾げる。
君の気を引けるなら、悪くないよね。病ってのも。
笑って言った沖田に一瞬だけ唖然として黒凪が笑った。
『はは、なんだそれ』
「…なにさ、笑わないでよ」
そう言って笑った沖田の表情はやはりまだ元気がない。
黒凪は気付かぬふりをした。
彼からの好意も、先程までの高揚感も。…忘れたふりを、した。
ねえ、こっちを見て。
(自分を少しも映さないその瞳に)
(思わずぞくりとした。)
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