移ろいの風

 昼食後の5限は、学生なら誰しも睡魔に襲われる魔の時間である。それが座席は後列かつ教師の目が自分に向いていなければなおのこと。
 既に8度目になる欠伸を噛み殺し、夏帆は目の動きだけで教室内を見渡した。今は保健の江戸川によるオカルト、もとい魔術の授業中なのだが、真面目に聞いている生徒は半数以下といったところか。
 仲間内では順平が机に突っ伏してアウト。桜とゆかりは咎められない程度に何かノートに書いているようだが、流石に内容までは分からない。

(そもそも高校の授業で保健と称してカルトチックな授業ってOKなのか?)

 鼻と上唇の間にシャープペンシルを挟んだまま机に両肘をついた視線の先には、教壇で怪しげに笑いつつ授業を進める白衣の教師。
 つまらないわけではない。寧ろ、ゲーム中では部分的にしか聞くことの出来なかった授業だ、どちらかと言えば好奇心の方が勝っている。
 授業ノートにはこれでもかと言わんばかりに魔術的な単語が書き連ねられていた。現国とこの教科に限られるが、試験対策は万全だ。

 ――キーンコーンカーンコーン……。

「おおっと、今日はここまでですねえ。はい、じゃあサヨウナラ。復習しとかないとこの世ならざる神秘に出くわしちゃいますよ、ヒヒ」

(センセー、既に出くわしているのですがー)

 授業終了のチャイムが鳴り、江戸川はそんなセリフと独特の笑いを残して退室する。去っていった白衣にそんな一言を投げかけてから、夏帆は「さあ帰ろう」と迅速に帰宅準備を終えて席を立つ。

「待って夏帆、帰っちゃダメだよ」

 その時、どことなく慌てた様子の桜が背後から追いつき、夏帆の手を掴む。ご丁寧に両手で掴まれているので、動くに動けない。

「んん、桜? あれ、なんで連行されてんだ? おーい」

 なんだか、最近は引っ張られるパターンが多い。考え事をしながら彼女に手を引かれるままやって来たのは、生徒会室。そこにいたのは美鶴、真田、順平、ゆかり。
 生徒会室とこのメンバーが揃い踏みである事、この二点が結びつき、ようやく納得がいった。

(今日、風花の救出日だったのか……すっかり忘れてた)

 であれば、ここからの話が外部に漏れるのはよろしくない。生徒会室のドアを静かに閉め、施錠する。

「危なかったですよー。夏帆ってばすぐに帰ろうとしてたんです」
「すまなかったな、神路。それに高野も」
「いえ、今日はゲーセンにでも寄ろうかと思ってただけなんで、お気遣いなく。このメンバーって事はもしかしなくてもコッチですか?」

 右手で銃を形作り、こめかみを打つ仕草を見せる。肯いた美鶴は、メンバーの顔を一通り見回してから一度咳払いをして、話を始めた。

「今夜、この学園への潜入作戦を行う。目的は“山岸風花の救出”だ」
「あのー、オレ、イマイチ分かんないンすけど、山岸って子は学校に……?」
「それ私も思った。大体、夜にはこの学校って……」

 真っ先に手を挙げたのは順平だった。山岸風花の失踪はシャドウ絡み、その事は彼なりに理解していても、救出作戦に関しては疑問が残ったままらしい。
 そして、疑問を持つのはゆかりもであった。桜から美鶴の行った“事情聴取”の一部始終を伝え聞いたものの、ある事に対して根本的に疑問が残る。

 “深夜0時、影時間にこの校舎はタルタロスと化す”

 全員が共通認識している事だが、一般人は影時間には象徴化してしまうので、当然公にはならない。故に、彼らの謎は深まるばかりである。
 互いに顔を見やる2年生。すると、美鶴が壁に掛かったホワイトボードに何かを書き始めた。中央には円柱。その左上には小さく「タルタロス」と書き込まれ、対面には高等部の校舎。
 双方を矢印で結んだその図は、簡略化されていたが昼夜の月光館学園の姿だった。

「岳羽の言うとおりだ。山岸もそうやって、タルタロスに迷い込んだ」
「み……桐条先輩、いいですか?」
「何だ?」

 きゅ、とマーカーの動きを止め、美鶴が振り返る。夏帆は彼女の隣に立ち、もう一本のマーカーを手に取った。
 きゅきゅきゅ、きゅっ、と書き込まれる棒人間。申し訳程度に胸元にリボンが着けられていて、メンバー達はそれで棒人間が山岸風花なのだと理解する。
 更に、その棒人間から矢印がタルタロスへ伸びている。全体的に見ると、山岸風花の現状だろう。

「夏帆ッチ、絵ニガテ……?」
「うっさい黙れ、こういうのはシンプルな方が分かりやすいんだよっ」

 順平に残念な子を見るような視線を向けられ、夏帆は即座に反論する。顔が赤く見えたのは、恐らく夕日のせい……という事にしよう。そして照れ隠しに、丸めた新聞紙で順平をポカポカボコボコと殴打している。どこから出した、とは突っ込んではいけない。

「おい、遊んでいる時じゃないぞ!」
「すいません……」
「イテテ、こんだけ叩かなくても」

 真田の叱責に、夏帆はすごすご生徒会室の窓際に移動する。気が済んだらしく、ずれた帽子を直しながら何かブツブツ呟く順平は既に眼中に無かった。
 一連のやり取りを見ていたゆかりと桜は思う。この2人、実は結構似た者同士ではないのかと。
 そこから、話は再び山岸風花救出作戦に戻る。先刻の順平、ゆかりの疑問に関しては真田が推論を口にした。

「考えてもみろ。そもそもタルタロスの出現時間は影時間のみなんだ。それなら、日中の間彼女はどこにいる?」
「ええ……っと? そう言われれば、どこだ?」
「うちに振んな。丸投げかアンタは」
「桜、想像つく?」
「んー……。ダメかも」

 首を捻る後輩達。影時間はおよそ1時間ほどであり、時が経てば学園は元の姿に戻るのだが、どうにもそこから先は分からない。
 真田は顔を突き合わせる彼らに「こいつは俺の推測だが」と前置きして話を再開した。

「彼女、山岸風花はあの日からずっとタルタロスにいる。そして彼女にとっては1日も経っていないだろう」
「? でも先輩、タルタロスってシャドウの巣で、私達でさえあれだけ疲れるんですよ?」
「加えて、シャドウに襲われていないとも限らない。楽観的に捉えると後が怖いですよ」

 ゆかりの言葉に続いて、夏帆が自らの体験を語る。言葉尻にちらり、と真田の様子に変化がないか確認した――直後。生徒会室に鈍い打撃音が響き渡り、夏帆以外の2年生の肩が驚きで跳ねた。
 音の発生源は、真田が拳を叩きつけたテーブル。あらん限りの力が込められた拳はテーブルの上で小さく震えている。

「ならっ、このまま見捨てるのか!」
「明彦、落ち着け。冷静でなければ作戦も立たない」

 怒りの籠った声。感情をむき出しにして吼える彼の肩に美鶴が手を置き、冷静になるよう促す。真田は数十秒ほど興奮冷めあらぬ状態だったが、やがて落ち着きを取り戻したのか腕を組んでテーブルに凭れ掛かった。

「2人とも、言いたい事は理解できる。しかし今は山岸風花の救出が我々の目的だ、いいな?」
「はい」
「……ああ」
「なら、話を続けよう」

 仲間内での騒動に発展しなかった事に安堵しつつ、美鶴は会話を引き継ぐ。それに伴い、今の彼らのの言い分を簡単にまとめていく。

「明彦の言いたい事は、生存率が0%でない以上、救出を諦めるべきではない。高野は、山岸風花の安全は保障されているわけでなく――」
「策無しに闇雲に突っ込んでも危険だ、と言いたかったんですけど……。すみません、何分こういう性格なモンで」
「最初から言えばいいだろう……」

 ぶつくさ小声で文句を言う真田だが、瞳からは先程までの激情が薄れつつある。
 「今後は注意してくれ」と言いたげな彼の視線を受けた夏帆は「すみません」と小さく頭を下げた。今後は、揚げ足を取る物言いを極力控えようと頭の片隅に置きながら。

「では差しあたって、作戦の詳細を考えよう」
「問題は、山岸さんがタルタロスのどこにいるのかって点ですね」

 うーん、と桜が唸る。あの超高層のタルタロス内で風花を発見しなければ、最悪、二重遭難の可能性もありうるのだ。そこを指摘する現場リーダー。当然、美鶴も同じ事を憂いていた。

「あのー、先輩」
「どうかしたか、高野」

 最善の策はないかと各々が思考に埋没する中、先刻の騒動で幾らか大人しくなった夏帆がそろ~っと挙手した。心なしか、首が短くなっているように見える。

「効率重視なら、作戦ないこともないんですけど……」

 ですけどね、と突然そこで口を濁す。普段は遠慮なくものを言う夏帆が、待てども先を口にしようとしない。
 全員が夏帆の続きを待つ間、生徒会室は静寂に包まれた。遠くから聞こえる鴉の泣き声だけが、唯一のBGMとなっている。中々続きを話そうとしない彼女に一部が痺れを切らせかけた頃、

「最短距離で行く場合……影時間の開始時に校舎にいれば、おのずと着くんじゃないですか?」
「! そうか!」
「真田さん、オレには何が何だか……。ゆかりッチと桜ッチも頷いてないでおしえてくれよ!」

 自分だけが理解できていない。焦る順平に、説明を求められた2人が解説を始める。
 彼女達の話を要約はこうだ。山岸風花は、影時間のタルタロス出現と共に迷宮内部へ迷い込んだ。現在位置の分からない状況では、タルタロスの外から入れば場所の特定に時間を掛け、更にそこから救助に向かえば倍の時間を消費する。
 だが、あらかじめタルタロス出現に合わせて校内で待機しておけば、自ずと風花のいる場所との距離を詰められる、という三段だ。
 ――そして、作戦内容の話し合いの結果、深夜の校舎にて潜入作戦の決行が決定。それに際し、美鶴から全員にある物が渡された。
 鈍色の、携帯電話程のサイズをした通信機。曰く、従来の通信機に桐条グループで出来る限りのレベルアップを図った改良品だと言う。

「影時間中の通信手段だからな。今までは私が一括で管理していたが、各自に預けようと思う。今後は出歩く際に必ず所持するように」

 私の探索能力にも限界がある、と美鶴は歯がゆそうに付け加えた。本来、彼女のペルソナは戦闘タイプに属する。探索能力は微々たるものの為、機材のサポートを欠く事が出来ない。
 サポート役としての力不足を痛感しているようで、悔しげに歯を噛む美鶴。そこに桜が、「人には向き不向きがありますから、仕方ありませんよ」と下から覗き込むように笑いかけてフォロー。
 ありがとう、と頬を緩めた美鶴に覇気が戻る。数秒間の瞑目ののち、大きな咳払いをしてから再度メンバーを見渡した。

「ここまでで、何か質問や意見のある者はいるか?」
「あ、はいはーい。ちょっといいですか」

 参考までに、と告げられた言葉に反応が返る。誰かは見なくとも全員が分かっていた。――夏帆だ。
 開け放たれた窓に腰を下ろし、両足を交互にぶらぶらさせている。一定のリズムで動く足は見る者によっては機械的な印象を与えるだろう。美鶴と目が合うと、夏帆は若干勢いをつけて窓枠から飛び下りた。
 そして、

「ウチ、今日パスで」

 その一言は、仲間に雷に打たれたような衝撃を与えた。それもそう、夏帆は風花の救出作戦に加わらないと言っている。

「っ、どういうつもりだ、高野!?」

 廊下まで聞こえているのでは、と思わせる、憤った真田の怒声。大股で近付いた彼は、伸ばせば夏帆の胸ぐらを掴めるほどの至近距離で歩みを止めた。

(夏帆……?)

 そんな中、桜の第六感に何かが引っ掛かった。ここに来る前と今の友人では、何かが違う。強烈な違和感が、夏帆を取り巻いている。
 どこが変化したのか確認しようと試みるが、彼女の立ち位置からでは、真田の後ろ姿に隠されて夏帆の顔は見えない。
 加えて、普段の寮では見ない真田の剣幕に、圧倒されたゆかりと順平が息を呑む。美鶴は2人を止めようと手を伸ばし、途中で何か思い直したのか口を閉ざした。
 一方、夏帆は詰め寄られてもさして動じず、義憤に駆られる彼から眼を逸らした。ふぅ、とこれ見よがしに溜め息を吐けば、正面から耳障りな歯軋りの音が聞こえる。
 生理的に受け付けられない怪音に不快感を煽られ、見上げる瞳には剣呑さが混じる。そこで交わる両者の視線。
 放っておいてほしい、と言いたげに眇められた視線と、それを咎める視線がぶつかり合い火花を散らす。外野が干渉しなくとも、着火・爆発・炎上は時間の問題だ。

「助けられる命があるんだぞ、見捨てるつもりか?」
「見捨てる? ……ああ。確かに、誰も動かなければ見捨てる事になりますね」
「冗談でもそんな事を言うな。人数が多ければ彼女を早期発見、保護出来る。そうすれば、」
「行方知れずの山岸さんは無事に復学。犠牲も無く幽霊騒動は収束し万々歳、ですか」

 結構じゃないですか、と顔を背けた後輩。まるで人命を軽視するような態度に、くすぶり続けていたものが一気に燃え上がり、今度こそ爆発した。

「ふざけるのも大概にしろ! 人の命を何だと思っている!」
「………………」
「俺達がやらなければ誰がやる!? 誰が彼女を救ってやれる!」
「好きにすればいいんじゃないか?」
「何、っ!?」

 煮えたぎる感情のまま反論しようとした真田だったが、胸に乱暴に布切れが叩きつけられて口を噤む。全員の視線が自然と布切れに集中して、誰かが「あ……」と呟いた。
 重力に従って床に落ちたソレは、特別課外活動部の一員である証の深紅の腕章。くしゃくしゃになるまで繰り返し強く握られたのだろう。あちこちにシワが寄り、S.E.E.Sの文字が歪んでいる。

「先輩、覚えてないんですか? ウチは先輩が桜達とお見舞いに来られた日に言いました、S.E.E.Sには所属出来ないと」

 正規の参加は表明せず、勧誘時は補欠要員という妥協案で手を打った。だのに、この流れはどうか。このままでは、自分がS.E.E.Sの正規部員としてに自然と組み込まれかねない状況だ。
 夏帆とて、ロクに戦闘経験も無い自分が戦場に出るべきでないのは自覚済み。胸の内にコルタールに似たどす黒いしこりのあるままでは、作戦加入など出来よう筈がなかった。

「この際ハッキリ言います。戦力としてアテにしているのなら、意味ないですよ。壁にはなると思いますが」

 真田の足下に落ちた腕章を拾い上げ、横を通り過ぎる。テーブルに置かれた鞄から召喚器を取り出し、横に腕章と並べて置いた。

「桐条先輩、これ、お返しします」
「……!? それは駄目だ、危険過ぎる」

 コツコツとヒールの音を響かせた美鶴が、夏帆の手にしっかりと召喚器を押しつける。ご丁寧に召喚器を乗せた彼女の両手を、自分の両手で上下から挟む念の入りようだ。
 ムッと文句を言いたげにひよこ口を作る夏帆だが、手が離される気配は一向にしない。むしろ、力がより強まっている。

「いいか、ただでさえ、君は不安定なんだ。せめて記憶が戻るまでは護身用に持っていてくれ」
「記憶……? 美鶴、高野の記憶がどうかしたのか」
「彼女はシャドウに襲われた時に、それより前の記憶を失っ――」
「それ以上言わないでもらえます?」

 感情など、微塵も感じられなかった。一瞬、本当に夏帆の声かと聞き間違う程の抑揚の無さ。美鶴は気を取られ、隙を突かれて両手を振り解かれてしまう。
 声の主は召喚器を鞄に戻して帰り支度を整え、話はないと言わんばかりに全速力で扉に向かう。止める間もなく速攻で鍵を外し、扉を全開にして走り去ってしまった。
 机の上には、腕章のみが取り残されている。そっと手に取った桜は、開け放たれた扉から廊下を窺うが、ちらほらと帰宅していない生徒達の談笑が聞こえるだけ。

「あいつは……。一体どういうつもりなんだ……」

 近くのパイプ椅子に腰を下ろした真田が、額に手をやり重い溜め息を吐く。
 ――そこへ。

「桐条先輩、さっき、なんか言いかけてませんでした?」

 一度窓から校庭を覗き見たゆかりが、先刻のやりとりを話に持ちだした。しかし問われた美鶴は黙して答えない。
 ここで言ってしまっていいのか、という迷いが解答を躊躇わせていた。彼女自身、夏帆が召喚器を手放すのを咄嗟に阻止しようとした結果の行動なので、決して悪気があった訳ではなかったのだが。

「俺も気になるな。美鶴、知っているなら話してくれないか?」
「真田さん、あいつがいないのにそれは………」

 若干、焦ったように順平から制止の声があがる。本人の了承も無く、先の夏帆の様子では、記憶の事に触れるのは控えた方が――

「桐条先輩」

 落ち着きのある呼び声に、全員の視線がそこに向かう。それを受け止めた彼女は、ただ黙って頷いた。

 *

「夏帆」

 学校から逃げるように帰路に着いた夏帆は、そのままポロニアンモールの眞宵堂に直行していた。カウンターに座っていた店主への挨拶もそこそこに、以前から自室と化していた部屋に向かう。
 後を追った店主は部屋の前で名前を呼ぶが反応は無い。夏帆の部屋のドアには「ほっといて下さい。ただ今自己嫌悪中です」と手書きで書かれたA4の紙が貼ってあった。
 店に入って来た時から、様子がどうにもおかしいと感じてはいた。全体的にどんよりと湿った空気が取り巻いているというか、頭上に分厚い灰色の雲が浮かんでいるようなテンションの低さ。

(本当に、しょうもない子だ)

 恐らく、何か学校で一悶着あったのだろう。ノックの為に胸の高さまで上げた手を、そのまま顎にやる。

(……さて)

「夏帆、今夜はここに居るかい?」

 明日も学校だが、泊まりなら少しだけ夕食を豪華にする予定だ。大まかなメニューを考えながらドアの向こうに問いかけると、十秒の間を置いて「いえ、夜になる前にはお暇します……」と返答があった。

「おや、てっきり自棄食いにでも走るのかと思ってたのに、しないのかい」
「しません。気付いたら突っ走ってるんですよ、親友によく“猪突猛進が服着て歩いてる”って言われてたんですけどついクセが……」
「で、後から冷静に振り返って反省会、と」
「ソーデスヨー」

 話している内に気分が落ち着くどころか、余計に落ち込んでいる。ドアに耳を当てると、はぁぁあああ、と盛大な溜め息が聴こえた。
 部屋に閉じこもる前に顔を見た限りでは、後先考えず行動してしまった結果、“やってしまった”と悔いているようだ。一晩経てば、頭も冷えるだろう。

「私は店に戻るよ。帰りは顔出しな、裏口から帰るのはナシ」
「え~~……」

 ブーイングを受け流し、店舗の方に足を向ける。遠くでチリンチリンと鈴の鳴る音がした。来客の訪問で、店主の脳裏に1つのアイデアが浮かぶ。押して駄目なら引いてみろ、と言ったところか。

「じゃ、しばらくしたら、また様子見に来るよ」

 それだけ言い残して店に戻る。予想通り、カウンター前には神路桜と名乗った少女が待っていた。

「あ、こんにちは」
「いらっしゃい、すっかりあんたも常連さんだね」

 会釈してきた彼女に、軽く手を挙げて応える。このやりとりも、定番となってきた。
 眞宵堂は、決して客の入りが良いとは言えない。同じポロニアンモール内のカラオケ店“マンゴドラ”やゲームセンター“ゲームパニック”といった月光館学園の生徒の興味を引く店ではないからだ。
 たまに老人や中高年のサラリーマンがちらほらと立ち寄るばかり。売上に関しては、元々趣味の延長線上で開いた店なので気にしない。例外は、戸籍上の親族である夏帆と、複数のペルソナを身に宿すこの少女。
 近頃は、シャドウの魔窟とも呼べるタルタロス探索における戦力強化の為、こちらが桐条グループ所属時代にシャドウやペルソナの力を物質化させたアイテムとの交換に頻繁に訪れる。
 それにしても、皮肉なものだ。若りし頃に身の危険を感じて、二度と関わるまいと誓ったのに、結局この人工島を離れられず、再び陰ながら関わりを持ってしまった。

「あの……、どうかしましたか?」
「! あぁ、ごめんよ、ちょっと考え事をね」

 さて、彼女にどう話を持ちかけようか。とりあえず、いつも通り商売を始めよう。

「今日は何の御用だい?」
「補助アイテムの交換に。マジックミラーとフィジカルミラーを2個ずつください」
「はいよ、毎度あり」

 マジックミラーとフィジカルミラーは、それぞれ戦闘中に使用者を相手の魔法・物理攻撃から守護するアイテムだ。
 本来彼らに渡すのは暫く先の予定だったが、今後の探索の危険を多少なりとも軽減する方が重要。命を落としてからでは遅いのだ。

「あのさ、桜ちゃん」

 アイテムを詰めた紙袋を手渡しながら、店主は店の奥、住居スペースに続くドアを指差した。ドアの前まで移動し、桜を手招きで呼び寄せる。

「“関係者以外立ち入り禁止”って書いてありますけど……」
「そりゃそうだ。こっから先は私達の住居だからね」
「あなたと……夏帆の?」

 店主に促されてドアノブを捻り、手前に引く。数歩だけお邪魔したそこには、靴箱と傘立てのみの簡素な玄関と、真っ直ぐに伸びた廊下の先に複数のドアが見えた。
 その中の1つ、最も玄関に近い左手のドアを見た時、桜の思考は「ん?」となった。ドアに貼られた白紙の表面の文字、字体がやや崩れているが、あれは夏帆の字だ。

「気付いたかい、あそこは夏帆の部屋なんだ。帰ってくるなり閉じこもって、出て来ないけどね」
「あの……、桐条先輩がポロッと言ってましたけど、夏帆って記憶に不備があるんですか?」

 あの後、結局は上手くはぐらかされてしまった質問。分かったのは、彼女の記憶がシャドウの襲撃を受けた日に失われてしまったという事のみ。勧誘の時に「殺されかけた」と笑っていたソレが原因だと。
 それを話すと、店主は「……そうだね、アンタには聞いて貰おうかな」とドアを閉めて店内にUターンした。

「何か飲み物を持ってくるよ、適当に座って待ってな」

 桜に展示品である椅子を勧め、店主は給湯室と札の掛かったドアの向こうに消える。
 しばらくして林檎ジュースとアイスコーヒーを載せた盆を運んで来た店主が、桜にジュースを手渡してカウンターに落ち着いた。

「どこから話せばいいのかな。私が夏帆と出会ってのは、あの子が私の店先に倒れていたからだった」

 コーヒーを一口含んで、静かに店主は語り出した。桜は聞き漏らすまいと背筋を伸ばして話に集中している。

「左足首に酷い火傷を負っていてね。他にもちらほらと火傷があった。最初は黒沢の所に預けようかと思ったんだ。けど、目を覚ましたあの子が話した体験は、化け物に襲われたという内容だった」
「シャドウ、ですね」

 肯く店主。一般的な観点からすれば荒唐無稽で到底信じられない話だが、自分には一蹴出来る内容ではなかった。彼女が桐条の関係者であったが故に。

「夏帆の疲労はピークだったんだろうね。そこまで話したあの子はまた眠ってしまったけど、ペルソナが…アストライアが姿を現したんだ」
「ペルソナが、自分の意思で出て来たんですか?」

 問いつつも、桜自身が有り得ない話ではないと分かっていた。
 タルタロス初探索時に起きた事件。召喚の意志に関わらずオルフェウスが、イオが、ヘルメスが現れたあの時の事は鮮明に覚えている。
 そこで、桜はある事を思い出して膝に置いた鞄からある物を取り出した。

「!」

 驚いた店主の目の色が変化する。忘れもしない、それは彼女が残し、捨て去った記録。
 ――人工島計画文書。
 無言でカウンターに置かれた紙面を見つめ、重々しい溜め息を吐いた店主は、半ばうなだれるように額に手を当てた。

「何かご存知なんですか?」

 この反応、確実に何か知っている。そんな確信と共に対して、店主は

「どこで見つけた…とは聞くまでもなさそうだね」
「はい。タルタロスで」
「そう……。それはね、私が書いた」
「あなたが?」

 筆者の名は記されておらず、パソコンで打たれた明朝体の文字列。所々が破れかかっていたが、文面はしっかりと残っていたので読む分には問題ない。

「今はそれくらいしか言えないかな、申し訳ないけどね。まさかタルタロスに遺されていたなんて想像してなかったから」

 疲れたような色を滲ませて謝罪する店主に、桜は何も言えなかった。ただ首を左右に振り、出されたジュースに口をつける。
 無音になった店内に、コチ、コチ、コチ、と置き時計の針が時を刻む音だけが響く。外のモールで月光館学園の生徒達が楽しげに騒ぐ声が、遠い場所の事に桜には感じられた。
 何か手掛かりが掴めたら、と考えただけだったが、思いもよらない人物が文書の筆者だと判明しただけでも十分だった。文書を鞄へ戻すと、空気を変える為か店主は深呼吸を繰り返す。

「そうだ。話は変わるけど。桜ちゃん、今日は何かあるのかい?」
「えと、E組の山岸風花さんを助けにタルタロスへ……」
「それなら私も小耳に挟んだよ、だからアイテムの調達に?」
「はい」

 桜の答えを聞くと、店主はおもむろに立ち上がった。住居へと続くドアの前で立ち止まり、目で追っていた桜を振り返る。

「現場リーダーさんから見て、今の夏帆はどうだい?」

 唐突な質問。だが、これまでの友人を思い返した桜は店主の目を見て、率直に

「ちゃんと仲間になってくれたら、と思います。そうなってくれたら心強いです」
「……ありがとう。夏帆も、踏ん切りが付かないだけだろうね。きっと、頭では分かってるんだと思う」

 まだまだ子供だ、と呟きを零した彼女は、ゆっくりとドア開け放った。そしてその奥に続く空間を指差すと、桜に1つの頼み事をするのだった。
1/3ページ