移ろいの風

 山岸風花という人間は、良く言ってお淑やかで控えめ、悪く言って引っ込み思案で周囲に流される人間である。
 性格のせいで頻繁にいじめに遭い、今回はクラスメイトの森山夏希とその取り巻きによって体育館に閉じ込められた。誰もいない暗闇に放置された事は心細かったが、思い返せば今ほどではない。
 こうして壁を盾に隠れる回数を数えるのも億劫に感じられるようになってきた頃、彼女は自分の胃が強く空腹を訴えている事に気が付いて、その場にうずくまった。

「お腹、空いた……」

 苛めによって疲弊した精神に追い打ちをかけられる形で、自分は謎の怪物から逃げ回っている。どこに身を潜めれば怪物をやり過ごす事が出来るのか、漠然と解る。
 時折近くを通り過ぎる足音は人間のものではなく、例えるのなら水を全く絞っていないモップでモップ掛けをするような音。
 だが、足音の主は並みいる怪物の中でも低級の低級。いわゆる雑魚である。なぜこんな場所に放り出された自分がそこまで理解出来るのか、彼女自身にも解らない。

「っ、また……」

 石のように重くなった足に鞭打ち、次の安全地帯に移動する。いつ怪物に見つかってもおかしくない。見つかってしまえばどうしようもない。
 恐怖と混乱に圧し負けそうになるが、彼女の生存本能がかろうじて正気を繋ぎとめていた。
 いっそ、この場で倒れてしまえたらどれだけ楽だろう。そう思った時、朦朧とした彼女の意識に今までとは違う音が引っかかった。

「な、に、だれか……いるの……」

 ノイズまみれであったが、それは確かに人の声。これは……女性?
 自分の他にも人間がいた。その事実が折れかかった彼女の心と体を突き動かす。

「だれ、かいるの……? どこ?」

 何時間も水分を摂っていない為、掠れた声しか出ない。さらにこの時、彼女は声を追う事に必死になるあまり、隠れていた場所から一歩外へ踏み出してしまった。

「あっ……!」

 気付いた時にはもう遅い。目の前には人面が三つ積み重なった塔の怪物と、ハートのような形の顔をした女性型の怪物が迫っていた。
 逃げろ、と本能が叫ぶ。だが怪物達の前では自分はあまりにも非力。逃げろといっても方法が無い――。

「い……やぁぁああ……っ!」

 体の内側から来る恐怖をそのままに叫ぶ。頭を抱えてうずくまった彼女は死を覚悟し、現実を見ないように強く目を瞑って、

 ――そのまま動かないようにねー。

 どこかから聞こえた命令。咄嗟により深く頭を抱え込むと、突如何かに引き寄せられた。

「ふー、まさに危機一髪」
「……え?」

 自分を引き寄せたらしい相手の声が間近で聞こえて、風花は顔をあげた。同じ月高の生徒だろうか、左右に好き放題に跳ねた髪を鬱陶しそうにハンチング帽の中に押し込んでいる。
 服装は女子の制服の上に、網目の荒い薄手のベージュ色をしたカーディガンを羽織っている。
 状況を把握しきれず風花が茫然としていると、獲物を横取りされた怪物達が一斉に飛びかかってきた。
 少女はそれを鬱陶しそうに睨み、風花に持っていた小包を無言で預ける。そして体を深く沈めると、バネのように怪物に向かって一気に飛び出した。

「うらぁ!」

 ハートの頭を持つ怪物の攻撃を紙一重で掻い潜り、塔の怪物の懐に飛び込む。そのままスピードを殺さず、左足を軸に渾身の回し蹴りを放った。
 呻き、痛みに揺れる人面の塔。しかし大きく体を反らしたかと思うと、最上段の顔が彼女めがけて頭突きを仕掛ける。

「あ、ぶないっ!」

 風花の警告の受け、少女は右へ転がった。勢い余って態勢を崩した塔は、そのまま横倒しなり身動きできない状態になる。その隙をついて、少女は風花の元へ戻って来た。

「三十六計逃げるに如かず、勝てない戦いはしないっての。山岸さん、立てる?」
「え? あ、はい……」

 相手の顔は、風花からでは窺い知れない。背中越しに問われ、反射的に頷く。それを確認した少女は、怪物達の前に何かを投げつけた。ボフッという音と共に、辺り一面が真っ白な煙に包まれる。
 煙玉の煙幕で怪物達が騒ぐのを尻目に、彼女は虚空に向かって声をかけた。

「道は確保した、逃げるぞー」

 声に呼応して、彼女の傍らに巨大な人影が浮かび上がる。風無き室内でさらさらとなびく銀髪。身体は首から下が金属質ではあるが、女性的な体躯。
 何よりも印象的なのは、凛々しくも洗練された、黄金の瞳の輝きだった。
 ソレは右腕を少女の腹部に回して木材よろしく持ち上げ、左腕では風花を落とさないようそっと腰に手を回す。その扱いの差に、異形にしがみついた風花の反対側で少女が猛然と手足をばたつかせていた。
 女性型の異形は抗議を黙殺し、音もなく駆ける。右へ左へ、時には直進。怪物はあっという間に見る影もなくなり、やがて行き着いた場所は、三方向が壁に囲まれた階段の存在する部屋。

「うぎゃ!」

 部屋に入るなり、少女は腕を離され顔面から床とこんにちはする羽目になった。正反対に、風花は普通に立たされる。
 落とされた恩人は床に突っ伏したままのびており、動きが見られない。不安になってきた風花がそっと手を伸ばした時、

「もっとマシな扱いにならんのかあぁあ!」
「きゃっ」

 ややドスの利いた怒声と、飛び起きた少女の迫力に竦む風花。少女は、彼女の反応に自分以外の人間が居た事を思い出したのか、「やってしまった」と言いたげな表情をしてから顔を背けた。
 何とも言えない気まずい空気が流れる。2人がまごついている間に、彼女達をここまで運んだ異形は姿を消していた。
 ぶつけようのない怒りに、握った拳が震える。だが、ここで勝手に爆発してしまっては、余計に風花を混乱させる。
 自分に言い聞かせてから、半身への怒りは胸の奥深く、海より深い所に押し込む。何度か大きく深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせ、ひとまず初対面用の笑顔を取り繕った。

「すーはー、すーはー……よし。えーっと、とりあえず自己紹介するね。2-F所属の高野夏帆です。初めまして、山岸風花さん」
「は、初めまして。私、名前言ってないけど……」
「うん。あなたが居ない間に学校でちょっと騒ぎが起こって、ちょいヤバ気な事態に発展しかかってるんだ。で、これ以上の悪化はマズイから助けに来たって具合かな」

 騒ぎに、と聞いて腰を浮かせかけた風花を片手でやんわり押しとどめ、階段に座らせる。
 なおもそわそわと落ち着きをなくしかけている彼女を何とかするべく、夏帆は腰のウエストポーチから水の入ったペットボトルと飴を数個手渡した。

「とりあえず声カラカラだし、水分摂って。落ち着いたら言ってね。また移動しようか」
「ありがとう、えっと、高野さん」

 会話の途絶えた空間に、きゅぽ、と蓋の開く音が響く。減っていくボトルの中身を横目で確認しつつ、夏帆は頭の中で今後のプランを練る。

(あいつらがどこにいるかってのが分かんないのは、案外キツイな。居場所の目星が付けば、そこまで連れては行けそうなんだけど)

 かと言って、このままでは色々と手遅れになってしまう危険性が――

「……?」

 ふと視線を感じて首を横に向ける。そこには、心配そうにこちらを窺う風花。幾分か顔色も最初に会った時よりマシになり、移動する分には多少の余裕もありそうだ。

(……あ、そうだ)

「あのさ、山岸さん。あなたを助ける前ってどうしてたのかな?」
「それは……あの怪物たちの居場所がなんとなく分かったから死角になる場所に隠れていました。どうしてかは、私にも……」
「む? それじゃあ、あの瞬間はどうして?」

 カッコつけた登場であった事は自覚している。あわや迷子となりかけていたところで風花の悲鳴が聴こえたので、声を頼りに急行した、これが真実。
 なので、そんな彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。隠れたままならあのシャドウ達はやり過ごせたのではないだろうか。
 しかし、夏帆の頭は自分の存在を感じ取って風花が物陰から出て来たという可能性に至らない。その為、疑問符を浮かべるばかりである。
 すると、風花はペットボトルを包む両手に力を込めた。微かな震えは恐怖か、はたまた別のものが原因かは夏帆には分からないが、なんとなく聞いてはいけない事に触れてしまったような予感がする。

(ありゃ、地雷踏んづけたっぽい? KYか、うち?)

 ついついクセで思考がボケの方向を向く。だが、物足りない。元の世界ではボケる度に親友が突っ込んでくれたが、今はそれを望めないのだ、ボケ甲斐がない。

(こんなんじゃ、満足出来ないぜー)

 そもそも、既にボケていられる状況でもなくなってしまった。周囲の音に耳を傾ければ、くぐもったシャドウたちの唸り声が聞こえる。それらは徐々にこの部屋へ近づいており、もう長居も出来そうにない。
 唸り声が聞こえたらしい風花が、立ち上がって夏帆に一歩近付く。先程までの恐怖が蘇ってきたのか、腕を掴んだ手の震えが大きい。
 それを見て、夏帆は瞑目する。逃走用の煙玉はあれ1つ、単騎でシャドウの山を抜けられはしない。と、なればこの場を切り抜ける方法は……

(気が引けるけど……死ぬのもお断りだしなぁ)

「山岸さん」

 緊張で乾いた唇を軽く舐め、腕を掴んでいた彼女の手に自分の手を重ねる。

「――協力、して貰えないかな?」

 何を、と説明する暇は無い。ただ、あなたの力が必要だ。それを告げると、風花は静かに頷いた。
 出会って間もないこちらを信頼する眼。それを見て夏帆は思う。タルタロスを彷徨う間に、彼女は自分が非日常に放り込まれた事実を少なからず受け入れたのではないか、と。みっともなくこんな風にしか動けない自分より、何倍も芯が強い。
 心強い味方に、感謝の意を込めた会釈を送る。同時に、やはり彼らとの差がより明確にされた気がした。……今更、ではあるが。

(とにかく、今は風花を桜達の所まで無傷で送らないといけない)

 腰から提げたポーチに手を伸ばす。一度は手放そうとした召喚器のグリップを音が聞こえる程の力で握りしめ、銃口をこめかみにあてがった。

「アストライア」

 ぶわり、と体の底から何かが湧き上がる、浮遊感に似た慣れた感覚。薄氷が割れる音と共に姿を現した彼女に手を伸ばす。心なしか、繋いだ手を通じてアストライアが何か語りかけてくるような気がした。
 風花も抱き上げ、態勢を整える。ここからは2人での共同作業だ。風花のナビゲーションを頼りに、必要最低限の戦闘で一気にタルタロスを駆け抜ける。同フロアに長時間留まり続けていれば、刈り取る者も出現し、生存率は極端に低下する。
 さあ、命賭けの鬼ごっこの始まりだ。鬼はこのフロアの全てのシャドウ、捕まれば……。

「考える前にまず行動。ナビゲートお願いするよ、山岸さん」
「はいっ……!」
「――行くぞ!」

 夏帆の号令で、アストライアが飛び出した。理屈は不明だが、シャドウは階段の部屋に足を踏み入れる事が出来ない。刈り取る者も例外ではない。その為、この部屋はタルタロス内での絶対的安全圏となる。
 そんな安全圏から飛び出した夏帆達を、部屋の入口付近に群がっていたあらゆる種類のシャドウが追跡してきた。
 風花を襲った塔のシャドウ、ダンサー、夏帆がアストライアを得るきっかけとなったレイヴン系。ゲームではもう少し上の階で出現するシャドウもちらほらと混ざっていた。
 予想外の数に一瞬夏帆は怯むが、“先手必勝”とアストライアが攻撃魔法によって牽制した事で道が拓けた。
 それでも、一度の攻撃では足らない。可能な限りの最高速度で疾走するアストライアに抱えられたまま、夏帆は前を向いていた体を無理やり反転させた。風を受けて暴れる髪をハンチング帽の上から左手で押さえつけ、シャドウの群れに向けた右手に意識を集中する。

「しつっ……こい!」

 翳した手を、ぶん、と振り下ろす。目の前の空間を縦真っ二つに裂くように強くイメージすると、夏帆の手から生まれたいくつもの白光するエネルギー弾がシャドウの群れに降り注いだ。
 大きさがまちまちの弾は、着弾と同時に爆発し、追っ手の足を鈍らせる。だが、それも数秒に過ぎなかった。爆風の中から金切り声が響くと、漂っていた煙が一瞬で晴らされる。レイヴン系のシャドウ達が翼で風を起こしたのだ。

「ちっ……! どうしろってのさ、この大群……!」
「次、右です、その次はそこの角を左に曲がって!」

 カラス型、あんたら仕事しすぎだ! 先ほどより勢いを増してきたシャドウ達に向かって叫ぶ口調が荒っぽくなる。休む暇もなく夏帆が足止めに奮戦する間にも、アストライアは風花の指示通りに進んで行く。

「なんの、これしきっ……!」

 直撃させるより、当たらない場所に魔法を放ち、爆風と煙を生み出し続けるが、長続きはしなかった。アストライアの習得している魔法は万能属性の『メギド』のみ。初めは何の冗談かと思ったが、いくら確認しても他の初級スキルは無かった。

(っ……頭が、ぐらぐらしてきたっ……)

 片手で数える程度しかタルタロスに潜っていない夏帆の体が、悲鳴を上げ始めた。息切れに似た苦しさと吐き気、強引な長時間の召喚のせいで、激しい頭痛が意識を蝕む。

「高野さん、大丈夫ですか!?」

 遠のきかけた意識が、風花の声に引き戻される。震えそうな唇を動かして「問題ない」とだけ返し、再び右手を振り上げた時だった。

「――ミックスレイド、『ジャックブラザーズ』!」

 突如響いた声。次の瞬間、シャドウの群れの先頭が、通路の前方から飛来した赤と青の光弾を喰らってたたらを踏んだ。足止めするようにシャドウ達の周囲を高速で旋回する光に既視感を覚えるも、じっと確認する暇が無い。

「夏帆、こっち。早く!!」
「まさか……アストライアっ」

 考えるより先に、口は半身の名を呼んでいた。未だに後方で群れの足止めをしている2つの光に礼を呟き、声の主の元に向かう。
 追い縋ろうとした1体に、渾身のメギドを見舞い、夏帆達は彼女との合流を果たした。

「良かった、やっぱり夏帆だった!」
「ハハ…助かった、よ。リーダー……」

 フロアの一角、エントランスに直接転移するワープ装置の傍に桜は居た。息も絶え絶えに床にへたり込んだ夏帆は、安堵のあまり咳き込みながら

「しっ、死ぬかと、思ったっ……!!」
「もー、来ないと思ってたら件の山岸さんと一緒にリアル鬼ごっこしてるんだもん、びっくりしたよ。通信機も持ってなかったでしょ?」
「もーしわけない。いや、にしても寿命縮まった……」
『あんな無茶したら当然ホ』
「ですよねー……ん?」

 今、何かが会話に割り込まなかったか? 語尾に「ホ」と付いて――

『これって、アレかホ? なんとか危機一髪だホ?』
『黒ひげヒホ?』
「ランタン、フロスト。早く戻って」
『『分かったホー』』
「…………はい?」

 バイバイホー、と手を振って薄れていくどこか見覚えのある存在。開いた口が塞がらない、とはこういう状況を指して使うのだろうと思って、

「はぁぁああ!?」
「わっ夏帆声おっきいよ!」
「ちょ、なんじゃこりゃ、まるで意味が分からんモゴ…!」

 驚愕のあまり絶叫した夏帆の口を、咄嗟に桜が塞いだ。ごく自然に会話が成立していたが、今のは……。

「(混じってた! ナチュラルに何か人外が混じってた!)」
「(私のペルソナだよ、ジャックフロストとジャックランタン)」
「(さ、さいで…。てか、桜だけ? 他は?)」
「(まだ見つかってないの。このフロアは全部回った?)」
「(いや、彼女を保護してからはずっと階段の部屋にいたから……)」

 ひそひそと小声で言葉を交わし合う二人。桜は、それに乗じてさり気なく夏帆の表情の変化を注意深く観察していった。
 まだ辺りを警戒しているが、夏帆の表情は幾らか和らいいる。先程までの切羽詰まった感じは抜けており、どれだけ危険な逃走劇をしてきたのか容易に想像がつく。
 とりあえず、風花に自己紹介をしようと桜は立ち上がり――何かに気付いて耳を澄ませた。

《か……、聞こ……か!?》
「……真田先輩?」

 音の発信源は、桜の腰に提げられた通信機だった。
 ノイズ音に紛れて殆ど聞き取れないが、受話口から漏れる音声は間違いなく真田のもの。耳元に通信機を寄せて聞き取りに集中する桜の隣で、夏帆が「げ……」と身を引いた。昼にあんな事があった手前、気まずいのだ。
 桜はその様子に苦笑してから、液晶モニタ脇にある応答ボタンを押すと、

《神路、聞こえたら応答しろ!》
「大丈夫です、聞こえます」
《おっしゃー、やっと繋がったー! おせーよ桜ッチ!》
「順平! 二人とも合流してたんですね!」
《ああ、割と早くな。どこにいるんだ? そっちに向かおう。山岸風花も見つけないといけないしな》
「あ、山岸さんなら……」

 言葉の途中で通信機を少し遠ざけ、斜め前に立つ本人を見る。彼女は、夏帆と一緒にのど飴を食べていた。聞き耳を立てていたらしい夏帆と桜の目が合う。
 ……物凄い勢いで、首と手を左右に振られた。これは「うちがいる事をばらすな」と言いたいのだろう、と桜は当たりをつけて

「私が保護しました。今は落ち着いているみたいです」
《ぉおっしゃー、生きてたー!》
《うるさいぞ順平、静かにしないか。目的は達したな、合流して美鶴達の所に戻るぞ》
「分かりました」
《けど真田さん、さっきからやたらとシャドウが多くないッスか?》
《ああ、俺もそう感じる。美鶴にも繋がらないのはおかしいな》

 順平の指摘した、シャドウの多さ。それはここまでの道中で桜も感じていた事だった。幸い、彼女には複数のペルソナを扱う『ワイルド』の能力がある為、単騎でもしらみ潰しに弱点を探す事が可能だ。
 その分、精神に掛かる負担は増すが。一人きりの戦闘においてはやむを得ない。
 しかし、通信機が繋がらないのは拙い。リーダーとして、タルタロスに潜る際の外部からのサポートがどれだけ重要であるかは身に染みている。例えるなら、命綱無しで絶壁からバンジージャンプするようなものなのだ。
 単なる通信状況の悪さから来るものか、それとも別の原因があるのか。顎に手を当てて考えるが、埒が明かない。

《とにかく、棒立ちになっていたらシャドウの格好の的だ。まずは合流しよう》
「先輩達はどの辺にいるんですか?」
《ちょっと待て。…………よし、今そっちに現在地を送信した。点滅する二つのオレンジ色のマーカーが俺達だ》

 真田の言葉が終わると同時に、通信機からピピピッと短く電子音が鳴った。自分達を表すマーカーからそう遠くない場所に、2つ分、新たにマーカーが出現する。

《美鶴から聞いたが、そのマーカーは人間の生命反応を感知して表示されるらしい。ところで神路、なんでそっちは3つなんだ?》
「あ、あー……それはですね……」

 この疑問に、どう答えたものか。3つの内、2つは自分と夏帆だ。風花も衰弱してはいるが、自力で立っているだけの力はある。これで3つ。
 しかし、真田との会話が聞こえていたらしい夏帆は隅で頭を抱え、背を向けてしゃがみ込んでいる。……そこまで会いたくないか。

《なぁ、桜ッチ。もしかして、夏帆ッチもいるのか?》
「…………うん。いるよ」

 夏帆の存在に思い至ったのだろう。確信めいた順平の問いに、迷った後、桜はそれを肯定した。途端、耳に夏帆の声にならない抗議が届く。

「(肯定しないで、否定してよ!?)」
「(気付かれちゃったんだし、もう隠しても無駄な気しない?)」
「(ンな殺生なー!?)」
《高野、いるんだろう。何も話さず単独行動に出た件は、美鶴や理事長に話を通させてもらう》
「待って下さい、うちは……!」
《言い訳は後で聞く。自分が何をしたか、合流するまでに考えておくんだ》

 逃げ道を塞がれた。しかも、昼間に夏帆を問い詰めた時のように声は低かった。姿は見えないのに真正面から睥睨されている錯覚に陥った夏帆は、無意識の内に息を詰める。

《お前にも悪気はないんだろう。けどな、何と言おうが俺達は同じ力を持つ仲間だ。それにこのまま逃げ続けていたら、いつか本当に命を落とすぞ》

 通信機から語り掛けてくる声の内容は、全くの正論。それでいて重みと真剣味を帯びている。困り果てて桜に助けを求めようとした夏帆だったが、ふと胸のしこりが軽くなっ事を感じ、観念して両手を肩の高さまで上げた。
 指摘されたのは悔しくもあるが、一歩分だけ背中を押された気がする。同時に、誰かに指摘して欲しかったのだという矛盾に気が付く。

「……そうですね。我が儘な言い分振り回してたのは、うちの方です。あぁはい、つくづく敵わないですね~…」
《なら、協力してくれるな?》
「嬉しさが端に滲んでますねー、先輩。力不足ですがやれるだけやってみますよ、ほ・け・つ・ですが」
《なんだ、調子が戻ってきたんじゃないか。さて、神路。山岸風花を連れて来られるか?》

 話が戻り、真田の声音もいつも聞いていた声に戻った。桜は移動に関して、提案を持ち掛ける。自分達は転送装置の傍にいるので、二人がこちらに向かえないかと。

《……そうだな、そちらの方がリスクも少なく済むか》
《んじゃー、ちょっと待ってろよ!》
「うん。二人も、気をつけてね」

 通信が終わり、腰のポーチに通信機を収める。そうして安堵の息を吐くと、桜は夏帆に向き直り、スカートのポケットからある物を取り出した。

「はいコレ」
「はは……ちゃっかりしすぎじゃないか? リーダー」

 手渡されたのは、深紅の腕章。シワが伸ばされ、新品同様になったS.E.E.Sの証に苦笑を禁じ得ない。
 受け取った腕章を腕に通し、ピンで固定する。満足気に微笑む桜に背を叩かれるが、不思議と悪い気はしなかった。

「あ。あと、一段落着いたら話したい事があるから」
「話? ならここでも…」

 いいんじゃないか、続けようとした所で、夏帆の耳に遠くの方で床を蹴る音が届く。来た来た、と桜が足音の方へ向かうと、タイミングを見計らっていたのか風花が夏帆の側へ歩み寄った。

「山岸さん、まずはここから出るから。ま、移動は超短距離だし気楽にね」
「ありがとうございます。高野さんは、体、大丈夫ですか?」
「へーきへーき、なんて言うか、こればっかは慣れるしかないし」

 さもなくばデッドエンド、とオマケのように付け加えられる。

「じゃー、説教覚悟で行きますかー」

 伸びをしながら仲間の元に歩いていく夏帆。その背に続こうと風花が一歩を踏み出した瞬間、

「――っ!?」

 がくん、と膝が折れる。あっけなく床に両膝をつけた風花の異変に、全員が駆け寄って来る。

「お、おい、その子大丈夫かよ!?」
「大丈夫な訳あるか!これだけの時間、タルタロスに居たんだ。順平、お前が背負え」

 真田の指示で、夏帆と桜が肩を貸して風花を順平の背中に背負わせる。
――その時、突然フロア全体が激しい揺れに見舞われた。完全に風花を背負いきれていなかった順平が、不意打ちに驚き態勢を崩しかける。

「うぉあ!?」
「ばっ、アホ、ヒト背負った状態でバランス崩すな!」
「わざとじゃねーって!」
「っととと……。山岸さん、怪我ない?」
「なんとか平気です。皆さんは……」

 順平の背からずり落ちそうになった風花を、桜は咄嗟の判断でオルフェウスを召喚してかっさらった。
 オルフェウスの片腕に大人しく抱き抱えられた彼女に「心配ないよ」と笑顔を浮かべると、半身に目配せを送る。

「きゃっ」
「こっちの方が安全性高いね」

 風花の姿勢を横抱き――いわゆるお姫様抱っこに変えさせる。勢いで口論を始めた2人への喧嘩両成敗は真田に任せ、転送装置へ近付いた。

「あ、あのっ、気を付けて下さい、その先に……何か居ます!」

 あと一歩で足が装置の効果範囲内に入るという瞬間、風花の警告が先へ進む事を押し止めた。彼女が声を大にして警告した“その先”はエントランスだ。切迫した風花の報せに、仲間達の緊張感が一気に高まっていく。

「どういう意味だ?」
「この先に、今までの怪物とは比較にならない何かが…。けどコレ、人を…襲ってる……!?」

 怪訝な顔で訊ねた真田の声が耳に入っていないのか、風花は自分の頭を押さえている。青白い彼女の様子から分かるのは、エントランスでただならぬ事態が発生したという事。
 真田の頭が、現在の状況と風花の言葉を組み合わせて高速で1つの仮説を導き出した。通信機の不調、風花を襲っていたであろう怪物……シャドウ。そして、自分達が立つこの場所から見える外の景色。

「なるほど、奴らか! くそっ、先手を取られた!」
「揺れが、不規則かつ、断続的なんですけど、のんびりしてる場合じゃ、なくなってんじゃないですか!」
「ああ、まったくもってその通りだ! 美鶴達に何かあったんだ、そう考えれば通信が繋がらないのも納得がいく」

 ズン…ズズン、と先程から揺れる足元に全員がかつてない危機感を覚えた。あわあわとバランスを取りながら立ち上がった夏帆に投げやりな返事を返し、彼はフロアの窓に走り寄る。
 見上げた夜空に鎮座するのは、一片も欠けた部分の無い、見事な金色の満月。影時間特有の雲に隠れきらない巨大さは、まるで自分達を見られているようで気味が悪い。

「おい順平。前のモノレール、あれも確か満月の時に起きたよな?」
「そッスよ。オレ、はっきり覚えてますから」
「で、寮が襲撃された時も満月だった。神路」
「衝撃的でしたし、忘れようがないですね」

 後輩達が揃って首を縦に振った。嫌な予感ほどよく当たる。仮説が的中した事に苛立ちを感じ、歯噛みした真田だったが、即座に召喚器を手に取り頭を切り替えた。

「今すぐ戻るぞ。恐らく奴らは、満月に現れるんだ」
「でもゆかりと桐条先輩が下に……襲われてるのって、ゆかり達!?」
「え、マジ!? は、早く行こうぜ皆!」

 騒然としながら一斉に転送装置へ駆ける仲間達。次々とかき消える背中を見届けた夏帆も、一度満月を見上げた後にエントランスへワープした。
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