移ろいの風

 エントランスは、戦場と化していた。否、今回は戦場というには余りに一方的な戦闘。壁や床の一部には罅が入り、崩れ落ち、中には焼け焦げた箇所も存在する。
 そんな死地で、2人の少女は必死に現状を打破しようと努力していた。

「くっ……、岳羽、無事か!」
「なんとかっ、きゃぁ!」

 彼女達を襲っていたのは、2体の大型シャドウだった。片方は背が高く、やせ細ったシャドウであり、もう片方は正反対に丸々と太ったシャドウ。2体の服装はカラーリングが多少異なるだけで、中世ヨーロッパの貴族を連想させる。
 そんな大型シャドウ達の足下には、ゆかりが放った大量の矢が散らばっていた。しかし、一本の矢として原形を留めているものはどれ一つとして存在しない。全てが真っ二つに折れていた。酷いものだと、鏃以外の部分は炭化している。
 戦況は、美鶴達の圧倒的不利。前衛に美鶴が着き、ゆかりは後衛としてフォローに回る。初めこそ戦力は拮抗していたかに思えたが、ある時を境に彼女達の希望は無惨に打ち砕かれる結果となった。なにせこのシャドウ達、途中から攻撃が一切通らなくなったのだ。
 やせ細ったシャドウが振るった杖に2人まとめてなぎ飛ばされ、タンクがひしゃげ、ヘッドライトが砕け散ったバイクに叩き付けられる。かは、と衝撃で肺から酸素を吐き出したゆかりの手から弓が弾かれ、からからと乾いた音を立てて転がっていく。
 そのまま彼女は倒れ伏してしまい、起き上がる様子が見られない。痛みを訴える全身の神経を気力で押さえつけ、気を失ってしまったゆかりを庇う位置にどうにか立つ。

(これは…絶体絶命だな…)

 何度か床に叩きつけられたせいで明滅する視界の中、大型シャドウがそれぞれ手に持った獲物を振りかぶるのが見える。立つのが精一杯だが、せめて背後で倒れている少女の盾にはなれるだろう。
 エントランスの隅に設置されている転送装置は黙したままで、後輩達と真田が帰還する気配はない。自身の召喚器はその近くまで転がっていった為、今の美鶴はレイピア一本で敵の前に立っている。
 唸り声、雄叫びのどちらかともとれる咆哮がエントランスの空気を震わせた。ここまでか、そう思いこれから来るであろう痛みを覚悟して目を瞑る。
 ――しかし、いつまでも攻撃は来ない。変化した事といえば、耳に聞こえる雄叫びが悲鳴に近くなった程度で……。

(悲鳴……?)

 薄らと目を開く。そこに広がっていたのは、見慣れた赤。S.E.E.S内で最も付き合いの長い少年の背中だった。

「大丈夫か、美鶴」
「明彦…。間に合ってくれたか……」

 気遣うように声を掛けてきた少年の声に安堵し、緊張で固まった精神が解れていく。真田の手には、抜き放たれた召喚器が握られていた。

「大きな怪我はなさそうだな。岳羽は……」
「大丈夫だ。意識を失っているだけだからな、影時間が明けるまでには目を覚ますだろう」

 そうか、と背を向けたままの真田の肩から多少の力が抜けて見えた。そこへ、だだだだーっと誰かが猛スピードで駆け寄って来る。

「み……じゃなかった桐条先輩大丈夫ですか!? ゆかりは!? あと真田先輩桜が呼んでますよ急いでください!」

 突然現れてセリフのほとんどを一息でまくしたてる夏帆に、美鶴は驚き、目を丸くした。
 隣の真田に頭を小突かれそうになり、ぎりぎりと左手で押し合いをしながら美鶴に視線を合わせる為にしゃがみ込む。

「高野、来るのなら何故……というか明彦」
「理由は知らん。美鶴、こいつには後で説教だ。先にあいつらを片付けてくる。高野も来い」
「うち猫じゃないし! タンマ、先輩首締まるタンマっぐぇ」

 むんずと襟首をわし掴まれた夏帆は締まりかける首に手をかけるが、抵抗も虚しく戦線へ引きずられていく。美鶴はその背に伝えなくてはならない事があった。痛む体で、どうにか声を張り上げる。

「明彦! そいつらには攻撃が効かない、気をつけろ!」
「攻撃が……無敵なのか?」
「んなシャドウいてたまるかってんですよ。理不尽です理不尽」

 足を止めて振り返った真田に、夏帆が襟首を掴まれたままぶーたれる。美鶴は彼らに、途中までは戦えた事、妙な動きをしてから攻撃が通じなくなった事を簡潔に伝えた。
 今までにない強敵の出現に美鶴の表情は険しいが、対して真田はある方向を顎でしゃくって見せた。

「わかった。だがその問題は解決するかもしれない」
「どういう意味だ?」

 真田の自信の根拠が分からず、美鶴は首を傾げる。それに答えようとした時、彼の耳に扉の鈍い開閉音が届いた。
 ぬるい外界の空気が流れ込んで来る。扉を開いた人物を見て、最初に反応したのは風花だった。

「も、森山さん……!?」

 足取りが覚束なく、瞳の焦点もしっかりと定まっていない褐色の肌の少女。誘蛾灯に誘われた蛾のように歩く彼女は、風花の声が聞こえたのか更に内部へ足を進めようと――

「馬鹿者、寮で待っていろと言っただろう!」

 その足が、怒気を孕んだ美鶴の声で止まった。
 ただ怒鳴りつけたのではなく、来るな、という美鶴の願いが籠もった声。そのまま回れ右をして寮へ戻ってくれという彼女の思いも虚しく、虚ろな目のまま、夏紀はエントランスの内部へ進もうとする。
 シャドウ達の雰囲気が変化したのは、その時だった。
 S.E.E.Sの面々に押され、腹ただしげだった唸り声は、新たな獲物を発見した猟奇的な嘲笑に一変した。いち早く夏紀の危機を察知した美鶴は、長年の付き合いのある少年の名を呼ぶ。痛みで動く事の叶わない体が煩わしい。

「くっ…、明彦!」
「分かっているさ! ポリデュークス!」

 バリン、と氷の割れる音が鳴り止む前に、少年の半身は標的となった少女を救うべく宙を駆ける。同時に、少年自身も鍛えた両足に力を集約して短距離ランナー顔負けの疾走を開始した。

「夏帆、順平!」
「はいよ。アストライア!」
「おりゃぁ、行けヘルメス!」

 それを援護し、夏紀に伸びる魔の手を阻む為に桜の呼び声に応じた銃声が連続して鳴る。
 頭上から降ってきた3体分の異形の影に反応し、女帝は迎撃態勢を取ったが、皇帝は意に介さず無力な少女を喰らおうとなおも手を伸ばす。
 狙われた張本人は、今まさに自分の身に降りかかろうとする死を前に、それでも風花を目指して足を動かしていた。
 彼女の意識を占めるのは、これまで風花を傷付けてきた罪悪感と、予測不能の事態で死んでしまう可能性への恐怖。

「風花。アタシ、アタシ……」
「森山さんっ、来ちゃダメ!」

 思わず、風花の体が動いた。力なく伸ばされた手を取ろうと意識した途端、疲労困憊の体を鼓舞してだろう、どくんと全身を熱が巡る。
 確かに、虐めの対象とされていた事はどうしようもなく辛かった。風花には助けを求められる相手がおらず、かといって彼女らに抵抗の意思を示す事は出来ずに、ただ耐えるしかなくて。
 それでも、“見捨てる”という選択肢は彼女の中には無い。如何なる理由があろうと己の身を省みず、こうしてここに来た彼女を守りたい。皆が手を差し伸べてくれたように、自分も手を差し伸べたい。

(私、私にも…できる事はある……!)

 夏紀の手を取り、離さないよう左手でぎゅっと握る。空いた右手は自然と真田から受け取った“御守り”に伸びる。
 心のどこかから語り掛ける声に導かれ、風花は躊躇いなくこめかみにあてがった銃の引き金を引いた。風花の静かな決意に応えて、彼女達を巨大な人影が包み込む。

 ――盲目の女神『ルキア』。

 淡い蒼色の光を放ちながらも、ルキアは立ち上らせた光で皇帝と女帝の攻撃をまとめて正面から防ぎきっていた。
 上半身は桃色のウエディングドレスに似た衣装が鮮やかであり、下半身はガラスのように半透明なルキアのスカート。その中で胸の前で手を組み、祈りを捧げる風花。倒すべき敵を見据えると、曇りのない瞳を向けられた帝達がたじろいだ。

「「おりゃあぁあああぁっ!!」」

 その隙を突いた夏帆と順平がペルソナと共に突進していく。だが、シャドウの反応も迅速なものだった。迫りくるアストライアに女帝が杖を向け、魔力の籠った爆炎を浴びせる。凄まじい爆発音と煙で視界が塞がれた。
 あの炎の中では、身動きも取れずに小娘共々焼け死ぬだろう。そう考えて優越感に浸っていた女帝の思惑は、しかし見事に外れる事となった。

「アブねー。大丈夫か、夏帆ッチ」
「助かった。おかげでちょいチリッとしただけだし。一瞬順平がかっこい……やっぱ何でもない」
「んだよーそこは『キャー順平君カッコイイー!』とか言うトコだろ!?」
「へーそんな奇特なコト言うメンバーがここにいるのかー寒いわー。理事長のダジャレ並に寒いわー」
「あのおっさんと同レベル!?」

 戦闘中にも関わらず、彼らの口はコントを繰り広げている。会話が終わる頃には、炎によってうまれた煙が晴れていた。そこには、ヘルメスの背に護られて無傷に近いアストライアが浮遊している。
 視界が開けると同時にアストライアが女帝目掛けて一直線に飛び出す。腰だめに構えた剣を一気に振り抜くも、皇帝の巨大な剣がそれを阻んだ。一合、二合と打ち合うも、皇帝が壁となって女帝に刃は届かない。

「――2人とも下がって!」

 物理が駄目なら、特殊あるのみ。桜の指示に従って後退した夏帆達と入れ替わる形でポリデュークスと見た事のない異形が頭上を飛び越えていき、その勢いのまま

「『カハク』、アギラオ!」
「ポリデュークス、マハジオだ!」

 ポリデュークスの放つ何条もの雷が、皇帝の周囲を電撃の檻を形成する。身動きの取れなくなったその瞬間を狙い、カハクの業火が皇帝を包んだ。

「うっわ、えげつな……。てか、チャイナ服もうゲットしたのかよ」
「チャイナ服? んなの桜ッチが着てんのか?」

 何気なく呟いた内容に聞き返され、答えに窮する。確かに、普通なら人が着るサイズのチャイナ服を連想する筈だ。
 しかし、夏帆の思い描いていたチャイナ服とはアイテムの一種。ベルベットルームの住人から受諾した依頼を達成した暁に報酬として渡される、特殊なペルソナを合体する為のアイテムなのだ。
 そのまま説明する訳にはいかないし、今はそんな場合ではない。よって両手を肩の高さで広げ「さあ?」と言葉を濁す事で逃げる。
 その時、彼らの頭上の大気に火花が散り始めた。静電気の鳴る音に目を向けた直後、互いの足下にペルソナ召喚の陣が浮かぶ。

「ぐぇ!?」
「おわっ!」

 直後、何かに強引極まりない引っ張り方をされて2人の間に3メートル程の距離が出来る。そこにピンポイントで巨大な落雷が突き刺さり、ひび割れると同時に大小の破片を撒き散らした。

「げほ、ま、また……!?」

 本日二度目となる絞首未遂に嫌気が差す。アストライアによって強制的に後退させられた夏帆は、咳き込みつつ前方を確認した。すると、同じくヘルメスに後退させられたらしい順平が床を見て固まっている。
 先程まで自分達がいた場所は落雷により破損しただけでなく、周囲をどす黒く変色させていた。あれをまともにくらえば、どれだけの傷を負っていただろうか。考えたくもない。
 主の危機を察知したペルソナの行動がなくては、直撃もあり得ただろう。ぞっと背筋を寒いものが走り抜ける。

「いてっ」

 戦慄していると、アストライアに頭を叩かれた。見れば、腕を組んでこちらを見下ろしてくる。なんとなくじっと見返していると、アーモンド型に近い黄金の瞳が細められ、もう一度頭を叩かれた。
 どうやら、ペルソナは自分が考えていた以上に自立意思が強いようだ。新たな発見に驚きつつ、こちらを窺う順平には軽く手を振って無事を知らせておく。
 見えたらしい彼は、被っていた野球帽のつばを上げて笑った。

《高野さん、跳んで!》
「――っと!!」

 一連の行動が女帝の神経を逆撫でしたのだろうか。頭に響いた風花の声を理解するより早く、夏帆は迷わず頭から床へダイブしていた。うなじをを氷点下まで下がった極寒の冷気が撫でる。

(『ブフ』――いや範囲が広い。『マハブフ』か!)

 目立った動きはしていないと思っていたが、ターゲットとしてロックオンされてしまったらしい。着地点で前転し、先刻破壊された床の破片で最大の物を手に取った。
 成人男性の拳ほどはある大きさだ。投擲すれば、少しはダメージも入るだろう。
 三度目の魔力の高まり。ビュオォオ……と女帝の杖の先で風が渦を巻く。自然と口が動いていた。

「順平! ヘルメスの弱点突かれる、下がれ! あと可能なら女帝の背後とってほしい!」
「背後に回んのか? やってみっけど……アレどうにか出来んのかよ!?」
「数秒は動きを止められる……と思う。桜と真田先輩が皇帝の相手してる間に、後ろから引きずり出した方がいい!」
≪私も賛成です。なんとなくですけど、あの怪物達はまだ本気になってません。このままじゃ皆さんが危険です!≫

 現在は前衛の皇帝がカハクとポリデュークス、2体のペルソナを同時に捌いている。氷結属性が弱点のポリデュークスは、時折女帝が乱発する氷結魔法のせいで迂闊に近付けていない。
 当たりそうになればカハクが火炎属性の魔法で相殺しているが、このせいで桜は攻撃に転じきれずにいる。
 膝を付いたまま桜に目を向けると、視線が交わった。夏帆が口を開こうとすると、アンダースローで何かが飛んでくる。
 左手で投げられた何かを咄嗟に受け取り、手を開く。渡されたのは、薄紫色の光を閉じ込めた硝子玉のようなアイテムだった。

「使って!」

 簡潔な指示。何に対してかなど聞く時間はない。既に女帝の杖に集められた風の猛威は、ゴゥゴゥと暴風の如き唸りをあげるまでに勢いを増していたのだから。

「ありがと! 恩に着る!」

 声が届いたかは分からないが、夏帆は正面の女帝に向き直る。暴風の余波で髪が乱れる。以前、眞宵堂の店主に同じ物を見せられた事があった。使用に問題はない。
 女帝が杖を向けた。突き出された杖に宿っていた魔力が暴風となり、ゴーーッと激しく暴れながら夏帆を飲み込まんと襲いかかる。

「そこで、止まれっ!」

 目前までそれが迫った時、夏帆は握り込んでいた物を勢いよく足下に叩きつけた。次の瞬間、暴風は獲物であった少女の鼻先で何かに跳ね返されたように方向を変える。
 四散した風は、そのままの速度を保って術者に牙を向く。女帝は虫を払うような仕草で風を消したが、指向性を失った残りの風は皇帝を飲み込んだ。
 弱点を突かれ、背中からひっくり返った巨体は身動きが取れずに手足をばたつかせる。その隙を見逃さず、見事な連携で桜と真田が総攻撃を仕掛けた。回避を試みた皇帝は、しかしたちまち彼らの餌食となる。

「ちっ、まだ立つ余力があるのか」

 忌々しげに真田が呟く。空気を読んでいない事は承知だが、やはり、

「真田先輩、すごく……悪役です……」
「お前は戦闘に集中しろ!」

 距離はそれなりに開いていた筈。にも関わらずぼそりと口にした言葉はしっかりと届いていたようで、本人からお叱りを受けてしまった。「ほーい」と間延びした返事だけをして、スカートの埃を払いながら立ち上がる。

「夏帆って変な所で度胸あるよねー?」
「変ゆうなー。自覚はあるんだからさー」

 そう、自覚はあるのだ。別名が葉野菜の人ではないが、道化のように振る舞わないとまた恐怖で足が動かなくなりそうなだけで。

“―――――!!”

「あー……うっさいうざいうっとおしい。人語喋れ、喋れなきゃ黙れ」

 びっ、と刀の切っ先を突き付けて挑発すると、真下の床から噴き出す突風。バク転とサイドステップを駆使してなんとか距離を取るが、あちらからすれば腹立たしい事この上ないだろう。
 ヒステリックを起こしたのか、言語に出来ない金切り声には片耳を塞ぐ。抗議代わりに他の破片も投げつけてやれば、一段と声が大きくなってしまった。
 黒板を爪で引っ掻き回す方がまだマシだと思えてくる。耳がおかしくなりそうだ。笑い始めた膝を力任せに殴りつけて強引に震えを止める。

(順平は……)

 固定していた視界の焦点を、女帝から背後の空間にそっと移す。――居た。マントで見え辛いが、彼の持つ両手剣が影時間の濃い月明かりを反射し、居場所を教えてくれている。

「あら……よっと!」

 最後の破片を持ち直し、大きく振りかぶって全力でぶん投げた。狙うは女帝の仮面、もしくは首から上ならどこでもいい。足下から視線を逸らせば、その時点で作戦成功だ。
 放物線を描いた破片は目論見通り女帝の眉間近くにヒットした。体の向きを変え、こちらに近付いて来る。じりじりと後ずさっていた夏帆は、そこで完全に背を見せた。エントランス右奥まで脇目も振らず走る。

「敵に背を向けるな!」

 叱りつける美鶴の声にも耳を貸さず、壁に背をつける形で立ち止まる。見上げた女帝は頭上高くに杖を翳しており、杖先には青白い火花が散っていた。
 相手の意識は完全にこちらに向いている。今しかない。判断した所で、女帝で隔たれた向こう側へと呼び掛ける。

「順平、ぶちかませ!」

 その叫びで女帝がこちらの意図に気付くが、もう遅い。杖先を背後の彼へ変更する前に、滑空で突進力の高まった金色の翼が背中を強かに打ち据えた。
 衝撃に耐えきれず、女帝の顔が下を向く。自然と床を見下ろす態勢となった隙だらけのどてっ腹に、真下に潜り込んだアストライアの拳が叩き込まれた。

「新婚さん、いぃらっしゃーぁいっ!」
「カンケーねぇ!?」

 待ってましたと言わんばかりにあくどい笑みを全開にした夏帆が振り抜く拳は、半身と完全に同調。見事なフォームのスカイアッパーと化す。
 ぎ、と殴らた勢いで女帝の上体がくの字に折れ曲がり苦悶の声が漏れる。僅かに浮かび上がったその手から、巨大な杖が離れた。
 対面で順平が漫才師顔負けのツッコミを入れていたが、それについては馬耳東風。「使いどころが違う」なんて真田のツッコミは聞こえない。
 さておき、順平の目から見てもこれは絶好のチャンスだった。即座に機転を利かせ、再びヘルメスを召喚。夏帆の一撃に便乗して脚をに当たる部分を掴み、女帝を背中から床に叩きつけた。

「また綺麗に決まったなー、一本背負い?」
「へへっ、どーよオレの実力!」
「GJ。シャドウが可哀想なレベル」
「……それ、あんな顔でぶん殴った夏帆ッチに言われたくねぇ」
「だーれが極悪非道だって?」
「ちょ、言ってない!?」

 2人は軽口を叩き合いながらも急いで距離を取り、何が起きても対応可能とする為にそれぞれの武器を構えた。
 だが、そこで順平がある事に気付く。刀を持つ夏帆の手が傍目からみてもはっきりと痙攣していたのだ。

「夏帆ッチ、手ェ……」
「申し訳ない。実は、あんま右手に力入んないんだよ」

 タルタロス内で無茶をしたツケが、ここで症状となって夏帆を襲う。震える右手を左手で包み込んで刀を構え直すと、隣の少年が数歩分斜め前に歩み出た。

「もうちょいで真田さん達もケリ付きそうだしな。今度はオレッチのサポート頼むわ」
「…………、さんきゅ」

 言いたい事は他にもあるが、今はこれでいい。彼の立ち位置は自分を庇うポジション、きちっと補助に徹するのが先だ。
 ――その時。視界の隅、皇帝と戦う桜達の方で激しい閃光が瞬き、遅れて雷鳴が轟いた。野太い断末魔の叫びが鼓膜を打つ。続いて、風花が彼らに1つの知らせをもたらした。

《皇帝、消滅します!》
「「マジ!?」」
(あれ……あれー? 苦戦しそうだなーってうちの予想は場外ホームランですか!? いや待て仮にもボスだろアンタ!? 大体さっき風花が本気になってないとかなんとか)

 その身が関するアルカナの如く慢心でもしたのだろうか、と夏帆の思考は混乱の際に立たされていく。足元を掬われるとは正にこの事、慢心乙、などとりとめのない言葉が浮かんでは消える。
 その間にも通常のシャドウと同じく、トドメを刺された皇帝は黒い霧へ昇華していった。ともあれ、これで残るは女帝のみ。


「ふぅ――っ、いっ、づ……!」

 ほっとして肩の力を抜いた途端、完治した筈の、忘れていた腹の痛みが蘇ってきた。幻痛と分かっていても思わず古傷を庇ってうずくまった夏帆を順平が気遣う。それに「へーきだ」と返すと、胡座に近い姿勢で座り込んだ。

「それにしても。ハンパない……」

 口の中で転がした言葉は、誰に届く事もなく消える。一体何を召喚したのかと疑問に思いつつ司令官の少女へ視線を移すと、気付いた彼女が銀髪の少年と共に駆け寄ってくるところだった。

(むぅ、見逃した……)
《皆さん、まだ来ます!》

 片割れが撃破された事の怒りだろう。残された女帝がいつの間にか落とした杖を拾い上げ、少年少女へと突きつけていた。

「順平、夏帆を後ろに!」

 もう退かせた方が良い。古傷の痛みに顔を引き吊らせる夏帆。その様子を見て判断を下した桜は、早口で彼女を心配する少年へ指示を送る。
 そして順平が夏帆に肩を貸して下がった事を確認すると、駆け出しながら己のこめかみへ銃をあてがった。
 薄氷の割れる透明感のある音の次に、桜の背後に影が差す。飛び出していったのはオルフェウスやカハクのような人型のペルソナではない。ペルソナ『フォルネウス』。体格はエイに酷似しているが、虚空を漂うその背には主の少女が膝をついている。
 迫り来る新たな気配。女帝は残り少ない体力で迎撃にあたった。散開した桜達に向けて次々と杖が振るわれる。だが……

「よっ、と」
「甘いっ」
「お、あぶなっ」

 攻撃魔法の軌道を読み切ったのか、彼らは直撃寸前でかわす。そのまま一番に突っ込んだ順平の斬撃、真田のラッシュ、桜の――

「トドメッ!!」

 フォルネウスの背から跳躍し、重力落下による加速と大上段から薙刀を振るう遠心力。それら全てが合わさった渾身の一撃は、女帝の肩から腰にかけての部位を一刀両断にした。

 ※

 数々のハプニングがあったが、エントランスは本来の静寂を取り戻した。

「風花、ごめん…ごめんね……」

 タルタロスに十日分居た事による精神的疲労と、空腹から来る肉体的な消耗が重なり、気を失った風花。夏紀はそんな風花の頭を膝に乗せて楽な姿勢にしてやりながらも涙を流して謝罪し続けていた。
 桜を始めとした面々は、その光景にやり遂げた達成感と、これで良かったという安心感を覚える。無茶な強行軍ではあったが、それだけのリスクを負った甲斐はあったのだ。

「ん……。あ、桜?」
「ゆかり、気が付いた! 立てる? 痛む所はない?」
「頭ぐらぐらするけど大丈夫…って、え、私今まで気絶してた!? しかも桐条先輩の膝で!?」

 うん、と何の気なしに友人は肯いた。
 意識の戻ったゆかりは、自分が置かれていた状況を把握するなり、赤面したり狼狽したりとせわしなく表情を変えている。どうやら戦闘中、シャドウに吹き飛ばされて以降はずっとこんな感じだったらしい。
 女性同士、意識が飛んでいたとはいえ、膝枕という行為に羞恥と戸惑いを隠せない。
 美鶴と桜の手を借りて立ち上がったゆかりは、ふとエントランスを見回してあるものに目が止まった。

「……桜、あれ何してんの?」

 つい、と指さされた先――転送装置に近い場所では正座を強要され、くどくどと真田の説教を受けて頭を垂れる夏帆がいた。

「見たまんま、だね」
「当然だろう。私の説教は明彦ほど甘くはないがな」
「(先輩達の顔も三度まで……)そもそも、どうしてあの子が?」

 言葉の最後は桜へと向けられ、説明を求められた彼女はタルタロスに潜入した直後からこれまでの経緯を語って聞かせる。話が終わる頃には、ゆかりもすっかり呆れ顔で

「夏帆って、無茶するのが好きなの?」

 本人が聞いていれば、即座に「好きでやってんじゃないや」と反論の1つでも飛んできただろう。……本人が聞いていれば。
 だが、その後の真田からの説教――今の状況は夏帆にとって予測可能であり、回避不可能であった事が諦め気味の顔色から窺えた。
 正座に慣れていないらしい夏帆は「勘弁してくださいよ……」と懇願しつつ痺れた足を時折もぞもぞさせている。
 無論、仁王立ちで説教中の真田がそれを許す筈はない。注意とともに爪先で膝小僧に衝撃を与えられた夏帆が悶絶する、こんな展開が既に三度繰り返されていた。

「明彦、続きは後日だ。今日の影時間が明ける、引き上げよう」
「やった、美鶴先輩だけに鶴の、っ……!? さ、真田先輩の鬼、ぷろていんじゃんきぃ……(誤字に非ず)!」
「バカ言ってるんじゃない。帰るぞ」

 美鶴の撤退指示に顔を輝かせた夏帆の膝に、流れるような動作でシメの一撃が入った。痺れのあまり床に転がった夏帆の足を、終始野次馬に徹していた順平がツンツンとつつく。
 膝を抱え込んで丸まった彼女は暫く再起不能そうなので、桜が途中まで一緒に帰る事を告げてその場に残った。

「立てる?」
「む、無理……。順平のやつ明日覚えてろ……」

 曲げていた足を数ミリずつ伸ばし、大の字で寝転がる。こちらを見下ろす桜を見上げたるとぱちりと目が合い、なんとなく紅色の瞳を直視していれば視界から少女が引っ込んだ。
 不思議に思って首を持ち上げると、なんだか腹部にすーすーと爽快感を感じる。

「? っ…………て、待て待てタイムストップ!! さり気なく人の服めくんな!?」
「なんだか辛そうだったから……」
「だからってそれはないと思うんですよリーダー。戦闘中にバクステとかサイドステップしてたの知ってるでしょうが!?」

 ゴロロローッと床を転がり、心配性な彼女の手から逃れる。服に付いた埃を払って立ち上がると、

「いや心配してくれたのは純粋にありがたいけどやっぱそれなりに恥ずかしいワケで……」
「はいはい、じゃあ明日あたり病院に行ってしっかり検査してもらってね。病院の前にこっちだけど」
「ガンスルーですか桜さん」

 くい、と腕を引かれて誘導される。桜と手を繋いだ影響だろうか。思考がクリアになり、自分の内外を問わず、今まで見えていなかったものが視える。
 目指す先には、蒼い輝きを放つ扉。以前あれだけ探して影も形もなかったそれが、目の前で開かれようとしていた。

「桜、これってさ」
「知り合いに呼ばれててね。夏帆も一緒に行こ?」

 スカートのポケットから取り出されたのは、顔の二分してを白と黒で彩られた仮面の装飾が施された鍵。器用に指の間でくるくると回すと、静かに鍵穴へ差し込んだ。
 自分も、と言われても、夏帆はこの部屋に用件など無い。ワイルドでもないのに彼らが呼ぶ理由は何だろう。白く染まりゆく世界の中で1つ、はたとある事を思い出した。

 ※

「――ようこそ、ベルベットルームへ」

 ――夢心地、現実味がない。蒼一色で統一された部屋の中で、夏帆はどこかぼんやりと歓迎を受けた。
 声の主は、探す手間も要らずすぐに見つかった。まず目を引いたのは人間では有り得ない程に伸びた鼻、今にも零れ落ちそうだと思わせるぎょろりとした目。
 ここに招いた少女は、老人と対面の位置に設置された椅子に座っており、椅子のない夏帆は所在なく立ち尽くすしかない。

「……おや。貴方はあの時お見かけした方ですな。こうして会い見えるのは初めてですか。私はイゴール、ここベルベットルームの主をしております」

 顎の下で組んだ指を小さく動かし、老人の目が夏帆を視界に収める。こちらも礼儀として自己紹介すべきと分かっていたが、先に口を突いて出たのは疑問だった。

「見かけた……? う…じゃなかった、すみません。私には、あなた方との接点がありません。それを作るキッカケも作りようが、」
「左様。この部屋は意識と無意識の狭間に位置しており、物質的な場所ではありませぬ。しかし、故に成し得る。ふとした拍子に人の無意識に繋がる事が」

 聞き取りやすく紡がれたイゴールの説明を、夏帆は落ち着いて脳内で噛み砕き、理解する。
 ベルベットルームの在りようは知っている。この部屋に居る時は現実と時間の進み方が異なり、また訪れるには“契約の鍵”が必要。しかし、夏帆は初め鍵を持たず部屋に続く扉を探していた。

(なら何で……。いやひょっとして……)

 イゴールから視線を逸らし、疑問点を整理していると、右斜め前に座る桜と目が合う。彼女はこてんと首を傾げると

「すごいね、なんで分かったの? ここに居るのがイゴール1人じゃないって」
「……ぃや、え……っと(し、しまった口が、ナチュラルに口が滑った)」

 ――桜の指摘に頭から一気に血の気が引いていく感覚がする。引きすぎて寒気までする。失態、とんでもない大ポカだった。
 ここへ足を踏み入れた時点で、あの3姉弟の事も連想していた為、あまりにも自然に、気が付いたら“あなた方” と口にしてしまった。何とか取り繕おうと頭をフル回転させるが、一度出た言葉は取り消しが効かない。
 言い訳に適した言葉が見つからずもごもごと言いあぐねる。キィ、と新たな扉が開いた音も耳には入らずに。

「あ、テオ。……と、誰?」
「ん? ――――ぇ」

 桜がテオ、と名を呼んだ青年は、被っていた帽子を手に取り、胸の前に当てて軽く一礼する。様々な依頼をこなし、親睦を深めてきた彼の背後から姿を見せたのは、彼とよく似た雰囲気の、小柄な女性だった。
 テオ――本名テオドア。彼はイゴールの座るソファ脇に辞書らしき分厚い本を携えて佇む。そして、テオに続いて現れた女性が、一歩ずつ桜達の方へと歩み寄って行った。
 より正確には、彼女の姿を認識して驚きのあまり石化している夏帆の真正面。
 ふりふり、と青い手袋に包まれた手が夏帆の視界で揺れる。それでもなお固まっている友人に桜が声を掛けようかと椅子から立ちかけた瞬間、

 ――ばんっ。

「に゛ゃっ!?」
「これ、エリザベス。お客人に粗相なきようにと言ったでしょう」

 それは、女性が持っていた分厚い本を開き、勢いよく閉じた音だった。びっくー! なんて効果音が付きそうなほど大仰に肩を跳ね上げた夏帆の意識が、やっと帰ってくる。
 イゴールにたしなめられた女性は、くすくすと悪戯に成功した子供の笑みを零しながら「申し訳ありません」と手を差し出してきた。

「こうしてお目に掛かるのは、初めてでございますね。私、ベルベットルームのエレベーターガールを務めております、エリザベスと申します」
「あ、はい。高野夏帆です。宜しくお願い、します?」

 初対面ながらにフリーダムだなコンニャロウ、と思うが、一先ず暴れる心臓を抑えつつ差し出された手を握り返す。

「それと……これは貴方様の大切な物では?」
「(うわ実物手ェほっそいなー)はい? ……!?」

 そっと離れたエリザベスの右手が、体の横ではなく着ていたワンピースの裾へ流れる。すると、再び上がったその手には室内のスポットライトの光を反射する“何か”が乗っていた。
 胸の前へ差し出されたそれを、夏帆が見間違う事はない。この世界には居ない唯一無二の親友――木野宮凪とのツーショットが収められた、ロケットペンダント。
 息を呑んだ夏帆の首に、「失礼いたします」と青い手がペンダントを掛ける。紛失していた事実など、今の今まで思いもしなかった。

「これ、どこで……っ!?」

 考えるより先に、体は彼女へ詰め寄りそうになっていた。

「どうかお静かに」

 唇に人差し指の腹が触れ、我に返る。それでも落ち着きをなくしてそわそわする夏帆に、横合いからもう1人の案内人の声が滑り込んだ。

「姉上がタルタロスを散歩中に拾われたそうなのです。私どもはそこに写る方を存じませんでしたので、以前桜様にお心当たりがないかお訊ねしたところ……」
「どう見ても片っぽは夏帆だったから、もしかしてって思って。それで来てもらったの。その時にイゴール達も話を進めれば一石二鳥だしね」

 少女がテオの言葉を引き継ぐ。それに付け足す形で、再び青い彼女が口を開いた。

「死神と対峙されていらっしゃった事は、覚えておいでですか?」
「なんで知って、る……」

 タルタロス探索から生還し、目が覚めたあの日から常々疑問に思っていた事にも、この発言を聞けば合点がいく。アストライアが自分を抱えてエントランスへ帰還するまで、刈り取る者は何をしていたか。
 あの状況を思い返せば、まずトドメを刺そうとしただろう。しかしそれが行われずに済んだから、こうしてここで高野夏帆は生きている。つまり、意識の無い夏帆を抱えたアストライアが戦闘から離脱して転送装置へ転がり込むまで、第三者が刈り取る者の行く手を阻んでいた。
 当時の仲間達には不可能、だがここの住人達ならば自由に部屋と塔内を行き来し、尚且つシャドウなどものともしない。生けるチートなのだ、むしろ指の一振りで……否、視線だけでも並のシャドウは消滅しそうだ。

「ええ、まさしくその通りでございます。私が通りかかったのは偶然でした。アレは綺麗さっぱり消し去りましたが、ふと足下を見ると、見事な意匠の首飾りが。そうして私、そこに写る方達にお会いしてみたくなりました」

 今の発言には、気になった点がいくつかある。が、それらは一旦全て棚上げだ。夏帆は背筋を伸ばすと眼前の彼女をしっかり見据えて腰から深く折り、最敬礼で感謝を表す。
 確定だ。ここで自分が生きていられるのは、エリザベスの気紛れと彼女があの場所に足を運んだという偶然が重なったからに他ならない。

「――ありがとうございました。貴方は、命の恩人です。何度心からの礼を言っても足りないくらいに」
「夏帆……」

 なんという幸運か。この世界に来てからというもの、一生分の運を使い果たす勢いで様々な人物が夏帆に九死に一生を得させてくれてきた。

「キリはついたようですな。これから、貴方もここのお客人となる。本日はここまでにしておきましょう、今度はご自分でお越しになられるといい」
「では、これを。この部屋へ通じる扉の鍵でございます。最後に、ここへご署名していただきます」

 イゴールが座ったまま指を軽く振る。すると、部屋の中心である丸テーブルにA4サイズの紙が浮かび上がった。その前には、桜が腰を下ろす椅子とよく似通った形の椅子が現れる。
 エリザベスに促されるまま、ストンと座るとまず文面に目を通す。そこには

(“我、自ら選び取りし、いかなる結末も受け入れん”……か。実際に契約書って形で突きつけられると何かこう、重いなぁ……)

 文章に指を這わせ、何度も読み返し。頭に叩き込む。この先どうなろうと、もう後戻りはできないが……。

「? 夏帆どうしたの??」

 同じ契約者を肩越しに顧みれば、テオドアと談笑していた彼女が気付いて問いかけてくる。

「や、なんでも。そんで、ここに署名で良かったんでしたっけ?」

 胸の中にある憂いを誤魔化し、契約書の署名欄を指さして老人に問う。是、と返ってきた答えに会釈し、意を決して名を書き込んだ。記入の終わった契約書は、そのままイゴールの手元へとテレポートする。

「では、これにて。契約の内容、ゆめお忘れなきように……」

 どこか念を押す響きを持つ声に小さくも深く頷いて見せる。椅子から腰を上げると、音に反応した青い青年が新たな客人に会釈を送ってきた。立ち上がる桜の手を取り、扉までエスコートする。

(どっからどう見ても乙女ゲーシチュです本当にありがとうございました)

 夏帆的には、こんな光景をこれから見る機会が増えるのかと考えるとそれだけで胸焼けがしそうだが、口には出さずなんとか喉元で我慢した。……気のせいか、砂糖で口の中がざらつく。

(独り身にはキツイワーショウジキナイワー)

 これがまさしく主人公補正。格の違いを見せつけられたところで、扉の前で案内人達と部屋の主人に向き直る。

「それじゃ、今日は帰ります。またね、テオ」
「ええ。お気をつけて。またのお越しをお待ちしております」
「うちもお暇させてもらいます。コレ、ありがとうございましたエリザベスさん。今後ともよろしく」
「こちらこそ。お気軽にお越しください、貴方様のこれからに心から期待しております」

 エリザベスから渡された鍵は制服の胸ポケットへ。最後に改めて握手を交わすと、桜がノブを回した。
 再び視界が白く染まり、色を取り戻した時にはタルタロスのエントランスにつっ立っていた。背後には先程まで居た部屋の扉。胸ポケットでは契約者の鍵がぼんやり青白い光を纏って発光している。

「~~~~はーっ、今日は疲れたねぇ。山岸さん救出に大型シャドウ。どっちも無事に済んで結果上々!」

 大きく伸びをしながらゆっくりと歩き出す桜。声には確かに疲労が滲んでいたが、連続して降りかかった難題を解決した達成感にも満ちている。
 だが、明日も普通に学校がある。早く帰ろうと友人の手を取るが、それは握り返されず力無く地についた。それだけで、一気に桜の中で焦りが高まる。何事かと思い夏帆と同じようにしゃがみ込むと、友人は辛そうに残った右手で顔を覆っていた。
 覗き込んで顔色を窺えば、唇の血色が悪く限りなく紫色に近い。明らかな体調不良だ。

「夏帆……顔真っ青だよ。アパート遠いよね、寮まで歩ける? 辛そうだし肩貸すよ?」
「そ、こまでではな……ごめん、ある。凄まじく視界が歪んどって……」

 タルタロス内と大型シャドウで無茶しまくった反動、たぶんいや絶対。微かに掠れた声で申告してきた夏帆を見て、桜は思い出す。自分達は正規のメンバーとして既に両手で数えられない回数のアタックを繰り返してきた。
 しかし、夏帆は騒動があった初回以降、ずっと入院しており探索に加わる事は不可能だった。記憶が確かなら、今回でようやく二度目となる。体調を崩すのは無理もない。

(よく考えたら、夏帆って地味に病み上がり……)

 ポートアイランドの裏路地に行った日や、今日の昼間もさしたる不調は見られなかった。本人にも病み上がりの意識はなかったのだろうか。1ヶ月病院のベットで過ごして、体力が衰えたというのも考えられる。
 もう影時間が明ける。明日の、というか今日の登校は一緒にすればいい。数秒で結論は導き出された。小刻みに笑う膝を押さえつける態勢のまま静止する友人に、肩を貸そうと腕を伸ばす。
 違和感は、指先が俯く友人の肩に触れた瞬間にやってきた。長湯で逆上せた時の感覚に近い。指から腕を伝い、脳がその感覚を認識する。

「(大丈夫、ちゃんと夏帆だよ)……夏帆。ほら、行こう?」

 放課後に起きた口論の最中に感じた違和感は、一度目より強烈で間隔の短い刹那の事だった。伸ばした手は体の横に引っ込む。口と手の動きが一致しない矛盾は気力で振り払い、もう一度友人の肩に手を置いた。
 ――そこに、夏帆の右手が重なる。元から体温が低いのだろうか、雨季特有のひんやりとした感触が伝わって来る。

「冷たいね……」
「こーゆー時は特になんだよ。お言葉に甘えていい? テキトーな空き部屋でいいから」

 やせ我慢して1人で歩き出そうとする夏帆の片腕を、自分の首の後ろへと導く。てっきり拒否されるかと思ったが、その気力もないのだろう。
 が、しかしである。いくら寮の空き部屋がある程度掃除されたものでも、体調不良の仲間を寝かせるには抵抗があった。故に桜が連れて行ったのは、女性用フロアの空き部屋ではなく……。

「はい、予備の毛布と枕と敷き布団と目覚まし時計。あとパジャマ代わりに私のジャージ」
「……話が違くないですか? 何故にうちは桜のお部屋に連行されている? てか、なにジャージ放かってんのさリーダー」
「文句は聞きません。ほら学校あるから寝た寝た! 早めに起こすから1回アパート帰って寮の前に集合ね」

 部屋に帰り次第、寝具一式を瞬く間に用意して就寝の準備を整えた。出入り口となる部屋のドア及び窓は、オルフェウスとアプサラスに見張らせているので、夏帆に逃走経路はない。
 じとーっと抗議したげな夏帆の視線を、布団に潜り込んでシャットアウトする。暫く気配を窺えば、諦めて毛布を被る音がしてきた。

「負けました。一晩お世話になりまーす、おやすみ桜」
「うん、おやすみ。明日、購買でチョココロネ奢ってね」
「超ナチュラルにたかられた!? や、良いけど。きつかったし助かった。喜んで奢らせて頂きます」

 おやすみー、と告げた夏帆に「おやすみ」と返す。数回深呼吸してリラックスすれば、自然と張り詰めていた精神がほぐれていった。
 意識が眠りに落ちる瞬間まで、リーダーの少女は早くも今後の作戦について考えを巡らせるのだった。
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