極限状態

 ――トン、トン。靴を履いた爪先を地面に軽く打ちつけ、夏帆は具合を確かめてから大きく伸びをした。
 自室の扉をくぐり、施錠を確認する。人気の無くなった玄関を進んで外に出て腕時計で時間を確認すれば、もうすぐ夜の帳が異質なものへ変貌を遂げる事を針は指し示していた。

「初タルタロス。“召喚慣れしてもらう”なんて言われても……」

 な? と、夏帆は隣を浮遊する半身に同意を求める。だが、毎度のようにスルーされる。
 そもそもの発端は、今日の学校の昼休みまで遡る。
 桜達と連れ立って屋上で昼食をとっていた時、ゆかりが神妙な顔で“昨日の件及びと昨日までの話は他言無用と”口止めをしてきた。それには二つ返事で承諾した。
 すると、そこで今度は、桜からタルタロス探索の誘いをかけられたのだった。

――桐条先輩がね、今日から『タルタロス』っていう場所を探索したいらしいの。
――ふごふご……んぐ。タルタルソース? 掛けるとしたらエビフライだね。
――夏帆ッチ、ソレわざと? わざとだよな?

 一発ギャグでボケてみたものの、不評だったのか、馬鹿騒ぎ担当の順平にまでつっこまれる。夏帆は口の周りをハンカチで拭き、彼の呆れた視線から逃げるように目を逸らした。

――こほん……タルタロスって、確かギリシャ神話における“冥府に続く孔”を指してるけど…ネーミングはそこから?
――私もそこまでは……。ゆかりは?
――ううん、全っ然知らない。ついでに桜、話がずれてるってば。
――それもそうだね。話を戻すと、先輩達と幾月さんが“夏帆の力も見たい”って言ってたんだ。
――へぇ、そうなんだ。……ちっ、あのボケ眼鏡、余計な事を……。

 表舞台に引きずり出される展開につい苛立ってしまう。無意識に舌打ちした己の狭量さを自覚して、再度密かに舌を鳴らした。
 ふと何かを感じて顔を上げると、不思議そうにこちらを見る桜と目が合う。自然と顔をしかめていた事に気が付き、素が出掛かったか、と慌てて姿勢を正した。

――どうかしたの? 体調悪い?
――なんでもない! 気にしないでいいよ!
――んでさ、結局夏帆ッチはタルタロス参加すんのか?
――うーん、どうかなぁ。みんなが行く時は極力付いてく……けど……。

 返答は次第に尻すぼみになり、とうとう夏帆は桜達を直視出来ずに背中を見せた。
 急に膝を抱えてじめじめとしたオーラを纏い始めた仲間に、3人は揃って同じ事を考える。

“――夏帆(ッチ)ってよく分からない。”

 友好的な面を見たと思えば、突然他人を遠ざけるような行動をする。百面相ではないが、よく観察すれば割と表情豊かである事が窺えた。
 3人の視線に気付く事なく、夏帆は眉間を指でぐりぐりと押している。ほんの少し尖った唇からは、あ゛ー、えぅー、という唸りが聞こえてきていた。
 その後は特に目立った会話もなく、普通に授業をこなし、下校して今に至る。

「悩んでもしゃあないか……。危なくなったら、あいつらの首根っこ引っ掴んで逃げる方向で」

 集合場所として指定された寮の前で、肩を回して凝りをほぐす。桜からは、とにかく来てくれればいいと言われたが、いくつかの不安要素がある。
 まず、タルタロスでの召喚。召喚器を使用しての召喚は、今回が初めてとなる。
 次に、プレイヤー視点での探索でない事。つまり視点の問題。サポートが入るとは言え、迷い続ければあまりにも危険。
 最後に、何が起こるか不明な点は影時間だけでなく、タルタロスも同様だ。加えてタルタロスは、日ごとに内部構造を変化させる不規則な造りの迷宮。
 しかし“知識通り”なら、今日は1階の探索のみ。慎重に行けば問題なく終わる筈だ。
 そこまで考えていると、指定された時間より早く到着した。やる事もないので、ぼんやりと無人の街を眺めて暇を潰す。
 他の建物から流れ出る赤い液体は何なのか、と意味の無い考察をしているうちに、寮の扉が開く音がした。

「玄関で待たなくても、入ってよかったんだぞ?」
「いえいえ、そういうのは無しですよ。桐条先輩」

 制服姿の美鶴に続き、 S.E.E.Sのメンバーが揃って姿を見せる。全員が武器を所持しており、人に見られれば一発でアウトな危険集団に見えなくもない。

「これまた、皆さんファンタジーな事で……。結構危ない集団っぽいよ?」
「他人事じゃないぞ。高野の武器もあるんだからな」

 そう言うと、美鶴は細長い袋に入った何かを夏帆に手渡した。受け取った夏帆が袋の口を締めていた紐を緩めて中身を取り出すと、現れたのは一振りの日本刀。
 ずしりとした鉄の重みに短く呻くも、両手で鞘と柄に手を掛け、数センチだけ左右に引っ張る。

(うわ……、マジモンだよ……)

 鞘の下から僅かに顔を見せた銀色に、夏帆は畏怖と好奇心から釘付けになった。根元に細かい傷はあるが、表面はしっかりと月明かりを反射している。初めて手にした真剣を握る手に、意識せずとも力が入った。
 これから始まる、日常に隠れた非現実を生き抜く為の武器。真っ先に脳裏に浮かんだのは、“この刀で何を斬るか”という問いだった。
 その問いが当てはまるのは、夏帆だけではない。武器は違えど、ここに居るメンバー全員にも突き付けられる難題。
 現段階においてS.E.E.Sは、各々が持つ力をシャドウを消す力としか認識していない。仮初めとは言え、未来を知る身としては真剣を握りたくはないのが本音だ。

 ――そうでなければ、何か、取り返しがつかなくなってしまう気がする。

「あのさ……、みんなは、怖くない?」
「怖いって……。帰りたくなった? 手ェ震えてっけど、大丈夫か?」

 順平の指摘に、メンバーの視線が夏帆の手に集まる。小刻みに震える両手の揺れはそのまま刀へ伝わり、かちかちと音を鳴らしていた。

「……へーき。へーきだよ」

 震えの治まらないまま、どうにか袋へと刀を収めなおす。無理矢理引き上げた口角が、きちんと笑顔を作っているかすら怪しい。その証拠に、美鶴や桜が眉を顰めた。

(――今のままじゃ、戦闘なんか到底無理だ。何強がってんだよ……馬鹿かうちは……!)

 手が震えたのは、恐怖が原因ではない。何気ない順平の言葉に、内心酷く憤ってしまった事が原因だ。こうなってくると、正真正銘、馬鹿以外の何者でもない。

(帰りたくなったかって? んなもん、今すぐ“帰りたい”に決まってる…っ!)

 ここにきて、ペルソナを持つ切っ掛けとなったあの日の恐怖が体の底から蘇ってくるのを感じた。握り締めた右手を隠すように、左手で包む。勧誘された時、散々偉そうにしておきながら、この体たらくは笑えない。

「高野、戦闘が辛いようなら無理をしなくてもいい。明彦と待機しているんだ」
「……いえ、出ます。戦闘、参加させて下さい」

 タルタロスに入れば、シャドウはこちらの意思など関係なく襲ってくるのだ。実地訓練は必須、逃げる事は出来ない。
 それに、と夏帆は誰に言うでもなく呟いた。現在、メンバーで最も戦闘が怖いのは、ゆかりの筈だ。気持ちを切り替えなければ、今も心配そうな目を向けてくる彼女の足まで引っ張りかねない。
 背中に刀の袋を背負い、両頬に手を当てる。仲間の視線を感じるが、気にせず夏帆は思いきり自分の頬をひっぱたいた。
 バチィンッ、と辺りに響く破裂音に、一同は揃って目を丸くする。

「~~ったぁ…」
「か、夏帆…何してるの?」
「ん? 景気づけ」
「いや、違うと思うよ。それ」

 桜の疑問にそう答えれば、ゆかりから速攻でツッコミを入れられる。しかし、今ので夏帆も覚悟は決まった。

「お時間を取らせてすみませんでした。行きましょう、桐条先輩。みんなも、待たせてごめんね」

 しっかりと顔を上げた夏帆の瞳には、美鶴達と顔を合わせる以前は無かった光があった。目を合わせた美鶴は、そこから何かを感じ取ったのだろう。微かに微笑むと、一度頷いてみせた。

「よし。では、タルタロスへ案内する。準備はいいな?」
「はいっ」
「バッチリです」
「オレ、頑張っちゃうぜ!」
「やれるだけやります」

 桜、ゆかり、順平、夏帆がそれぞれ返事を返す。
 先導する美鶴に従い、寮から離れていく中で、夏帆はふと背後を振り返った。

(……気のせいか?)

 白と黒のモノクロな物体が視界の隅で動いた気がしたのだが、瞬きの後にそれは視界から消えていた。

「夏帆ー、行くよー」
「……っとと、置いてかれんのは勘弁願いたい。待ってよーみんな~!」

 先へ進む仲間を追って、その場から駆け出した。今度こそ、二度と恐怖に捕らわれないよう力を伸ばす決意を固めて。

 *

「――では、これより探索を開始する。とは言うものの、今日の探索は君達だけで行ってくれ」
「なっ……俺は問題ないぞ美鶴! 召喚器さえあれば戦える!」
「医者すら許可を出していないのに、怪我人をタルタロスへ放り込むわけにはいかないだろう。明彦は待機と言った筈だぞ」
「…………」

(分かりやすく拗ねてるし。どんだけ行きたいんだよ、タルンダ先輩)

 むすっとした表情を見せた真田は、美鶴のバイクに近い壁にもたれかかって目を閉じた。時折何か呟くのような声が聞こえる事から察するに、シャドウ相手のイメージトレーニングでもしているのだろう。

「だーいじょうぶッスよ真田サン! バッチリオレが決めますから!」
「“意気込んで探索中にずっこける”に1票かな」
「……あのさ、前々から思ってたけどよ。夏帆ッチの中じゃ、オレってどんなキャラなの?」
「ムードメーカー(滑りあり)」
「へー、そーかそーかって……って、括弧が筒抜けなんだけどっ!?」

 心外だと言わんばかりに叫んだ順平に、夏帆は桜と顔を見合わせた。お互いに、考えた事は同じだったらしい。
 そんな時、緩んだ雰囲気を締めるように美鶴が一度手を叩く。

「騒ぐのはいいが、タルタロス内では気を抜くんじゃない。ここは内部の構造が毎日変化する迷宮だ。一度迷えば、サポート無しに戻ってくるのは困難だぞ」
「うげっ、まるっきりお化け屋敷じゃないすかソレ!」
「むしろ、お化け屋敷以外に例えはないと思うけど……って、ゆかり大丈夫?」

 順平をスルーした桜は、隣に立っている友人の様子が気になって声を掛けた。ゆかりは体の前で弓を持ったまま俯いており、閉じられた目は微かに震えている。
 もう一度桜が呼び掛けると、ゆかりは“大丈夫”とだけ返し、大きく深呼吸を繰り返した。それを見た桜は察する。緊張しているのは自分だけでない、と。
 寮の玄関先で1人待っていた夏帆、平静を保とうと努力するゆかり。順平だって、始めは影時間に混乱したと言っていた。皆、未知の脅威に対面して平常心でいられないのだ。

「――次に、これからの探索にあたって、現場リーダーを決める」
「リーダー? やりてぇ!」
「「えぇーー……」」
「んなっ、夏帆ッチとゆかりッチ、ハモんなくてもいいじゃん!」
「私は却下。順平だと……ね?」
「右に同じく。リーダーなら桜が適任かと」

 思考の海に没頭していた桜は、突然の指名に弾かれたように顔を上げた。全員が自分に注目しており、何事かと目をしばたかせる。

「確かに、そうだな。神路」
「はっ、はい」
「現場の指揮を、君に任せたい。やってくれるか?」

 まさかの抜擢。咄嗟に桜は首を横に振り、否定の意を示す。だが、他の仲間達は考えを改めるつもりはないように思えた。

「難しく考えなくていい。君に頼むリーダーの役割は、探索時の先導役と戦闘における簡単な指示出しだ。最初から戦況全てを把握しろ、なんて言わないさ」

 桜の緊張をほぐすように、出来るだけ声音を柔らかくして美鶴は言う。しかし、それだけでも桜には相当難易度の高い指針に思えて仕方なかった。
 どう返事をしたものかと迷っていると、肩を2、3回軽く叩かれる。そちらを向くと、頬に何かを押し付けられた。

「えへへ、引っかかったーい」
「高野、遊びは探索の後にしてくれ」

 美鶴の注意を流し、ふにふにと夏帆の指が桜の頬をつつく。棒立ちでなすがままにされる桜は、満足げに笑った夏帆の指を離されてから、今の行動の意図を悟った。

(――もしかして、私が緊張してたから……?)

 そう思うと、胸につっかえていたしこりが少しだけ軽くなった気がした。美鶴に説教されてヘコむ仲間に、彼女は内心で礼を述べる。

「夏帆ッチって、割と空気読まない? 空気詠み人知らず?」
「おっと、それはひどいんじゃないかな順平クン? 空気詠み人知らずじゃなくて、“敢えて空気読まない”の間違い」
「なおさらひどい」
「だまらっしゃい、空気詠み人知らず本家」
「本家ってナニ!?」
「……伊織、高野。そろそろ静かにしてほしいんだが。それとも、帰ったらラウンジで1時間正座するか?」
「「スミマセンでした」」

(ひぃい、リアル女帝怖いっての……!)

 部長の威圧感に戦慄した夏帆は、順平と2人揃って直角に腰を折る。打ち合わせたわけでもなく動きがシンクロするのを見て、呆気に取られた美鶴の怒気が瞬く間に消えていく。
 そんな光景の広がるエントランスに、空気を吹き出す音が響いた。

「あ、あはは……っ、2人とも漫才みたい。息合いすぎだよっ……!」

 ツボに入ったのか、目尻に涙を浮かべ、桜が笑う。一頻り笑った彼女の表情に先程までの迷いは無い。

「……神路、君の意思を聞きたい。どうする?」
「私は構いません。行こう、みんな」

 美鶴への返答は淀みなく、そこにはリーダーの片鱗が既に存在しているような芯の強さがあった。
 桜の号令に、仲間は大きく頷く。サポートは万全だからな、という美鶴の激励を受け、2年生達はタルタロス内へ踏み込んだ。

 *

「――よかったのか、美鶴」

 探索のフォローをしながら、戦闘時のアナライズをペルソナ『ペンテシレア』でこなす美鶴。彼女が一段落着いた頃合いを見計らって、真田はその背に声を掛けた。
 彼の脳裏に去来するのは、大型シャドウが寮を襲撃した後の美鶴の様子だった。

――これは……?
――どうしたんだ、美鶴。
――神路は無事だ。だが、彼女の傍に我々のものではないペルソナの反応がある。
――理事長に言うのか、そいつのことは?
――いや、まだ早いだろう。今は彼女のペルソナが救ったのだと報告する。

「勧誘した時、高野があの時のペルソナ使いだと分かったまでは問題なかっただろう。けどお前は、高野に断られた時、柄にもなく動揺していた」
「……やはり、気付いていたか」

 通信機を置き、息を吐き出した彼女は、空に目を向けた。真田からは、横髪で遮られて美鶴の表情を窺う事は出来ない。
 しかし、それは彼にとって問題ではない。美鶴がどんな顔をしているかは、概ね予想がついたからだ。

「大して隠す気もなかったんだろう?」
「……多少はあったさ。だが、彼女が探索に加わってくれた事には安堵している」
「俺としては、一言くらい文句を言ってやりたかったんだがな」

 怪我を庇うように体制を整えた影響か、真田の口が回りだす。その声には、聞く事に集中しなければ聞き取れない程度に熱がこもっている。
 真田の心の中にあるのは、焼け残った炭のようにくすぶる怒りだ。
 後輩達に探索を任せる羽目になった自身の力量不足への怒り。加えて、勧誘時に夏帆から一方的に話を切られた事への悔しさからくる怒りが前者と綯い交ぜになっている。

「大体、言うだけ言ってアレはない。まるであの時の俺達に“興味はない”と言いたげな態度だったじゃないか」
「彼女の眼には、我々の行動はどう映っているのだろうな……」

 そこで会話は途切れた。真田は再び壁に背を預け、目を閉じる。美鶴は美鶴で、一度タルタロス内部に続く扉を見上げた後に迷宮のナビを再開した。

 *

「――ッ、へくしっ!」
「おお? どーしたよ夏帆ッチ、風邪?」

 既に幾度かの戦闘をこなし、各々の武器の扱いがようやく形になり始めた頃。鼻にむずがゆさを感じた夏帆は、咄嗟に刀を持っていない左手でそこを覆い隠してくしゃみを洩らした。
 二歩先を歩いていた順平が、それに気付いて茶々を入れてくる。そんな順平の背中を、夏帆は容赦なく鞘の先でど突いて黙らせる。
 「ぐぶぇっ!?」などという呻き声がしたが、彼女は無言でその横を足早に通り過ぎる。

「夏帆って……」
「順平に対しては、割と手加減ないよね」

 一連の流れを遠巻きに見ていた桜とゆかりは、こっそりと言葉を交わす。倒れた順平がすぐに復活して夏帆に文句を言っている辺り、手加減はしていたらしい。

「毎回毎回、俺だけ扱いひどくね!?」
「……個人的にはかなり加減してたよ」

 嘘ではない。背中を狙う直前までは、鞘を凪ぎ払う事で“膝かっくん”を仕掛けようかと考えていたのだ。

「はいはーい、みんな行くよー」
「ほらっ、早くしないと桜に置いてかれるよ2人とも!」

 数メートル先で手を振る桜を目指して順平とゆかりが先に走って行く。夏帆もそれを追おうとして刀を背中に掛け直し――唐突に“ソレ”の足音を聴いた。

「――――ッ!?」

 心臓が爆発寸前の爆弾になったかのような激しさで脈を打ち始める。
 呼吸が上手く出来ない。手足が、体全体が何かに押さえつけられたように固まって動かす事が出来ない。

(馬鹿、動け! 動け、うちの足!!)

 何故美鶴は何も言ってこない。あのシャドウの出現も、接近も、ましてや彼らにそれが近付いている事も。
 重量感のある鎖を鳴らす音に桜達は気が付いたのか、戸惑いを露わにしながら辺りを見回している。

 ――そして、ソレは現れた。

(早過ぎる、早過ぎるだろ!? なんだって“刈り取る者”がこんな初期で!?)

 そのシャドウが現れた事で、空気が完全に変貌した。ただ気味の悪かった空気から、濃厚な血の匂いを纏わせた、死の空気へ。
 桜が通信機へ何か言っているが、彼女の手の中にある通信機はノイズ音を流すだけの鉄屑へと成り果てていた。
 死神は既に両手に持ったロングバレルを構え、桜とゆかりに照準を定めている。
 召喚器に手を掛ける時間は無い。武器を構えたところで、全員が束になってもアレには適わない。
 考えろ、考えろ。夏帆はこれ以上ないほど頭を回転させる。3人は恐怖に縛り付けられてまともに動けない。彼女達が無事に生還するには――

「っ……アス、トライアッ!」

 半ば恐怖で裏返った声で、右手を刈り取る者に向けて伸ばす。
 自分の体が青い燐光に包まれると同時に、半身が死神へ一直線に疾走を開始した。
 新たな的が出現した事で、照準は桜とゆかりから外れてアストライアに変更される。戦闘が開始されたのを視界の隅に捉えながら、夏帆は座り込んだ2人の少女を強引に立たせた。

「あんたらは逃げろ、うちが囮になる!」
「えっ……で、でも夏帆は」
「桜達が先決だ! 全員で逃げても追われるだけ、誰かが留まんなけりゃ、あんたらが生きて帰れないだろうが!」

 ――だから、とっとと行け!

 そう叫ばれて、力一杯背中を押される。
 嫌だ、と桜は思った。
 囮になると言う夏帆自身が、真っ青な顔をして真っ青な唇を噛み締めて恐怖を堪えているのに。
 あれだけ死にたくない、と言っていたくせに。1秒後には死ぬかもしれない状況に、身を投げ出した。
 けれど、心のどこかでは夏帆の意見に賛同する自分がいる。その事実が、何よりも嫌だった。

「ゃ……っ!?」
「なに!?」
「うぉおっ!?」

 夏帆も一緒に逃げよう、と言いたくて一歩踏み出す。
 突然、桜達の体が浮いた。夏帆が何かしたかと思いきや、彼女もこちらの状況に目を見開いている。

「お……オルフェウス!? ダメだよ、放して!」

 桜を抱え上げたのは、彼女の意思を無視して現れた『オルフェウス』だった。
 ゆかりは『イオ』の膝に座らされて震えている。順平は『ヘルメス』の脇に抱えられ、どうにか抜け出そうと暴れていた。

「……そっか。ペルソナそのものが“意思”なんだっけな」

 安堵の響きを含ませ、夏帆はペルソナ達に来た道を戻るように求めた。
 それに応じた3体のペルソナは、それぞれの主を連れて撤退していく。あのまま上手く他のシャドウを撒く事に成功すれば、いずれは転送装置まで辿り着くだろう。
 1階は、そこまで広い構造をしていないのだから。

「あーあ、つい素が出ちゃったよ、折角キャラ作ってたってーのに……。ところで、どーすりゃうちも逃がしてくれる?」

 桜達を無事に見送ったまでは良かったが、もはや動くだけの気力も失せていた。自暴自棄になるのを自覚しながら、刈り取る者に対して精一杯の軽口を叩く。
 しかし、代わりに返された答えは、ロングバレルを構える音だった。

「あは、そりゃ無理かー……。悪い、凪……一足お先に、人生終えるわ」

 制服のスカートのポケットに手を入れ、ロケットに触れる。能力的にも精神的にも、自分1人では生き残る確率は0なのだ。

 ――ガゥン!!

 銃口をこれ以上見たくなくて、目を瞑る。引き金が引かれる直前、夏帆を庇うように射線上にアストライアが割り込んだ。
 貫通属性は弱点でないが威力が桁違い。戦車から撃ち出された砲弾を生身で喰らったような衝撃が、アストライアを通じて夏帆に襲い掛かる。

「が……、ぁ……!」

 衝撃を殺しきれず、体は10メートル以上ふっ飛んだ。それだけでは止まらず、2、3回バウンドした後に漸く停止した。
 ブラックレイヴンに襲われた日の再現みたいだ、と他人事のように考える。

「っ……は,ご……っ!!」

 指1本動かせないまま、酸素を確保しようと息を吸い込んだ途端、盛大に吐血した。肺が傷を負ったのか、呼吸するだけで胸全体が激痛に見舞われる。
痛みで霞む目をなんとかこじ開けると、アストライアは消えていた。数メートル先には“死”が姿を持って佇んでいるだけ。

(は……は、DEAD END……ってか。笑えねー……)

 きっと、初めからこの世界にとって、自分は“イレギュラー”だったのだ。
 運の尽きだな、と嘆く暇もなく、夏帆の意識は闇に呑まれた。
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